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継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)


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第5話 父と子のおかゆ

封書を開けたのは、ユリウスがまだ眠っている早朝だった。


厚手の封筒の中に、二つ折りの公文書が一枚。帝国王家監査院の透かし入りの紙に、整った書体で記されている。


読み進めるうちに、指先が冷えていくのが分かった。


内容はこうだ。侯爵夫人マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルトが、王家監査院に対し、ユリウス・フォン・ヴァイスフェルトの後見権移管を正式に申請した。申請理由は「現養育者による不適切な養育環境への連行」。


不適切な養育環境。


この村のことを言っている。


文書の末尾に、もうひとつ記載があった。『被申請者には、本通知受領日より三十日以内に反論書を提出する権利を有する。反論書の提出がない場合、申請は自動的に受理される』。


三十日。


公文書を机に置いて、深く息を吐いた。


手が震えている。三日前、追手を退けたときと同じだ。けれど今回は書面で押し返すだけでは済まない。王家監査院の正式な手続きだ。


ノートを開いた。


ユリウスの半年分の記録。体温、食事量、睡眠、夜泣き。投薬の種類と量。そして、この村に来てからの一週間——薬を止め、温泉湯治に切り替えてからの経過。微熱の消失。食欲の回復。夜泣きがなくなったこと。


材料は、ある。


この記録と、侍医の処方が不適切だったという事実。マルガレーテが進言を却下したこと。そしてこの村でユリウスが回復していること。


便箋を出した。ヘルムートに手紙を書く。反論書の書き方を確認しなければならない。法務局の人間に助言を仰ぐことは、手続き上問題ない。彼がそう言っていた。


書き終えて封をした。今日、郵便使いが来たときに託そう。


三十日は短い。けれど、何もない三十日ではない。


---


昼過ぎ、離れの前でノートを広げていた。


ユリウスとハンナが少し離れた石畳の上で遊んでいる。ハンナがユリウスの手を引いて歩く姿は、姉弟のようだった。ユリウスの足取りはこの一週間で随分しっかりした。


湯治記録をまとめている。六つの湯溜まりの温度、色、匂い、肌触り。それぞれを試した村人の症状と経過。ハンナの咳。農夫の腰痛。老婦人の手指のこわばり。まだ症例は少ないが、傾向は見え始めている。


遠くから、馬蹄の音が聞こえた。


ペンが止まった。


前とは違う。一頭だけだ。追手のときは二頭だった。


顔を上げると、村の入り口から一頭の馬が歩いてくるのが見えた。


---


馬から降りた人物は、背が高かった。


黒い髪が襟にかかっている。旅装は埃で汚れていて、外套の留め金が片方外れていた。顔は日に焼けて頬がこけている。何日も馬の上にいた人間の顔だ。


けれど、その立ち姿を見間違えるはずがなかった。


ディートリヒ・フォン・ヴァイスフェルト。


旦那様だった。


七ヶ月ぶりに見る——いや、違う。公爵邸にいた半年間で、直接顔を合わせたのは数えるほどしかなかった。婚姻の儀の日。翌日の朝食。その後二度か三度、廊下ですれ違った。そのたびに旦那様は軽く頷くだけで、言葉はほとんどなかった。


それから北部領の視察に出て、三ヶ月。


目の前の人は、あの頃より痩せていた。


「——従者から聞いた」


低い声だった。私の方を見ているが、表情が読めない。怒っているのか、困惑しているのか、それとも何も感じていないのか。


「自主退去書面は確認した。法的に問題がないことは分かっている」


それだけ言って、ディートリヒの視線が私の後ろに動いた。


石畳の上に、ユリウスが立っていた。


---


ハンナが一歩下がった。子どもなりに、空気を読んだのだろう。


ユリウスは動かなかった。


小さな手がぎゅっと握られている。目が大きく見開かれて、唇がわずかに震えている。


ディートリヒが一歩、近づいた。


「ユリウス」


静かな声だった。


ユリウスの顔が歪んだ。


「——いやっ」


叫ぶように言って、ユリウスが私の足にしがみついた。顔を押しつけて、泣き始めた。


ディートリヒの右手が、息子に向かって伸びかけた。


途中で止まった。


指先が宙に浮いたまま、二秒、三秒。それからゆっくりと下りた。


ディートリヒの表情は変わらなかった。少なくとも、私の目にはそう見えた。けれど、下りた右手の指先が、一瞬だけ震えたのを、私は見た。


四歳の子どもにとって、三ヶ月は長い。顔の記憶が薄れるには十分な時間だ。ましてユリウスは、父親と過ごした時間がほとんどない。見知らぬ大人の男が突然現れて名前を呼べば、怖がるのは当然だった。


「大丈夫。大丈夫だよ、ユリウス」


しゃがんで抱き上げた。背中をさすると、嗚咽が少しずつ小さくなっていった。


ディートリヒは立っていた。何も言わず、行き場のなくなった右手を外套のポケットに入れて、ただ立っていた。


---


離れの中に入ってもらった。


椅子を勧めたが、ディートリヒは立ったまま壁際にいた。狭い部屋の中で、その長身が不釣り合いに見えた。


ユリウスは泣き疲れて寝台で眠っている。


私は竈に火を入れた。


鍋に水を張り、砕いた穀物と刻んだ根菜を入れる。昨日、村人からもらった卵を最後に落とす。ゲルハルトの薬草を少し加えて煮込めば、柔らかいおかゆになる。


何を話すべきか、分からなかった。


この人は私の夫だ。法的にはそうだ。けれど、ふたりで言葉を交わしたことはほとんどない。この距離感のまま半年が過ぎ、三ヶ月の不在を経て、今、廃れた温泉村の離れで向き合っている。


おかゆが煮えた。


まずユリウスを起こした。寝ぼけたユリウスに匙でおかゆを食べさせる。小さな口がゆっくり動いて、三口、四口。「おいしい」とは言わなかったが、匙を押し返さなかった。食べ終えるとまた眠った。


椀をもうひとつ出した。


おかゆを注いで、ディートリヒの方に差し出す。


「おかゆ、食べますか。旅の途中でしょう」


ディートリヒが、椀を見た。


それから、私の顔を見た。


何かを言いかけて、やめた——ように見えた。


黙って椀を受け取り、立ったまま匙を口に運んだ。


沈黙の中で、匙が椀に当たる小さな音だけが聞こえた。


食べ終えるのに、さほど時間はかからなかった。旅装のまま、何時間も食事を取っていなかったのだろう。


空になった椀を机に置いて、ディートリヒが口を開いた。


「——この村の湯を、どうする気だ」


声は低かった。けれど、それは三話前に追手が告げた命令の声とは違っていた。


怒りではない。詰問でもない。


何かを、確かめようとしている声だった。


窓の外で、湯気が白く昇っていた。

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