第6話 焦げたパンの朝食
「この村の湯を、どうする気だ」
その問いに、私は答えた。
ユリウスが寝台で眠り、窓の外が暮れていく離れの中で、私はゲルハルトから依頼された湯治体系化の話をした。六つの湯溜まりを調べたこと。温度と成分に違いがあること。ハンナの咳が和らいだこと。村人の腰痛や手指のこわばりにも効果が見え始めていること。
ディートリヒは壁に背を預けたまま、黙って聞いていた。
腕を組んではいなかった。ただ、手を外套のポケットに入れたまま、私の言葉を拾うように視線だけが動く。
話し終えた。
沈黙が落ちた。窓の外で虫の声がしている。十一月に入ったばかりの山間の夜は、もう冬の気配がする。
「王都ではそれでは通らない」
ディートリヒが言った。
声は静かだった。否定の響きは——たぶん、なかった。けれど肯定でもなかった。事実を述べただけの、乾いた声だ。
私は言葉に詰まった。通らない。何が。どこが。
問い返す前に、ディートリヒが壁から背を離した。
「ゲルハルトの家に泊まる。場所は聞いた」
それだけ言って、出ていった。
扉が閉まった後、手元のノートを見下ろした。半年分の記録と、この一週間の湯治データ。自分では十分だと思っていた。でも、王都では通らない。
その意味を、もう少し考える必要があった。
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翌朝、焦げた匂いで目が覚めた。
パンが焦げる匂い。竈の火が強すぎたときの、あの容赦ない匂いだ。
離れの中ではない。外からだ。
上着を羽織って戸を開けると、離れの前の空き地に小さな炉台が据えられていた。元湯治宿の備品だろう。石を組んだ簡素な造りで、昨日まで気づかなかった。
その前に、ディートリヒがしゃがんでいた。
旅装の外套を脱いで、袖をまくっている。右手に火箸、左手に——何か黒いもの。
パンだった。
正確には、パンだったものだ。表面が真っ黒に炭化していて、原形を留めているのは底面の一部だけだった。
ディートリヒは、その黒い塊を無表情で見つめていた。
「……おはようございます」
声をかけると、ディートリヒがこちらを向いた。
「ああ」
右手の火箸を下ろした。左手の黒い塊は下ろさなかった。
「焼き加減を、間違えた」
この人は今、弁解をしているのだろうか。
「少し、火が強かったようですね」
「炭になった」
知っている。見れば分かる。
不思議な光景だった。帝国有数の公爵家の当主が、廃れた温泉村の空き地でパンを炭にしている。北部領の視察から三ヶ月ぶりに戻った男が、最初にやったことがこれだ。
笑いそうになったのを、かろうじて飲み込んだ。
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「くろい」
声がした。
振り返ると、ユリウスが離れの戸口に立っていた。寝間着のまま、裸足で、髪がぼさぼさだ。
ディートリヒの手元の黒い塊を指さしている。
「くろい。くろいよ」
昨日は泣いた。父の顔を見た瞬間に顔を歪ませ、私の足にしがみついて泣いた。
今朝は違った。
足は止まっている。表情は強張っている。けれど、泣いていない。焦げたパンの匂いと、見慣れた離れの前という場所が、わずかに安心を作っているのかもしれない。
ディートリヒはユリウスを見た。
「……ああ。黒い」
ユリウスが一歩、後ずさった。けれどもう一歩は下がらなかった。
沈黙が落ちた。朝の冷たい空気の中に、炭になったパンの匂いと、湯気の匂いが混ざっている。
私は黒い塊を受け取って、焦げていない底面の部分を小刀で薄く削いだ。二切れ分だけ、食べられそうな層が残っていた。
ユリウスに一切れ渡した。
「はい。ちょっとだけ焦げてるけど、食べられるよ」
ユリウスが受け取って、かじった。もぐもぐと口を動かして、飲み込んだ。
「かたい」
「そうだね。固いね」
もう一切れを、ディートリヒに差し出した。
ディートリヒは受け取らなかった。一瞬、私の手元とユリウスの顔を見比べて、それから首を横に振った。
「子どもに食わせろ」
言い方はぶっきらぼうだったが、声は昨夜より少しだけ柔らかかった。気のせいかもしれない。
残りのパン切れをユリウスに渡しながら、思った。この人は、自分で朝食を用意しようとしたのだ。誰にも頼まず、公爵の身で、炉台の前にしゃがんで。
なぜそうしたのかは、分からない。分からないが、焦げたパンの匂いだけが、妙に記憶に残った。
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朝食の後、離れの中で向き合った。
ユリウスはハンナが迎えに来て、外で遊んでいる。離れの戸は開けたままにしてある。子どもの声が聞こえる距離だ。
「昨夜のお話の続きを、聞いてもいいですか」
ディートリヒが眉をわずかに動かした。
「王都では通らない、とおっしゃいました。通る形にするには、何が必要ですか」
正面から問い返した。昨夜はできなかった。言葉に詰まった。でも一晩考えて、詰まっている場合ではないと思った。通らないなら、通る形にすればいい。そのために何が足りないかを知ることが先だ。
ディートリヒは少し間を置いてから答えた。
「実績の数だ。ひとりふたりの症状が良くなった程度では、監査院は動かない。複数の症例を、記録として示す必要がある」
「記録はあります。ノートに——」
「記録だけでは足りない」
遮られた。けれど声は穏やかだった。
「第三者の証言がいる。村人の声だけでは弱い。マルガレーテは侯爵家の出だ。侯爵夫人の主張に対抗するには、相応の身分を持つ者が、この村の湯治を実際に見て、まともだと証言する必要がある」
身分のある者の証言。
それは、この村にはない。三十世帯の小さな村に、貴族はいない。
「伯爵以上の証言が望ましい。できれば、監査院に顔が利く者だ」
具体的だった。否定するだけではなく、条件を示している。
「旦那様は——」
「俺は当主だ。当事者の証言は採用されん」
そうだ。当たり前だ。夫が妻の肩を持っても、監査院は公正とは見なさない。
ディートリヒが立ち上がった。
「揃えられるかどうかは、あんたの問題だ」
冷たい言葉のように聞こえた。けれど、「揃えられるかどうか」という言い方は、「揃えろ」と言っているのと同じだった。少なくとも私にはそう聞こえた。
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馬に荷を付け直すディートリヒの背中を、離れの前から見ていた。
ユリウスは少し離れた場所でハンナと石を積んで遊んでいる。ときどき、ディートリヒの方をちらちらと見ている。近づきはしない。でも目は逸らさなくなった。
ディートリヒが馬に跨がった。
手綱を持ち直し、一度だけこちらを向いた。
「三十日後、監査院に行く。それまでに揃えろ」
そのまま馬を返し、村の道を南へ向かった。
振り返らなかった。
その背中が小さくなるのを見ながら、考えた。
この人は味方なのだろうか。
条件を示してくれた。三十日という期限を告げた。監査院に行くと言った。けれど「俺が助ける」とは言わなかった。「頑張れ」とも言わなかった。
分からない。
分からないけれど——あの人がパンを焦がしたことと、ユリウスに「子どもに食わせろ」と言ったことは、覚えておこうと思った。
ノートを開いた。
湯治の記録の下に、今日の日付を書き込む。
あと二十九日。
実績の数。第三者の証言。身分のある者。
やることは決まった。




