表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

9/10

第9話 半年間の記録

王都の空は灰色だった。


リンデンバートの澄んだ山の空気とは違う。煙突の煙と馬車の砂埃が混じった、重たい冬の空。十二月に入ったばかりの王都ヴェストブルクは、すでに冬の底にいるようだった。


ユリウスの手を握って、馬車を降りた。


王家監査院の建物は、王宮の東翼に隣接した白い石造りの三階建てだった。正面に双頭の鷲と天秤の紋章が刻まれている。封書に押されていたのと同じ紋だ。


「まま、おおきい」


ユリウスが建物を見上げて言った。


「大きいね」


手を握り直した。小さな手は温かかった。


後ろからゲルハルトがついてくる。旅装の上に、古い外套を羽織っていた。出発前に「証人として立つ」と申し出てくれたとき、断る理由はなかった。


入口で名前を告げ、聴聞室へ通された。


---


聴聞室は思ったより狭かった。


長い机がひとつ。その奥に監査官が一人座っている。五十代の女性で、銀縁の眼鏡の奥の目が鋭い。机の上に書類の束と、魔力封蝋の確認器具が並んでいる。


右側に申請者席。マルガレーテがすでに座っていた。


半年ぶりに見る侯爵夫人は、記憶通りだった。銀灰の髪をきちんと結い上げ、深い紫の衣装を纏っている。背筋がまっすぐで、顎がわずかに上がっている。傍らに侍医が控えていた。


左側が被申請者席。私が座った。ゲルハルトが後ろの証人席に。ユリウスは私の膝の上だ。


マルガレーテの視線が、一瞬だけユリウスに向いた。それから私に移った。表情は変わらなかった。


監査官が開廷を告げた。


---


「申請者、主張をどうぞ」


マルガレーテが立ち上がった。


「王家監査院に申し上げます。ヴァイスフェルト公爵家の嫡男ユリウスの後見権を、現養育者エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルトから移管していただきたく、申請いたしました」


声は澄んでいた。聴聞室の隅まで届く、よく通る声だ。


「理由は三点ございます。第一に、エレオノーラは当主の許可なくユリウスを公爵邸から連れ出しました。第二に、連れ出し先は帝国北部の廃村であり、医療施設も教育環境もございません。第三に、エレオノーラは継母であり、血縁のある祖母である私こそが後見人にふさわしいと考えます」


論理的だった。


一つひとつの言葉が整っていて、隙がないように聞こえる。聴聞室の空気がマルガレーテの側に傾くのを感じた。


「侍医も同席しております。ユリウスの健康状態について、専門的な見地から証言いただけます」


侍医が軽く頭を下げた。


膝の上でユリウスが身じろぎした。私の服の裾を小さな手で握っている。


「被申請者、反論をどうぞ」


監査官の声で、立ち上がった。


---


鞄から革表紙のノートを取り出した。


ユリウスを椅子に座らせ、ノートを監査官の前に置いた。


「これは、私がユリウスの養育を始めた日から記録し続けている健康管理ノートです。体温、食事量、睡眠時間、夜泣きの回数、投与された薬の名前と量。半年分の記録がございます」


監査官がノートを手に取り、ページを開いた。


「まず第一点について。私は帝国法に基づく自主退去書面を作成し、魔力封蝋を施した原本を公爵邸に残置しております。無断の連れ出しではありません」


監査官が頷いた。退去書面の控えは、反論書と一緒にすでに提出してある。


「第二点について。リンデンバートは確かに小さな村です。しかし、不適切な環境であるという主張は事実と異なります」


ノートのページを指し示した。


「このノートの前半をご覧ください。公爵邸での記録です。侍医が処方を変更した時点から、ユリウスの夜泣きが増加し、微熱が三日以上継続しています。私は侍医に処方の見直しを進言しましたが、却下されました」


マルガレーテの方を見なかった。監査官だけを見た。


「後半はリンデンバートでの記録です。投薬を中止し、温泉の微温湯浴に切り替えた結果、三日目に解熱。以降、夜泣きは消失し、食欲が回復しています。現在のユリウスの状態は——」


膝の上に戻したユリウスの頭を軽く撫でた。ユリウスが監査官の方を見て、小さく手を振った。


「ご覧の通りです」


監査官の眉がわずかに動いた。ノートのページを丁寧にめくっている。


「第三点について。血縁の有無が後見の適格性を決めるのであれば、この半年間の記録をご確認ください。ユリウスの体調を記録し、異変に気づき、対処したのは私です」


声は震えなかった。


---


「証拠書類を確認いたします」


監査官が言った。


「リーフェンタール伯爵の所見書を提出いただいております。読み上げます」


伯爵の所見書が読み上げられた。温泉の実地視察の結果、六つの湯溜まりの特性と十五件の症例記録を確認したこと。エレオノーラの湯治管理は合理的であり、医療知識に裏打ちされていること。養育環境として不適切とは認められないこと。


マルガレーテの指先が、机の上で組み直された。


「証人、前へ」


ゲルハルトが立ち上がった。


証人席から一歩前に出て、背筋を伸ばした。古い外套の下の体が、思ったよりも大きく見えた。


「名を」


「ゲルハルト。元ヴァイスフェルト公爵家従騎士。現在はリンデンバート村の村長を務めておる」


マルガレーテの目が細くなった。


ゲルハルトの声は聴聞室の壁に響いた。


「エレオノーラ夫人がリンデンバートに来て以来、ユリウス坊ちゃんの養育を間近で見てきた。毎日の体調確認、食事の管理、温泉を使った手当て。夫人は記録を欠かさず、子どもの些細な変化にも気づく。わしの孫娘の持病の咳も、夫人の助言で大きく改善した」


一度、言葉を切った。


「不適切な環境だと言うなら、まずあの村に来て見てから言うべきだ。夫人がどれだけ丁寧にあの子を育てているか、来れば分かる」


ゲルハルトの目が、マルガレーテをまっすぐに見た。


マルガレーテは目を逸らさなかった。けれど、唇の端がわずかに引き結ばれた。


---


「当主より発言の申し出がございます」


監査官がそう告げたとき、聴聞室の扉が開いた。


ディートリヒが入ってきた。


黒い正装に着替えていた。旅装ではない。公爵家の紋章入りの外套を羽織り、髪を整えている。リンデンバートで見たどの姿とも違っていた。


聴聞室の空気が変わった。


ディートリヒは監査官の前に立ち、一礼した。


「ヴァイスフェルト公爵家当主、ディートリヒ・フォン・ヴァイスフェルトです。本聴聞に関連し、当主として申し立てがございます」


内ポケットから封書を出した。反論書とは別の、もう一通。


「公爵家の帳簿において、医療費名目の支出に不審な差額が確認されました。王都側と北部領側の双方について、参考資料を提出いたします」


封書を監査官に渡した。


「後見権の審議に先立ち、公爵家の会計監査を王家監査院に正式に申し立てます。養育環境の適切さを論じる前に、現在の公爵家の財務管理が適切であるかを確認すべきと考えます」


知らなかった。


帳簿の不正を反論書に参考資料として添えたのは私だ。けれど、会計監査の正式な申し立てを別途行うとは聞いていなかった。


ディートリヒは私の方を見なかった。監査官だけを見ていた。


マルガレーテの顔から、血の気が引いた。


唇が動いたが、声は出なかった。


監査官が参考資料を受け取り、封蝋を確認した。


「本件は、後見権移管の審議および会計監査の申し立てを含め、精査の上、追って裁定を通知いたします」


聴聞室が静まり返った。


マルガレーテが立ち上がった。侍医が後ろについて、聴聞室を出ていった。すれ違いざま、私を見た。


怒りではなかった。


あの目に浮かんでいたのは、驚きだった。


---


廊下に出ると、ユリウスがディートリヒの足に駆け寄った。


「パパ、かっこいい」


ディートリヒが膝を折った。


「……何が」


「くろいふく」


正装のことだろう。ユリウスがディートリヒの外套の紋章に触れた。銀地に黒鷲。小さな指がそれをなぞる。


ゲルハルトが後ろで腕を組んで、黙ってそれを見ていた。


私もまた、黙って見ていた。


胸の奥に、温かいものと、痛いものが同時にあった。この一ヶ月で積み上げてきたものが、あの聴聞室の中で初めて形になった。ノートの記録が、温泉の湯治が、ゲルハルトの証言が、リーフェンタール伯の所見が、そしてディートリヒの申し立てが。


全部、繋がった。


まだ裁定は出ていない。けれど、裁定を待つ間に崩れるものは、もうないと思えた。


ユリウスが私を振り返った。


「まま、かえろ」


帰ろう。リンデンバートに。


「うん。帰ろう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ