第8話 権力では守れない
朝、ディートリヒと机を挟んで向かい合った。
ユリウスはハンナと外に出ている。ゲルハルトが見てくれている。離れの中には二人だけだった。
「これを見てください」
ノートを開き、帳簿の写しのページを示した。
侍医への月々の支払額と、帳簿上の医療費総額。二列に並んだ数字を、ディートリヒの目が追った。
「差額が毎月十八枚前後あります。半年で銀貨百枚を超えます。侍医への支払いに薬代は含まれていますし、他に医療関係の支出は確認できませんでした」
ディートリヒはノートから目を離さなかった。
しばらくの沈黙の後、口を開いた。
「北部領でも同じだ」
予想していなかった言葉だった。
「北部の領地経営費に、医療費の名目で毎月抜かれている金がある。名目は『領民向け治癒師の巡回費用』だが、実際に巡回している治癒師はいない。三ヶ月かけて、領地の末端まで帳簿を突き合わせた」
三ヶ月。
北部領の視察に三ヶ月。使用人たちが「冷血公爵」と呼んだ、あの三ヶ月の不在。
妻と子を放置していたのではなかった。
帳簿の不正を、一人で調べていた。
「……それを、誰かに報告しましたか」
「まだだ。証拠が揃っていなかった。俺が掴んだのは北部領の分だけで、王都の帳簿は母上が管理している。手が出せなかった」
ディートリヒの声は平坦だった。感情が乗っていないのではなく、感情を乗せないようにしている声だった。
「あんたのノートで、王都側の数字が出た。これで両方揃う」
ノートを返された。ディートリヒの指先が、わずかに震えていた。気づかないふりをした。
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反論書の最終稿を仕上げた。
三本の柱。
第一、ユリウスの健康記録。半年分の体温・食事量・投薬記録。公爵邸での侍医の処方が不適切であったこと。リンデンバートに移ってから投薬を中止し、温泉湯治に切り替えた結果、症状が改善したこと。
第二、温泉湯治の実績。六つの湯溜まりの特性と、十五件の症例記録。リーフェンタール伯爵の実地所見書の写し。
第三、参考資料として、公爵家帳簿における医療費支出の不審点。
ヘルムートの助言通り、第三は「参考資料」の位置づけに留めた。反論書の主軸はあくまでユリウスの養育環境であり、帳簿の不正は別件として扱う。ただし、監査院の目に入れておく意味がある。
書き上げた便箋に魔力封蝋を施した。婚姻指輪から魔力を通す。赤い蝋が光って固まる。三度目の封蝋だ。一度目は退去書面、二度目はその控え、そして三度目。
手は震えなかった。
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昼前、村の入り口から声が聞こえた。
今度は馬蹄の音ではなかった。徒歩の二人連れ。見覚えのない男たちが、村の道をまっすぐ歩いてきた。
公爵家の紋章はつけていない。代わりに、上着の胸元に小さな銀の留め金がある。侯爵家の使用人が使う、控えめな身分標だ。
二人はゲルハルトの家の前で足を止めた。
「村長殿。グリューネヴァルト侯爵家よりお伝えする」
ゲルハルトが戸口に出た。腕を組んでいる。
「リンデンバート温泉村の管理を、侯爵家が引き継ぐ運びとなった。つきましては、村長の職を辞していただきたい」
私は離れの前に立っていた。離れとゲルハルトの家は十歩ほどの距離だ。声は聞こえる。
ゲルハルトが口を開いた。
「この村の管理権は、ヴァイスフェルト公爵家にある。侯爵家に管理移管の権限はない。帝国法第三十七条、領地管理権の委譲には当主の署名と監査院の承認が要る。どちらか持っとるか」
以前の追手のときと同じだった。法の条文を正確に引く。寝起きのままではないが、構えもしていない。
使者の片方が言い淀んだ。もう片方が一歩前に出た。
「侯爵夫人は公爵家の——」
「先妻の母だ。公爵家の当主ではないし、家政の代行権すら正式には持っておらん。半年ほど勝手にやっておるようだが」
使者二人の顔が強張った。年嵩の方が、ゲルハルトの顔をじっと見た。
一瞬、怯んだ。
目の動きで分かった。ゲルハルトの顔を知っている——あるいは、かつて知っていた誰かに似ていると気づいた。そんな反応だった。
「……確認の上、改めて参ります」
二人は背を向けて歩いていった。足早に。振り返らなかった。
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使者が去った後、ゲルハルトが首を鳴らした。
「あんたのせいで面倒が増えた」
「すみません」
頭を下げた。本心だった。この人を巻き込んでいる。
「謝るな」
ゲルハルトが鼻を鳴らした。
「久しぶりに血が騒いだ。悪い気分じゃない」
笑った。笑い顔がやはり似合わない人だった。けれど、前に見たときより少しだけ自然になっている気がした。
「ゲルハルトさん」
「なんだ」
「あの使者の人、あなたの顔を見て怯みましたね」
ゲルハルトは答えなかった。腕を組み直して、自分の家の方を向いた。
「昔の話だ」
それだけ言って、歩いていった。
昔の話。それがどんな話なのかは、今は聞かない。聞かなくても、この人がこの村を守ろうとしてくれていることは分かっている。
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夕方、離れの中でディートリヒと向き合った。
窓の外に夕焼けが落ちている。ユリウスは夕食後に寝台で眠った。ハンナと走り回った疲れだろう。穏やかな寝息が聞こえる。
「今日の使者の件、聞いていましたか」
「ゲルハルトの声は大きい。聞こえた」
ディートリヒはゲルハルトの家にいたはずだが、出てこなかった。意図的だろう。当主が直接使者を追い返せば、マルガレーテとの対立が表面化する。それを避けたのだ。
「母上は手続きで来る」
ディートリヒが言った。
「権力で押し通せる相手なら、俺が止めていた。だが母上は違う。名目を整え、書面を揃え、手続きの形にして押し通す。あの人のやり方だ」
声は淡々としていた。義母について語るその口調に、怒りは感じなかった。諦めでもなかった。正確に把握している人間の声だった。
「手続きには手続きで返すしかない」
私を見て、そう言った。
手続きには、手続きで。
それは——私がこの一ヶ月やってきたことだった。退去書面を書き、控えを取り、記録をまとめ、反論書を仕上げた。法と証拠と制度を使って、一つずつ積み上げてきた。
この人は、それを見ていた。
否定しなかった。肩代わりもしなかった。条件を示し、自分も帳簿を調べ、そして「手続きで返せ」と言った。
同じ方向を向いている。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた。恋とは違う。もっと深くて静かなもの——信頼の、最初の一歩だった。
反論書を差し出した。
「これを監査院に届けてください。当主の名で提出していただく方が、受理が確実です」
ディートリヒが封書を受け取った。魔力封蝋を一瞬見つめてから、外套の内ポケットに入れた。
「十日後、王都で会おう」
短い言葉だった。
私は頷いた。
寝台でユリウスが寝返りを打った。小さな声で何か呟いている。聞き取れなかったが、たぶん寝言だ。
ディートリヒが寝台の方をちらりと見て、それから立ち上がった。
「パンは焼かん」
唐突な言葉だった。
「……はい?」
「明日の朝は、焼かん。前回は炭にした」
覚えていたのか。
笑いそうになった。笑ってよいのか分からなかったので、代わりに言った。
「明日は私が焼きます」
ディートリヒは何も言わず、離れを出ていった。
扉が閉まった後、少しだけ笑った。
十日後。王都。聴聞会。
ノートを鞄に入れ、明日の支度を始めた。




