第9話 半年間の記録
王都の空は灰色だった。
リンデンバートの澄んだ山の空気とは違う。煙突の煙と馬車の砂埃が混じった、重たい冬の空。十二月に入ったばかりの王都ヴェストブルクは、すでに冬の底にいるようだった。
ユリウスの手を握って、馬車を降りた。
王家監査院の建物は、王宮の東翼に隣接した白い石造りの三階建てだった。正面に双頭の鷲と天秤の紋章が刻まれている。封書に押されていたのと同じ紋だ。
「まま、おおきい」
ユリウスが建物を見上げて言った。
「大きいね」
手を握り直した。小さな手は温かかった。
後ろからゲルハルトがついてくる。旅装の上に、古い外套を羽織っていた。出発前に「証人として立つ」と申し出てくれたとき、断る理由はなかった。
入口で名前を告げ、聴聞室へ通された。
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聴聞室は思ったより狭かった。
長い机がひとつ。その奥に監査官が一人座っている。五十代の女性で、銀縁の眼鏡の奥の目が鋭い。机の上に書類の束と、魔力封蝋の確認器具が並んでいる。
右側に申請者席。マルガレーテがすでに座っていた。
半年ぶりに見る侯爵夫人は、記憶通りだった。銀灰の髪をきちんと結い上げ、深い紫の衣装を纏っている。背筋がまっすぐで、顎がわずかに上がっている。傍らに侍医が控えていた。
左側が被申請者席。私が座った。ゲルハルトが後ろの証人席に。ユリウスは私の膝の上だ。
マルガレーテの視線が、一瞬だけユリウスに向いた。それから私に移った。表情は変わらなかった。
監査官が開廷を告げた。
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「申請者、主張をどうぞ」
マルガレーテが立ち上がった。
「王家監査院に申し上げます。ヴァイスフェルト公爵家の嫡男ユリウスの後見権を、現養育者エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルトから移管していただきたく、申請いたしました」
声は澄んでいた。聴聞室の隅まで届く、よく通る声だ。
「理由は三点ございます。第一に、エレオノーラは当主の許可なくユリウスを公爵邸から連れ出しました。第二に、連れ出し先は帝国北部の廃村であり、医療施設も教育環境もございません。第三に、エレオノーラは継母であり、血縁のある祖母である私こそが後見人にふさわしいと考えます」
論理的だった。
一つひとつの言葉が整っていて、隙がないように聞こえる。聴聞室の空気がマルガレーテの側に傾くのを感じた。
「侍医も同席しております。ユリウスの健康状態について、専門的な見地から証言いただけます」
侍医が軽く頭を下げた。
膝の上でユリウスが身じろぎした。私の服の裾を小さな手で握っている。
「被申請者、反論をどうぞ」
監査官の声で、立ち上がった。
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鞄から革表紙のノートを取り出した。
ユリウスを椅子に座らせ、ノートを監査官の前に置いた。
「これは、私がユリウスの養育を始めた日から記録し続けている健康管理ノートです。体温、食事量、睡眠時間、夜泣きの回数、投与された薬の名前と量。半年分の記録がございます」
監査官がノートを手に取り、ページを開いた。
「まず第一点について。私は帝国法に基づく自主退去書面を作成し、魔力封蝋を施した原本を公爵邸に残置しております。無断の連れ出しではありません」
監査官が頷いた。退去書面の控えは、反論書と一緒にすでに提出してある。
「第二点について。リンデンバートは確かに小さな村です。しかし、不適切な環境であるという主張は事実と異なります」
ノートのページを指し示した。
「このノートの前半をご覧ください。公爵邸での記録です。侍医が処方を変更した時点から、ユリウスの夜泣きが増加し、微熱が三日以上継続しています。私は侍医に処方の見直しを進言しましたが、却下されました」
マルガレーテの方を見なかった。監査官だけを見た。
「後半はリンデンバートでの記録です。投薬を中止し、温泉の微温湯浴に切り替えた結果、三日目に解熱。以降、夜泣きは消失し、食欲が回復しています。現在のユリウスの状態は——」
膝の上に戻したユリウスの頭を軽く撫でた。ユリウスが監査官の方を見て、小さく手を振った。
「ご覧の通りです」
監査官の眉がわずかに動いた。ノートのページを丁寧にめくっている。
「第三点について。血縁の有無が後見の適格性を決めるのであれば、この半年間の記録をご確認ください。ユリウスの体調を記録し、異変に気づき、対処したのは私です」
声は震えなかった。
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「証拠書類を確認いたします」
監査官が言った。
「リーフェンタール伯爵の所見書を提出いただいております。読み上げます」
伯爵の所見書が読み上げられた。温泉の実地視察の結果、六つの湯溜まりの特性と十五件の症例記録を確認したこと。エレオノーラの湯治管理は合理的であり、医療知識に裏打ちされていること。養育環境として不適切とは認められないこと。
マルガレーテの指先が、机の上で組み直された。
「証人、前へ」
ゲルハルトが立ち上がった。
証人席から一歩前に出て、背筋を伸ばした。古い外套の下の体が、思ったよりも大きく見えた。
「名を」
「ゲルハルト。元ヴァイスフェルト公爵家従騎士。現在はリンデンバート村の村長を務めておる」
マルガレーテの目が細くなった。
ゲルハルトの声は聴聞室の壁に響いた。
「エレオノーラ夫人がリンデンバートに来て以来、ユリウス坊ちゃんの養育を間近で見てきた。毎日の体調確認、食事の管理、温泉を使った手当て。夫人は記録を欠かさず、子どもの些細な変化にも気づく。わしの孫娘の持病の咳も、夫人の助言で大きく改善した」
一度、言葉を切った。
「不適切な環境だと言うなら、まずあの村に来て見てから言うべきだ。夫人がどれだけ丁寧にあの子を育てているか、来れば分かる」
ゲルハルトの目が、マルガレーテをまっすぐに見た。
マルガレーテは目を逸らさなかった。けれど、唇の端がわずかに引き結ばれた。
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「当主より発言の申し出がございます」
監査官がそう告げたとき、聴聞室の扉が開いた。
ディートリヒが入ってきた。
黒い正装に着替えていた。旅装ではない。公爵家の紋章入りの外套を羽織り、髪を整えている。リンデンバートで見たどの姿とも違っていた。
聴聞室の空気が変わった。
ディートリヒは監査官の前に立ち、一礼した。
「ヴァイスフェルト公爵家当主、ディートリヒ・フォン・ヴァイスフェルトです。本聴聞に関連し、当主として申し立てがございます」
内ポケットから封書を出した。反論書とは別の、もう一通。
「公爵家の帳簿において、医療費名目の支出に不審な差額が確認されました。王都側と北部領側の双方について、参考資料を提出いたします」
封書を監査官に渡した。
「後見権の審議に先立ち、公爵家の会計監査を王家監査院に正式に申し立てます。養育環境の適切さを論じる前に、現在の公爵家の財務管理が適切であるかを確認すべきと考えます」
知らなかった。
帳簿の不正を反論書に参考資料として添えたのは私だ。けれど、会計監査の正式な申し立てを別途行うとは聞いていなかった。
ディートリヒは私の方を見なかった。監査官だけを見ていた。
マルガレーテの顔から、血の気が引いた。
唇が動いたが、声は出なかった。
監査官が参考資料を受け取り、封蝋を確認した。
「本件は、後見権移管の審議および会計監査の申し立てを含め、精査の上、追って裁定を通知いたします」
聴聞室が静まり返った。
マルガレーテが立ち上がった。侍医が後ろについて、聴聞室を出ていった。すれ違いざま、私を見た。
怒りではなかった。
あの目に浮かんでいたのは、驚きだった。
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廊下に出ると、ユリウスがディートリヒの足に駆け寄った。
「パパ、かっこいい」
ディートリヒが膝を折った。
「……何が」
「くろいふく」
正装のことだろう。ユリウスがディートリヒの外套の紋章に触れた。銀地に黒鷲。小さな指がそれをなぞる。
ゲルハルトが後ろで腕を組んで、黙ってそれを見ていた。
私もまた、黙って見ていた。
胸の奥に、温かいものと、痛いものが同時にあった。この一ヶ月で積み上げてきたものが、あの聴聞室の中で初めて形になった。ノートの記録が、温泉の湯治が、ゲルハルトの証言が、リーフェンタール伯の所見が、そしてディートリヒの申し立てが。
全部、繋がった。
まだ裁定は出ていない。けれど、裁定を待つ間に崩れるものは、もうないと思えた。
ユリウスが私を振り返った。
「まま、かえろ」
帰ろう。リンデンバートに。
「うん。帰ろう」




