第3話 追手と書面
馬蹄の音は、近づいていた。
窓の隙間から見える朝靄の向こうに、二頭の馬がいる。騎手は外套を着ていて、その胸元に——見覚えのある紋章が光っていた。
銀地に黒鷲。ヴァイスフェルト公爵家の紋だ。
手が冷たくなるのが分かった。
振り返る。寝台ではユリウスがまだ眠っている。昨日まで三日以上続いた微熱が、ようやく引いたばかりの寝顔だ。
毛布を引き上げてユリウスの肩にかけ直し、私は外に出た。
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二人の従者は、離れの前で馬を降りた。
若い方が一歩前に出て、頭を下げた。その動作には最低限の礼節があったが、目の奥は硬い。
「エレオノーラ奥方様。マルガレーテ様の命により、奥方様とユリウス様を公爵邸へお連れするよう仰せつかっております」
予想していた言葉だった。
「お連れする、ということですが」
声が震えないように、意識して息を吸った。
「それはどのような書面に基づく命令ですか」
従者の眉がわずかに動いた。年嵩の方が若い方を見た。若い方が口を開きかけ、閉じた。
「マルガレーテ様の直接の御命令です」
「書面は」
「——口頭にて承っております」
沈黙が落ちた。朝の冷たい空気の中に、馬の鼻息だけが白く浮かんだ。
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「騒がしいな」
背後から声がした。
振り返ると、ゲルハルトが道を歩いてくるところだった。上着を羽織っただけの格好で、髪に寝癖がある。けれど背筋はまっすぐだった。
「村長殿、これは公爵家の——」
「見れば分かる。紋章が目に入らんほど老いてはおらんよ」
ゲルハルトは従者二人の前に立ち、腕を組んだ。
「して、帝国法に基づく書面はあるのかね」
従者の顔が強張った。ゲルハルトは構わず続けた。
「公爵家の者を現在の居住地から移動させるには、当主の署名入り移送書面か、王家監査院の令状が要る。公爵閣下が北部領におられるのは知っとる。どちらかを持っとるかね」
年嵩の従者が、半歩下がった。
「……マルガレーテ様は侯爵夫人であらせられます。公爵家の事柄について——」
「侯爵夫人は公爵家の当主ではない。先妻の母君であろうと、当主代行の権限は帝国法上認められておらん。それは知っとるな」
従者が黙った。
ただの村長が、なぜここまで帝国法に明るいのか。私自身、驚いていた。けれど今は、その疑問を脇に置く。
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「少しお待ちください」
私は離れに戻り、鞄を開けた。
底の方に、折り畳んだ便箋がある。
自主退去書面の控え。原本は公爵邸の書斎に残してきた。この控えには、原本と同一の魔力封蝋が施してある。
学院時代からの友人で、帝国法務局に勤めているヘルムートに相談したのは、退去を決意した夜だった。手紙でのやり取りは三往復。彼は馬車の手配だけでなく、書面の書き方についても助言をくれた。
『控えは必ず取れ。原本と同じ封蝋を押しておけば、法的には原本と同等の証明力を持つ。追手が来ても、これがあれば門前払いにできる』
あのとき、大げさだと思った。今は感謝している。
外に戻り、控えを開いて見せた。
赤い封蝋が朝日を受けて淡く光っていた。魔力が通っている証だ。
「私は帝国法に基づき、自主退去の届け出を公爵邸に残置しております。事由、日時、立ち去り先、すべて記載済みです。この控えには原本と同一の魔力封蝋が施してあります」
若い従者が書面を覗き込み、顔色が変わった。
封蝋の紋様は婚姻指輪のものだ。公爵夫人にしか押せない。偽造はできない。
年嵩の従者が、低い声で言った。
「……確認いたします」
「どうぞ。確認は公爵邸でなさってください。原本は書斎の文机の上にあります」
二人は顔を見合わせた。それ以上言葉を重ねる従者はいなかった。
若い方が先に馬に跨がり、年嵩の方が私に一礼した。その一礼は、来たときよりも深かった。
馬が反転し、朝靄の中へ遠ざかっていった。蹄の音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。
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息を吐いた。
手が震えていた。握りしめていた控えの端が少し皺になっている。
「あんた」
ゲルハルトが、まだ腕を組んだまま立っていた。
「ただの継母じゃないな」
返す言葉に迷った。ただの継母だ、と言うのは簡単だが、たぶん本当ではない。
「……ただの、心配性です」
「心配性は書面の控えまでは取らんよ」
ゲルハルトは鼻を鳴らして笑い、自分の家の方へ歩き始めた。
その背中を見ながら思った。
ただの村長にしては、帝国法に詳しすぎる。「当主の署名入り移送書面」「王家監査院の令状」——法務局のヘルムートと同じ精度の言葉を、この人は寝起きのまま口にした。
何者なのだろう。
問い質すのは、今ではない気がした。この人が今朝、私たちの側に立ってくれたことは確かだ。それだけで十分だった。
離れに戻ると、ユリウスが寝台の上に起き上がっていた。
毛布を胸の前で握って、不安そうにこちらを見ている。
「まま、だれかきた?」
「うん。でも、もう帰ったよ」
「こわいひと?」
しゃがんで、目線を合わせた。
「怖くなかった。大丈夫」
嘘ではない。怖くはなかった。手は震えたけれど、怖かったのとは違う。
ユリウスが小さく頷いた。それから、昨日と同じ言葉を言った。
「おなか、すいた」
今度こそ、ご飯を作ろう。
竈に火を入れた。乾パンを崩して鍋に入れ、水を注ぐ。ゲルハルトが昨日くれた干し肉を少し裂いて加える。煮立つまでの間に、ノートを開いて今朝のユリウスの体温と状態を書き留めた。
書きながら、手の震えがようやく止まった。
記録をつけるという行為が、前世でも今世でも、私を落ち着かせてくれる。
窓の外で、湯気が白く立ち昇っていた。




