第4話 湯けむりの奇跡
リンデンバートに来て、五日が経った。
ユリウスは元気だった。熱が下がってからは食欲が戻り、乾パンのおかゆでは足りなくなって、ゲルハルトが分けてくれた芋や根菜も平らげた。今朝は離れの前の石畳を走り回っている。四歳の足で転びそうになるたびに両手を広げてバランスを取る姿を、窓から眺めながら離れの中を片づけていた。
棚の奥に、埃を被った木箱がある。元湯治宿の備品だろうかと思って開けると、中身は手紙の束だった。
紐で括られた便箋が十通ほど。表の宛名に目が留まった。
『アデリーナ・フォン・ヴァイスフェルトへ』。
先妻の名前だ。
裏を返す。差出人の名が小さく記されている。ディートリヒ・フォン・ヴァイスフェルト。
旦那様が、手紙を書いていた。
あの人にも、こうして誰かに手紙を書く時期があったのだろうか。使用人たちが「冷血公爵」と呼ぶ、あの人にも。
中身を読むつもりはなかった。他人の、しかも亡くなった方への手紙だ。紐を結び直して木箱に戻し、棚の奥に押し込んだ。
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「ごほっ、ごほごほっ」
外に出たとき、咳の音が聞こえた。
ゲルハルトの家の前に、女の子がしゃがみ込んでいた。八歳くらい。薄茶色の髪を二本の三つ編みにしていて、頬が赤い。咳き込むたびに体が丸くなる。
「ハンナ、また出たか」
ゲルハルトが戸口から顔を出した。孫娘だと、初日に聞いていた。両親は南部の街で働いており、ハンナだけ祖父のもとに預けられている。
「この子は小さい頃から胸が弱くてな。冬になると咳が止まらん」
ハンナが顔を上げた。目が合う。少し怯えたような顔をしたが、すぐに別の咳に遮られた。
「いつ頃からですか」
「三つの頃からだ。治癒師に診せたこともあるが、慢性のものだと言われてな。薬は出たが、飲んでも飲まなくても大して変わらん」
ハンナの咳を聞きながら、前世の記憶を手繰った。小児の慢性咳嗽。乾いた咳。痰は少ない。気温が下がると悪化する。気道が過敏になっている状態——前世であれば吸入療法の対象だ。
「ゲルハルトさん。少し、この村の湯を見て回ってもいいですか」
「好きにしろ。どうせ湧いとるだけだ」
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リンデンバートには、湯溜まりが六つあった。
離れの裏手のものは前に確かめた。ぬるくて、無色透明に近い。硫黄の匂いは薄い。
村の北側、岩場の間に湧いているものは熱かった。手を入れて三つ数える間に指先が赤くなる。四十五度以上はある。匂いが強く、湯は薄く白濁している。
東の林の中にあるものは、少しぬめりがあった。温度は中程度。匂いはほとんどない。指で湯を擦ると、肌が滑る。
南の斜面に二つ。ひとつは鉄っぽい匂いがして湯が茶色く濁っている。もうひとつは透明だが、底から気泡がぷつぷつと上がっていた。
それぞれの湯に手を浸すたびに、指先がかすかに温かく光る。二話目の裏手の湯で感じたのと同じだ。この村の湯にはすべて、わずかに魔力が含まれている。量はごく少ないが、確かにある。
ノートに書き留めていく。場所、温度の体感、色、匂い、肌触り、気泡の有無、魔力反応の強弱。
前世の知識では、温泉の成分によって効能が異なる。硫黄泉は皮膚疾患に、炭酸泉は血行促進に、塩化物泉は保温に。この世界の湯が前世と同じ分類に当てはまるかは分からないが、少なくとも温度と質感の違いは明確にある。
ハンナの咳に使えそうなのは、南の斜面の、気泡が出ている方だ。温度はぬるめで、湯気が多い。前世の呼吸器治療で用いたネブライザーの原理は、細かい水蒸気を気道に送り込むことだった。高温すぎず、湯気が豊富な湯——あれが最も近い。
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午後、ハンナを南の斜面に連れていった。
ゲルハルトが一緒に来た。孫を他人に任せるのが不安なのだろう。それは当然だし、むしろありがたい。
湯溜まりのそばに座らせた。布を一枚、湯気にかざす。蒸気を含んだ布を、ハンナの口元に軽く当てた。
「ゆっくり吸って。鼻からでいいよ」
ハンナが恐る恐る息を吸った。湯気を含んだ空気が、小さな胸に入っていく。
一回、二回、三回。
四回目で、ハンナが少し咳き込んだ。けれど五回目には、咳が収まった。
「……あったかい」
ハンナが言った。
「うん。あったかいでしょう。もう少し続けようね」
十分ほど続けた。ハンナの呼吸が、目に見えて楽になっていた。胸の上下が穏やかになり、眉間の皺が消えた。
ゲルハルトは腕を組んで見ていた。何も言わなかった。ただ、孫娘の顔をじっと見ていた。
帰り道、ハンナが私の手を握った。
「おねえちゃん、あしたもやってくれる?」
「いいよ。毎日でも」
ハンナが笑った。三つの頃から咳に苦しんできた子の笑顔は、それだけで胸に響いた。
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夕方、離れの前に籠が置かれていた。
中身は玉葱と、干した薬草と、卵が三つ。誰が置いたのか分からない。分からないが、この村は三十世帯しかないから、噂が回るのは早いのだろう。
しばらくして、別の家の女性が訪ねてきた。
「あの、ハンナちゃんの咳が楽になったと聞いて。うちの人の腰が痛いんですけど、お湯で何かできたりしますか」
答える前に、もう一人来た。
「うちの婆さんの手指がこわばるんだけど」
二人にはそれぞれ、合いそうな湯溜まりと入り方を伝えた。腰痛には岩場の高温泉で温めること、手指のこわばりには東の林のぬめりのある湯に浸すこと。前世の知識と、今日一日で調べた湯の特性を組み合わせた、ささやかな助言だ。
二人が帰った後、ゲルハルトが来た。
「見とったよ」
腕を組んで、離れの壁に背を預けている。いつもの姿勢だ。
「あんたがやったことは、この村で誰もやらんかったことだ。湯は昔からあった。けど、どの湯がどう効くか、誰も調べなかった」
「たまたま、少し心当たりがあっただけです」
「たまたまで子どもの咳は止まらん」
ゲルハルトが壁から背を離した。
「頼みがある。この村の湯を、体系的にまとめてくれんか。どの湯が何に効いて、どう使えばいいか。あんたにしかできん仕事だ」
体系的に、という言葉の重さを感じた。
それは「ちょっと教えて」という気軽な依頼ではない。記録し、分類し、再現可能な形にまとめるということだ。
前世で、私はそれをやっていた。患者の記録を取り、症状と処置を照合し、次の判断に繋げる。看護記録とは、まさにそういう仕事だった。
「——引き受けます」
ゲルハルトが頷いた。その顔に、初めて明確な笑みが浮かんだ。
笑い顔が似合わない人だな、と思った。
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ゲルハルトが帰りかけたとき、村の入り口の方から足音がした。
馬ではない。徒歩だ。帝都から定期的に巡回する郵便使いの姿が見えた。
「届け物だ。ヴァイスフェルト夫人宛て」
差し出されたのは、厚手の封筒だった。
表に「エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト」と、几帳面な書体で記されている。裏を返した。
差出人の欄に押された印章は、見間違えようがなかった。
双頭の鷲に天秤を持たせた紋——帝国王家監査院の公印だ。
封筒を手に持ったまま、動けなかった。
帝国王家監査院。それは、婚姻・後見・相続に関わる紛争を裁定する、帝国最高位の司法機関だ。
この封書の中身が何であれ、無視はできない。
ユリウスが離れの中から「まま、ごはんー」と声を上げている。
封筒をエプロンのポケットに入れた。
先に、この子にご飯を作る。
それから、開ける。




