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継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)
第1章

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第7話 パパ、おかえり

十日が経った。


リンデンバートの湯治は、少しずつ広まり始めていた。


最初に来たのは隣の農村の男だった。馬の世話で腰を痛め、治癒師に診せる金もないと聞いて、北の岩場の高温泉を勧めた。腰に布を巻いて湯に浸からせ、上がった後は温めた石を当てる。三日通って、四日目に「だいぶ楽になった」と笑った。


次は、山向こうの村から来た老婆。膝が悪く、冬場は歩くのも辛いという。東の林のぬめりのある湯に膝下だけ浸からせた。一回では変わらなかったが、五日続けたところ、杖なしで帰っていった。


来る人が増えるたびに、ノートの記録が厚くなる。症状、使った湯、入り方、時間、回数、経過。書くことに迷いはなかった。これは前世でずっとやってきたことだ。


ハンナは毎日、南の湯溜まりで蒸気吸入を続けている。咳の回数は目に見えて減った。夜に苦しむことがなくなったと、ゲルハルトが言った。言い方はいつも通りぶっきらぼうだったが、目元が緩んでいた。


ある午後、リーフェンタール伯爵領の農民が来た。荷運びで背中を傷め、三ヶ月治らないという。この人もまた、治癒師に診せる余裕がない。高温泉と中温泉を組み合わせた二段階の湯治を試みた。経過は良好だった。


リーフェンタール伯爵領。


その名前を聞いたとき、胸の奥で何かが繋がった。


---


ヘルムートからの返信は、その日の昼に届いた。


二通目の手紙だ。一通目は反論書の書式についてだったが、今回は中身が違った。


『反論書の骨子については了解した。記録と実績を軸にするのは正しい。ただし、身分の裏付けがないと侯爵夫人の主張に対抗しづらい。そこで一人、紹介状を送った。リーフェンタール伯爵。温泉の医療利用に関心を持たれている方で、以前、法務局の案件で面識がある。北部の領地にお住まいだから、リンデンバートにも遠くないはずだ』


紹介状を送った、ということは、もう伯爵の手元にあるということだ。


あとは、伯爵がどう判断するか。


---


三日後の午後、リンデンバートに馬車が一台入ってきた。


村に馬車が来るのは珍しい。ゲルハルトが「おい」と声を上げて離れの方を指差した。


馬車から降りたのは、五十代半ばの男性だった。白髪交じりの髪を短く刈り、眼鏡をかけている。服装は上質だが華美ではない。従者は一人だけ。


「エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト夫人ですかな」


穏やかな声だった。


「リーフェンタール伯と申します。ヘルムート殿の紹介状を拝読しまして」


礼をして、湯溜まりの案内を申し出た。


六つの湯溜まりを一つずつ回った。それぞれの温度、匂い、色、肌触り。私が確認した特性と、実際に湯治を行った症例。ノートを見せながら説明した。


リーフェンタール伯は、ノートのページを丁寧にめくった。


「これは、あなたが全部記録したのですか」


「はい。半年前から記録をつける習慣がありまして。この村の湯については、来てから二週間分です」


「半年前から……」


伯がノートの前半——公爵邸時代の記録に目を留めた。ユリウスの体温、食事量、投薬の記録。そちらには触れず、ノートを返してくれた。


最後に、南の斜面の湯溜まりでハンナの蒸気吸入を見てもらった。


ハンナは少し緊張していたが、いつも通り布を口元に当てて、ゆっくり息を吸った。伯が「苦しくないかね」と聞くと、ハンナは首を横に振って「あったかい」と答えた。


帰り道、リーフェンタール伯が足を止めた。


「面白い」


そう言って、村の全景を見渡した。湯気が立ち昇る山肌。石造りの家々。廃れてはいるが、消えてはいない温泉村。


「これは報告書にまとめる価値がある。夫人、私の名で一筆書きましょう。王家監査院にも顔は利く。温泉の医療利用について、実地で確認した所見を添えます」


息が詰まった。


「……ありがとうございます」


それだけ言うのが精いっぱいだった。声が震えるのを抑えるのに集中した。


リーフェンタール伯は穏やかに頷き、馬車に乗って帰っていった。


---


離れに戻って、反論書の下書きを広げた。


ヘルムートの助言に従い、骨子を三本にまとめている。第一にユリウスの健康記録と投薬の問題点。第二に温泉湯治の実績と村人の証言。第三にリーフェンタール伯の所見書。


第三の柱が、今日揃った。


ノートを最初から見返す。整理し直すためだ。ページを捲る手が、途中で止まった。


公爵邸時代の記録。後半の方に、家計帳簿の写しがある。


公爵邸に嫁いでからの半年間、家計の管理はマルガレーテが握っていた。私に渡されたのは月々の生活費の一部だけで、帳簿本体を見せてもらったことはない。ただ、侍医への支払い記録だけは、ユリウスの投薬管理のために写させてもらっていた。「これくらいは継母の仕事でしょう」と、マルガレーテに嫌味を言われながら。


その支払い記録を、今、改めて見ている。


侍医への月々の支払額が記されている。


その隣に、私が公爵邸で見かけた帳簿の表紙に印刷されていた「医療費総額」の数字がある。月報として廊下の掲示板に張り出されていたもので、通りすがりに目に入った数字をメモしていた。


二つの数字を見比べる。


侍医への支払いは、月に銀貨十二枚前後。


帳簿上の医療費総額は、月に銀貨三十枚以上。


差額が、毎月十八枚ほどある。


半年で銀貨百枚を超える。


この差額は、何に使われているのだろう。


侍医は一人だ。他に医療関係の支出があるとすれば薬代だが、ユリウスに処方された薬の費用は侍医への支払いに含まれている。それは侍医本人に確認したことがある。


ノートを閉じた。


今はまだ、疑惑だ。確証はない。けれど数字は嘘をつかない。


このページは、反論書に含めるかどうか慎重に判断する必要がある。まずはヘルムートに相談しよう。


ペンを置いた瞬間——外から、馬蹄の音が聞こえた。


---


一頭。


窓から外を見て、息を呑んだ。


ディートリヒだった。


前回と同じ旅装。ただし今回は外套の留め金がちゃんと二つとも留まっていて、頬のこけ方も前よりましだった。


離れの前で馬を降りる。


その音に気づいたのだろう。ハンナと遊んでいたユリウスが、顔を上げた。


私は戸口に立ったまま、動かなかった。


ユリウスが石畳の上に立っている。小さな手がぎゅっと握られている。けれど、顔は歪んでいなかった。


ディートリヒがユリウスを見た。


三秒。


ユリウスが走り出した。


短い足で、石畳をぱたぱたと踏んで、まっすぐディートリヒの方へ走った。


ディートリヒの膝にぶつかった。小さな体が、長い脚にしがみつく。


「パパ、おかえり」


高い声が、冷えた空気に響いた。


ディートリヒの手が動いた。今度は、途中で止まらなかった。


膝を折った。片膝をついて、ユリウスの背中に手を回した。大きな手が小さな背を覆う。抱き上げはしなかった。ただ、膝の高さでユリウスを受け止めて、そこに留まった。


ディートリヒの顔は見えなかった。ユリウスの頭に隠れていた。


私は戸口から動けなかった。


胸の奥に、温かいものが広がるのを感じた。


泣きそうだったのかもしれない。分からない。ただ、あの光景を——父が膝を折って子どもを受け止める、ただそれだけの光景を、美しいと思った。

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