第2話 温泉と子どもの熱
硫黄の匂いがした。
馬車の窓から顔を出すと、薄明かりの中に山の稜線が見えた。空がわずかに白んでいる。街道から外れた細い道を馬車が登り、やがて車輪が砂利を噛む音に変わった。
「ここが終点です」
御者の声で馬車が止まった。扉を開けて外に出る。腕の中でユリウスがむずがったが、目は開かなかった。
目の前に広がっていたのは、村というより、村の名残だった。
石造りの家が七、八軒。そのうち三軒は窓板が外れている。道の脇に「リンデンバート温泉郷」と彫られた木の看板が立っていたが、文字の半分は苔に覆われていた。山の斜面のあちこちから白い湯気が細く立ち昇っている。
人の気配は、ほとんどない。
御者が荷台から私の鞄を下ろし、短く頭を下げて馬車を返した。車輪の音が遠ざかっていく。振り返らなかった。
---
一軒だけ、煙突から煙が出ている家があった。
戸を叩くと、しばらく間があって、白髪の老人が顔を出した。背が高い。痩せているが、姿勢がまっすぐだった。
「こんな朝早くに珍しい。——子連れか」
「突然申し訳ありません。しばらくこの村に滞在させていただきたいのですが、空いている家はありますか」
老人——村長のゲルハルトは、私の顔と、腕の中のユリウスを交互に見た。
「訳ありだろうが、聞かんよ。ここは誰も来ん村だ。来る者を追い返す理由もない」
ぶっきらぼうだが、目は穏やかだった。
「通りの突き当たりに元湯治宿の離れがある。屋根と壁はまだ持つ。裏手に湯が湧いとるから、水には困らん」
鍵を渡された。鉄製の、古い鍵だった。
「ああ、それと——」
ゲルハルトが思い出したように言った。
「ここも一応、公爵閣下の領地だったな。まあ、忘れられとるがね」
その言葉が胸の奥に引っかかったが、礼を言って鍵を受け取った。
---
離れは思ったより広かった。
寝台がふたつ、小さな竈、木の机と椅子。埃はあるが、雨漏りの跡はない。窓を開けると、冷たい山の空気と一緒に硫黄の匂いが流れ込んできた。
ユリウスを寝台に寝かせ、毛布をかけ直した。額に手を当てる。
——熱い。
朝方より上がっている。馬車の中では少し落ち着いていたのに、体を動かしたせいか、頬が赤い。呼吸も浅い。
鞄から薬瓶を出した。公爵邸の侍医が処方した解熱剤だ。淡い緑色の液体が瓶の中で揺れている。
これを飲ませれば、一時的には熱が下がるだろう。
ノートを開いた。
過去二週間の記録を指でなぞる。処方変更の前と後。夜泣きの頻度。微熱の持続日数。食事量の減少。
前世で十年以上、子どもの投薬管理をしてきた。この症状の並びには見覚えがある。薬が体に合わないとき、熱が上がっては下がりを繰り返し、少しずつ食欲が落ちていく。解熱剤で一時的に抑えても、根本が変わらなければ同じことの繰り返しだ。
薬瓶を鞄に戻した。
使わない。
この子に必要なのは、薬を増やすことではなく、合わない薬を止めることだ。
---
裏口の戸を開けると、岩の隙間から湯が湧いていた。
湯溜まりは大人が一人座れるほどの広さで、底に白い堆積物がこびりついている。湯気は薄い。手を入れてみた。
ぬるい。体温より少しだけ高い程度——三十八度前後か。
指先を湯の中で動かした瞬間、ほんのわずかに光った気がした。目を凝らしたが、もう見えない。気のせいかもしれない。
ぬるい湯は、使える。
前世で学んだことのひとつ。高熱の子どもに冷水は禁忌だ。体が冷えすぎると震えが起き、かえって体温が上がる。体温に近い微温湯に浸からせると、皮膚表面から穏やかに放熱が進む。血行が改善し、体の自然な解熱機能が働きやすくなる。
ユリウスを抱き上げ、裏手に連れてきた。服を脱がせ、膝の上に乗せてゆっくりと湯に足を入れる。
「……ん」
ユリウスが小さく声を上げた。目は閉じたまま、眉をわずかに寄せる。
「大丈夫。少しだけ浸かろうね」
湯に体を沈めると、ユリウスの強張っていた肩が、少しずつ緩んでいった。ぬるい湯が小さな体を包む。呼吸が深くなる。こわばった指が開く。
私は片手でユリウスの背を支え、もう片方の手で額の汗を拭いた。山の空気は冷たいが、湯の温度が外気との緩衝になっている。
十五分ほど浸からせて、上げた。すぐに乾いた布で体を拭き、着替えさせ、寝台に寝かせる。
額に手を当てた。まだ熱はあるが、先ほどの燃えるような感触ではない。
もう一度、夜にやろう。
---
翌朝。
目が覚めたのは、小さな声が聞こえたからだった。
「——おなか、すいた」
寝台の上で、ユリウスが目を開けていた。
飛び起きて額に手を当てた。
——熱が、引いている。
昨夜、もう一度ぬるい湯に浸からせた。夜中に一度だけ寝返りを打ったが、泣かなかった。ここ二週間で初めてのことだった。
「おなかすいた」
ユリウスがもう一度言った。まっすぐに私を見て、繰り返した。四歳の子どもにとって、空腹は何よりも重大な訴えだ。
笑ってしまった。
「うん。ご飯にしようね」
竈に火を入れなければ。食材は——村長に分けてもらえるだろうか。干し肉と乾パンなら鞄の底にある。おかゆが作れれば一番いい。
立ち上がろうとしたとき、ユリウスの手が私の袖を掴んだ。
「まま、いく?」
どこかへ行くのか、と聞いている。置いていかれることを怖がっている。
しゃがんで、目線を合わせた。
「ご飯を作りに行くだけ。すぐそこだから」
ユリウスの指が、少しだけ緩んだ。完全には離れなかった。
竈は部屋の隅にある。すぐそこだ。離れなくていい。
鞄から乾パンを出して竈に向かおうとしたとき——
村の外れの方から、音が聞こえた。
馬の蹄が、砂利を踏む音だった。
一頭ではない。少なくとも二頭。
窓に寄って、細く開いた隙間から外を見た。
朝靄の向こうに、馬影がふたつ。村の入り口の方から、こちらに向かっている。
誰も来ない場所だと、思っていた。




