龍族の王に
「違う、目を上げるのが早い!」と信明が叫んだ。「お前ほんとにやる気あんのか!王にお目通りなど、やっぱりお前には無理だ!」
明人はぷるぷると膝を震わせて、礼の仕方とやらを教え込まれていた。こんなこと、芝居や映画の中だけのことだったんじゃねぇのか?なんでオレがこんなことしてるんだ?
明人は思ったが、あの維心とかいう王の無言の気の圧力は知っているので、黙って父の言うなりになっていた。母は慌ててパート先から帰って来ていたのだが、その様子にため息をついた。
「やっぱり、こんな日が来るのはわかってたんだから、生まれた時から最低限のことは躾けとくべきだったのかしら。でもねえ、私達がお顔を見ることすら叶わない王に、まさかお目通りなんてあり得ることとは思わないものねえ…。」
「なんだよ、お袋まで!」明人は言った。「なんで今まで言わなかった?オレ…オレ…神なんてやってらんねぇよ!」
明人が立ち上がったのを見て、父が追おうとしたが、母が足を掴んだ。
「あんたね、もうこれ以上逃げても駄目よ。人の世では、あなたこれから先はよっぽど頑張って頭使わなきゃ食べて行くのもつらくなる。もう、こうなったら、神の世界へ戻るよりないのよ!」
明人は、さっき父に聞かされた、事実を思い出していた…。
父は車に戻って開口一番、言った。
「オレ達は龍だ」とエンジンを掛けながら、「母さんとオレは人の世で知り合った龍同士なんでぇ。つまりお前も龍なんだよ。」
明人は理解し切れなかった。
「え?龍ってなんだよ、つまり人間じゃねぇ?」
信明はクソッと舌打ちした。
「そうかお前はバカだったな」と考え、「正月なんかに干支の絵書いたヤツ送って来てたろう。アレの龍だ。人じゃねえよ、神なんだ。」
「神いいい?なんだよそりゃあ!」
父は泣きそうな顔になった。
「お前神も知らねえのか。カタカナのネみたいなのに横に確定申告の申を書くやつだ。そんな所から教えるんじゃ、とても今晩王にお目通りするなんて無理だ!」
明人は不審げに父を見た。
「何言ってんだよ、オレより親父の方がヤバいんじゃねぇのか。そんなもんが世の中に存在するってぇのかよ!」
父はギアを入れながら言った。
「お前なてめぇの存在をてめぇで全否定してんだぞ。」と車を進め出した。「さっきのは龍の、いや、神の中の王なんでぇ。本当なら、口も利くことならねぇぐらいなんだが、オレがもう一度お前を連れて王の領内へ行こうと思ったら、王に聞いてもらうのが一番手っ取り早いのよ。今日、オレが作業していたら、懐かしい王の気がしたもんで、慌てて探しに来たって訳だ。お会いできるなんて奇跡に近いんだぞ!滅多に外へ出ないかただったのに…妃の買い物に付き合うなんざ、あっちの世界もどうなってんだか…。」
父は、突然黙った。どうしたのだろう。
「…親父?」
「そうだった」父は焦った表情で言った。「オレだってもうすっかり「人」が板に付いてるんだった。今更、神の世界でやってけるんだろうか。母さんもだ!」と明人を見た。「元々、母さんが神の世界になじめなかったから、こっちへ出て来たってのによ。」
そんなことオレに言われたって、自分が王に勝手に話し掛けたんじゃないのかよ。明人がそう思っていると、父はいきなり怒鳴りだした。
「あのなあ、元はと言やあお前が退学なんかなるから、母さんが心配して神の世界へ帰ろうなんて言い出して、オレもそれしかないなんて思い込んだんだぞ!あっちは力社会でこっちより厳しい。今更帰ってどうなるってんだ!」
「知らねぇよ!オレに言うな!」
明人が、何か知らないが一人でテンパっている父に困っていると、父は呟いた。
「電話だ」と携帯を出した。「母さんに言って話さなきゃならねぇ!」
そして、そのままうちへと帰って来た。
それで、今があった。
母は帰って来て父を説得し、父は明人に、とにもかくにも失礼がないような最低限の挨拶を教えていたという訳だ。
明人がなんとか片膝をついてきちんとした型が出来るようになった頃、もう日も暮れかかっていた。
「もうそろそろ行かなきゃな。」父が言った。「じゃあな、陽花。王と話して来る。ほんとにお前はそれでいいのか?」
母は頷いた。
「ええ。私も人の世に揉まれて、かなり強くなったと思うわ。この子は結局龍なのだから、人の世でずっと居る訳には行かなかったのだし。戻るなら、一刻も早くがいいのよ。」と明人を見た。「本当なら、生まれた時に戻るべきだったんだけどね…ごめんね、明人。」
明人は、母にそう言われて、どうしたらいいのかわからなかった。それでも何か答えなければと思い、言った。
「…バイト、今日は休むって言っててくれねぇか?体調壊して寝込んでるとかなんとか。」
母は笑って頷いた。
「わかったわ。」母は、そう言うと、押入れから甲冑を出して来た。あれはコスプレ衣装じゃなかったのか。「さあ、父さんの甲冑を付けて。あなたもこれを。」
青い甲冑だった。明人が小さい頃、押入れで見つけて、なぜだか憧れた衣装だった。これは、父の龍の時の甲冑だったのだ。
父は腰に刀を刺し、頭に何か冠のようなもの付けて、そこに立った。姿が、若くなっている。明人はそれだけで驚いた。
「なんだよ、若いじゃねぇか!」
父は苦笑した。
「若かねぇ。オレはもう300歳なんでぇ。それでも龍は人で言う30歳ぐらいの外見だからな。だが、人の世では、老けた外見にしねぇと、おかしいだろうが。こっちが本当のオレさ。」
明人はまさかと母を振り返った。やはりというか、母も若かった。
「なんだよ母さん、訳わかんねぇよ。」
「ごめんね」母は悲しそうに言った。「神の世界は時間感覚が違う。これが基本だと覚えておいて。」
明人は頷いた。もう信じるしかない。っていうか、本当に龍なのか。
父が窓へ向かった。
「ちなみに王は1700歳を超えてるからな。」明人は仰天した。あれで?!「まああのかたは特殊なんだ。そら、お前飛べねぇだろうが。オレの手を掴みな。」
明人は恐る恐る手を出した。飛ぶってさあ…。
「じゃあ、言ってくるぞ!」
信明は飛び上がった。明人はへっぴり腰でそれにぶら下がっていた。落とされると思うと怖くて仕方なかった…。
おそらく何よりも早かった。今まで使ったどの交通機関より早くて、目を開けていられなかったし、息が止まるかと思った。でも、止まっても死なないのはもう知っていた。
気が付くと、大きな屋敷の前に到着していた。その屋敷は高台にあり、下の村々を見降ろす場所にあり、同じ敷地内には神社があった。
中から、女が一人出て来た。昼間の維月という女ではなかったが、父はその女に言った。
「王にお取次ぎを。我は信明と申す。こちらは息子の明人。王とお目通りするお約束をしております。」
その女は頷いて頭を下げた。
「信明様。お待ち申し上げておりました。王がお待ちです。こちらへ。」
女は傍らの別の女に会釈し、その女は先に奥へと消えて行った。信明には、それが先触れだとわかっていたが、明人にはなんのことが全くわからなかった。通された部屋には、ソファがあり、大きなテレビが置いてあった。神も、人の生活をするのか?明人はそんなことを思っていた。
そのソファに座って待っていると、戸が開いて、父がガバッと立ち上がった。明人もそれに倣って慌てて立ち上がった。
入って来たのは、昼の服ではなく、着物をまとった維心と、それに手を取られた維月だった。維月は、明人が想像した通りの神の女だった。髪は結い上げられ、かんざしが所狭しと挿されてある。明人は習った通り、父と共に片膝をついて頭を下げた。これで、王が良いと言うまで頭を上げたり目を上げたりしてはいけない…。
維心は視界の隅で、前のソファへと歩き、そこへ維月と並んで腰かけた。そして言った。
「ご苦労であるな、信明」と維心は言った。「表を上げよ。」
父は顔を上げた。父は許されたけど、オレはどうしよう。明人が迷っていると、信明は念を送って来た。
《主は王に呼ばれるまで頭を上げてはならぬ。》
親父、口調が変わってるよ…。明人は思ったが、黙ってそのままで居た。
維心が苦笑した。
「良い。主の息子も表を上げよ。そこへ座るとよい。」
明人はびっくりした。念の声も聞こえたんだろうか。父は恥ずかしげに明人に合図し、二人並んでソファに腰掛けた。
「王、我らの為にお時間を割いていただき、恐縮致しております。これは息子の明人でございまする。」
明人は頭を下げた。維心は答えた。
「うむ。まだ若いの。」と座りなおした。「時間のことは、なんでもないことよ。ここは我が妃が人のおり使っておった屋敷。人もそう居らぬゆえ、かしこまる必要はない。」と維月を見た。「主にはあの折り会っておるの。我が妃、維月だ。」
信明と明人は頭を下げた。維月は何も言わずに軽く返礼した。明人は心に命じた。王の妃はじっと見てはいけない、話し掛けてはいけない、向こうが話して来たら、返事をする…。
信明は言った。
「…しかし、あの折り王はあれほど妃は娶らぬと固く臣下に言い渡しておられましたので…我は驚きましてございまする。」
維心は微笑した。
「そうよの。今でもこれ以外は娶るつもりはない。世継ぎもおるゆえ、臣下もうるそうなくなった。今はほんに気軽であるのよ。」
信明は、自分が居らぬ間に、いったい神の世がどう変わったのかますます心配になった。50年ほどしか離れておらぬのに…。
維心は、さらに続けた。
「陽花は元気にしておるか。」
信明は頷いた。
「お気づかい、恐れ入ります。変わらず健やかでありまする。」
維心は言った。
「あれが人の世で見つかった時は、大層心配したものであるが、人として育てられたゆえに、神の世になじむことが出来なんだ。主が共に我が領地を出ると申した時は、我も大丈夫なのかと気になったものよ。それが今、我に何用であるのか。」
信明は、頭を下げた。
「王よ、我ら、今一度神の世へ戻りたいと望んでおりまする。」
明人は一緒に頭を下げた。神の世はこんなに頭を下げなきゃならねぇのか…。
維心は、考え込むような表情になった。
「…しかし、主は戻る自信があるのか。一度は断念したのではないのか。主は出来ても、陽花はどうであるのだ。」
信明は顔を上げた。
「我ら、本当は二人きりで、目立たずひっそり生きて、死んで逝くつもりでおりました。しかし、思いも掛けず、最近になりまして、子が生まれ…明人はまだ18にしかなりませぬ。これにはまだ長い寿命があり、このまま何も知らず、人の世界で生きて行くのは無理だと判断しましてございます。我らは、どうにでも生きて行ける。しかし、息子は神の世へ戻してやりたいのでございます。」
維心はじっと信明を見ていたが、頷いた。
「…そうか。」と維月を見た。「では、蒼の所であるな、維月よ。」
維月は頷いた。
「はい。軍神は少ないので、喜びますでしょう。私から、申しましょう。」
信明には何のことかわからない。維心は言った。
「まあ話せば長くなるが、月の力を持つ王が、我の前の北の領地を譲って、そこへ月の宮を作って統治しておるのだ。この王は、今は月と同じ命を持つが、前は人であった。それで、人の世界からこちらへ戻るもののために、領地を解放しておる。そこへ入れば、神の世を全く知らずとも教える施設もあり、こういった」とテレビを指した。「家電とか申すものも、使うことが出来る。あくまで人として生きて来た者のために配慮された地であるのだ。我の所に戻るのも良いが、それではまた大変であろう。陽花もそこなら、やって行けるのではないか?」
信明は驚いた。この50年の間に、そんなものが出来ていたなんて!信明は再び頭を下げた。
「王、何卒、その月の宮の王へお取次ぎを。我らをそこへ、受け入れて頂けるよう、我はお頼み申す。」
維心と維月は顔を見合わせた。
そして維心が言った。
「主が頼まずとも、我が妃が伝えれば事足りる。まあこれもややこしいのでここでは説明せぬが、我の妹瑤姫は、月の王の妃であるのよ。あれは我の義弟に当たる。主らが今ここで我に言わねばならぬのは、いつそこへ参るかということだけだ。準備をするゆえな。主らも人の世の始末があろう。」
信明は明人を見た。明人はぎょっとした。まさかオレに決めろと言わねぇよな、親父よ。しかし、信明はもう一度維心を見ると、言った。
「では、来月最初の日に参りまする。北の領地へ参れば良いのでありましょうか。」
維心は頷いた。
「あの地の結界に触れれば、すぐに迎えに参るゆえ大丈夫だ。では、そのように手配する。」
維心が立ち上がったので、父はもう一度立ち上がって、膝を付いて頭を下げた。明人も慌ててそれに倣った。そしてまた、維心は維月の手を取ると、そこを出て行った。