表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/10

第2話 温泉と子どもの熱

硫黄の匂いがした。


馬車の窓から顔を出すと、薄明かりの中に山の稜線が見えた。空がわずかに白んでいる。街道から外れた細い道を馬車が登り、やがて車輪が砂利を噛む音に変わった。


「ここが終点です」


御者の声で馬車が止まった。扉を開けて外に出る。腕の中でユリウスがむずがったが、目は開かなかった。


目の前に広がっていたのは、村というより、村の名残だった。


石造りの家が七、八軒。そのうち三軒は窓板が外れている。道の脇に「リンデンバート温泉郷」と彫られた木の看板が立っていたが、文字の半分は苔に覆われていた。山の斜面のあちこちから白い湯気が細く立ち昇っている。


人の気配は、ほとんどない。


御者が荷台から私の鞄を下ろし、短く頭を下げて馬車を返した。車輪の音が遠ざかっていく。振り返らなかった。


---


一軒だけ、煙突から煙が出ている家があった。


戸を叩くと、しばらく間があって、白髪の老人が顔を出した。背が高い。痩せているが、姿勢がまっすぐだった。


「こんな朝早くに珍しい。——子連れか」


「突然申し訳ありません。しばらくこの村に滞在させていただきたいのですが、空いている家はありますか」


老人——村長のゲルハルトは、私の顔と、腕の中のユリウスを交互に見た。


「訳ありだろうが、聞かんよ。ここは誰も来ん村だ。来る者を追い返す理由もない」


ぶっきらぼうだが、目は穏やかだった。


「通りの突き当たりに元湯治宿の離れがある。屋根と壁はまだ持つ。裏手に湯が湧いとるから、水には困らん」


鍵を渡された。鉄製の、古い鍵だった。


「ああ、それと——」


ゲルハルトが思い出したように言った。


「ここも一応、公爵閣下の領地だったな。まあ、忘れられとるがね」


その言葉が胸の奥に引っかかったが、礼を言って鍵を受け取った。


---


離れは思ったより広かった。


寝台がふたつ、小さな竈、木の机と椅子。埃はあるが、雨漏りの跡はない。窓を開けると、冷たい山の空気と一緒に硫黄の匂いが流れ込んできた。


ユリウスを寝台に寝かせ、毛布をかけ直した。額に手を当てる。


——熱い。


朝方より上がっている。馬車の中では少し落ち着いていたのに、体を動かしたせいか、頬が赤い。呼吸も浅い。


鞄から薬瓶を出した。公爵邸の侍医が処方した解熱剤だ。淡い緑色の液体が瓶の中で揺れている。


これを飲ませれば、一時的には熱が下がるだろう。


ノートを開いた。


過去二週間の記録を指でなぞる。処方変更の前と後。夜泣きの頻度。微熱の持続日数。食事量の減少。


前世で十年以上、子どもの投薬管理をしてきた。この症状の並びには見覚えがある。薬が体に合わないとき、熱が上がっては下がりを繰り返し、少しずつ食欲が落ちていく。解熱剤で一時的に抑えても、根本が変わらなければ同じことの繰り返しだ。


薬瓶を鞄に戻した。


使わない。


この子に必要なのは、薬を増やすことではなく、合わない薬を止めることだ。


---


裏口の戸を開けると、岩の隙間から湯が湧いていた。


湯溜まりは大人が一人座れるほどの広さで、底に白い堆積物がこびりついている。湯気は薄い。手を入れてみた。


ぬるい。体温より少しだけ高い程度——三十八度前後か。


指先を湯の中で動かした瞬間、ほんのわずかに光った気がした。目を凝らしたが、もう見えない。気のせいかもしれない。


ぬるい湯は、使える。


前世で学んだことのひとつ。高熱の子どもに冷水は禁忌だ。体が冷えすぎると震えが起き、かえって体温が上がる。体温に近い微温湯に浸からせると、皮膚表面から穏やかに放熱が進む。血行が改善し、体の自然な解熱機能が働きやすくなる。


ユリウスを抱き上げ、裏手に連れてきた。服を脱がせ、膝の上に乗せてゆっくりと湯に足を入れる。


「……ん」


ユリウスが小さく声を上げた。目は閉じたまま、眉をわずかに寄せる。


「大丈夫。少しだけ浸かろうね」


湯に体を沈めると、ユリウスの強張っていた肩が、少しずつ緩んでいった。ぬるい湯が小さな体を包む。呼吸が深くなる。こわばった指が開く。


私は片手でユリウスの背を支え、もう片方の手で額の汗を拭いた。山の空気は冷たいが、湯の温度が外気との緩衝になっている。


十五分ほど浸からせて、上げた。すぐに乾いた布で体を拭き、着替えさせ、寝台に寝かせる。


額に手を当てた。まだ熱はあるが、先ほどの燃えるような感触ではない。


もう一度、夜にやろう。


---


翌朝。


目が覚めたのは、小さな声が聞こえたからだった。


「——おなか、すいた」


寝台の上で、ユリウスが目を開けていた。


飛び起きて額に手を当てた。


——熱が、引いている。


昨夜、もう一度ぬるい湯に浸からせた。夜中に一度だけ寝返りを打ったが、泣かなかった。ここ二週間で初めてのことだった。


「おなかすいた」


ユリウスがもう一度言った。まっすぐに私を見て、繰り返した。四歳の子どもにとって、空腹は何よりも重大な訴えだ。


笑ってしまった。


「うん。ご飯にしようね」


竈に火を入れなければ。食材は——村長に分けてもらえるだろうか。干し肉と乾パンなら鞄の底にある。おかゆが作れれば一番いい。


立ち上がろうとしたとき、ユリウスの手が私の袖を掴んだ。


「まま、いく?」


どこかへ行くのか、と聞いている。置いていかれることを怖がっている。


しゃがんで、目線を合わせた。


「ご飯を作りに行くだけ。すぐそこだから」


ユリウスの指が、少しだけ緩んだ。完全には離れなかった。


竈は部屋の隅にある。すぐそこだ。離れなくていい。


鞄から乾パンを出して竈に向かおうとしたとき——


村の外れの方から、音が聞こえた。


馬の蹄が、砂利を踏む音だった。


一頭ではない。少なくとも二頭。


窓に寄って、細く開いた隙間から外を見た。


朝靄の向こうに、馬影がふたつ。村の入り口の方から、こちらに向かっている。


誰も来ない場所だと、思っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ