第19話 おかあさま
内務卿の役人が来たのは、三月の二十日だった。
中年の男が一人、従者を一人連れて、馬で村に入ってきた。名前はヴェーバーと名乗った。痩せた顔に丸い眼鏡をかけていて、手帳を常に持ち歩いている。記録をつける人間は、見れば分かる。手帳の角が擦り切れていた。
二日間の現地確認だった。
初日は六つの湯溜まりを全て回った。ヴェーバーは一つ一つ手帳に温度と色と匂いを記していた。私の体系化ノートと照合して、数字が一致するか確認している。
「温度の計測方法は」
「手の感覚と、水銀温度器です。ゲルハルトさんが持っていた古い測器で、目盛りは帝国標準です」
「症例の記録は自己申告ですか、それとも経過観察を含みますか」
「来訪時の聞き取りと、可能な場合は三日後と一週間後の再確認を行っています。再確認ができた症例には印をつけてあります」
ヴェーバーが眼鏡の奥の目を少しだけ見開いた。
「再確認まで行っているのですか」
「記録は一回では不十分です。経過を追わなければ、効果があったかどうか判断できません」
前世では当たり前のことだ。けれどこの世界では、湯治の効果を経過観察した記録は珍しいらしい。ヴェーバーが手帳に長い文を書き込んでいた。
二日目は症例ノートの精査だった。四十件近い記録を一件ずつ確認していく。ヴェーバーは質問が多かった。細かい質問をする人だ。けれど不愉快ではなかった。確認のための質問と、疑うための質問は違う。この人は前者だった。
ハンナの蒸気吸入を実際に見せた。ハンナは慣れたもので、布を口元に当てて静かに呼吸する姿を見て、ヴェーバーが手帳に「児童への適用例」と書いたのが見えた。
帰り際、ヴェーバーが私に頭を下げた。
「報告書は内務卿に提出します。認可の判断は内務卿の権限ですが——率直に申し上げて、これほど体系的な湯治の記録は、私の知る限り帝国内にありません」
「ありがとうございます」
「記録を続けてください。認可の有無にかかわらず、この記録自体に価値があります」
ヴェーバーが馬に乗って去っていくのを見送った。
ゲルハルトが隣に立っていた。腕を組んでいる。
「あいつ、悪い役人ではなさそうだな」
「記録を大事にする人でした」
「あんたと気が合うわけだ」
ゲルハルトが鼻を鳴らした。
三月の終わりが近づいていた。
村の周りの木々に、薄い緑が見え始めた。枝先の芽が膨らんで、うっすらと色づいている。まだ葉とは呼べない。けれど冬の枯れた茶色の中に緑が混じると、空気まで変わったように感じる。
離れの裏手の白い花は、いつの間にか三輪に増えていた。ユリウスが毎朝数えている。
「まま、きょうはみっつ」
「三つになったね」
「あしたはよっつ?」
「かもしれないね」
「よっつになったら、ハンナにおしえる」
ユリウスが石畳を走っていった。この子の足音が、来た頃より力強くなった。四歳の足は軽い。石畳を叩く音が高い。元気な音だ。
その日の朝食の後だった。
ディートリヒが離れの中で靴紐を結んでいた。ゲルハルトの家に行くのだろう。内務卿からの認可連絡を待ちながら、二人で温泉郷の運営規定を作っている。認可が下りた後に必要な書類だ。
ユリウスが私のそばに来て、袖を引いた。
「エレ」
手が止まった。
ディートリヒの手も止まった。靴紐を結ぶ途中で、指が動かなくなっていた。
ユリウスが私を見上げている。まっすぐな目。何の迷いもない顔。
「エレ、おゆいく?」
呼ばれた名前が、胸の中で反響した。
ディートリヒが使った呼び名だ。——先日、無意識に口にして、耳を赤くした、あの呼び名。ユリウスはそれを聞いていたのだ。子どもの耳は鋭い。大人が意識していない言葉でも、拾う。
「ユリウス。私のこと、今なんて呼んだ?」
「エレ。パパがいってた」
ディートリヒが靴紐から目を上げなかった。耳が赤くなっていないか確認したかったが、髪で隠れていて見えなかった。
「まま、じゃなくて?」
「エレもいう。ままもいう」
両方呼ぶ、ということらしい。四歳の言語感覚は柔軟だ。一つの対象に複数の呼び名を使い分けることに抵抗がない。
「エレ、おゆいく?」
「行こうか。上着を着てね」
ユリウスが上着を取りに走っていった。
ディートリヒが靴紐を結び終えて立ち上がった。
私と目が合った。
何かを言いそうな顔だった。口が開きかけて、閉じた。
「……行ってくる」
それだけ言って、離れを出ていった。
戸が閉まった後、一人で息を吐いた。
エレ。
名前を縮めて呼ばれることに、慣れていない。前世では名字で呼ばれることが多かった。この世界でも「奥方」か「エレオノーラ」だった。二文字の呼び名は、距離が近い。近すぎて、少しくすぐったい。
ユリウスと裏手の湯溜まりに行った。
三月の終わりのぬるい湯は、冬よりわずかに温かく感じる。外気が上がったからだろう。ユリウスは足だけ湯に浸けて、指先で水面を叩いている。水しぶきが跳ねるたびに笑う。
「エレ、みて。おさかなみたい」
指先で水面を叩く動きが魚に似ている、と言いたいらしい。似ていないが、言わなかった。
「上手だね」
「ハンナにもみせる」
「ハンナにも見せてあげて」
白い花が三輪、岩の隙間に咲いている。朝より少し花弁が開いた気がする。日差しのおかげだ。三月の日差しは柔らかい。冬の鋭い光とは違う。
「エレ」
「なに」
「あしたもおゆくる?」
「来るよ」
「あさっても?」
「あさっても」
「ずっと?」
「ずっとだよ」
ユリウスが笑った。安心した顔だった。この子は時々、確認する。明日もいるか、あさってもいるか、ずっとか。確認して、安心して、それで遊びに戻る。
確認しなくなる日が来るだろう。いることが当たり前になる日が。その日が来たら、それは——この子にとって、私がここにいることが疑いのないものになったということだ。
まだ少し先かもしれない。でも近づいている。
午後、ハンナが来て、二人は外に出ていった。
石畳の先の、村の入り口のあたりまで遊びに行くらしい。ゲルハルトが「行き過ぎるな」と声をかけて、ハンナが「わかってる」と返した。いつものやり取りだ。
私は離れの中で症例ノートの整理をしていた。ヴェーバーの現地確認で指摘された項目を修正している。記録の精度を上げるための細かい作業だ。
窓の外に、春の日差しが注いでいた。石畳が乾いて白く光っている。雪解けの水は引いて、道は歩きやすくなった。
静かな午後だった。ペンの走る音と、遠くの子どもの声と、湯溜まりの水が微かに動く音。
夕方の光が傾き始めた頃だった。
外から、泣き声が聞こえた。
ユリウスの声だ。
ペンを置いて立ち上がった。離れの戸を開けた。
石畳の上に、ユリウスが座り込んでいた。膝を抱えて泣いている。ハンナがそばにしゃがんで、背中をさすっていた。
走った。
「ユリウス、どうしたの」
しゃがんで顔を見た。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。
「ころんだ。いたい」
膝を見た。右膝の皮が擦りむけて、赤くなっている。血は出ているが、少量だ。石畳で転んだのだろう。
「大丈夫。ちょっと見せてね」
膝に触れようとした瞬間、ユリウスが体を起こして、私にしがみついた。
小さな体が、私の胸にぶつかった。両手が首に回る。泣きながら、顔を肩に押しつけた。
その口から、言葉が出た。
「おかあさま、いたい」
手が止まった。
頭の中が、白くなった。
「おかあさま」
ユリウスが、私を呼んだ。
「まま」ではない。「エレ」でもない。
「おかあさま」。
一月の終わりに、ハンナの母カミルを見て、「おかあさまって、なに」と聞いた。あのとき、私は答えた。アデリーナという人がいたこと。ユリウスが生まれたとき喜んだ人だということ。もう会えないこと。
ユリウスは「ままは、ままだよ」と言った。
あれから二ヶ月。この子の中で、何かが変わった。変わったのではない。育ったのだ。「まま」と「おかあさま」の違いを、四歳なりに感じ取って、今、この瞬間に——痛くて、怖くて、泣いているこの瞬間に、出てきた言葉が「おかあさま」だった。
「おかあさま、いたい、いたい」
泣き声が肩口で震えている。
息を吸った。
泣くな。まだ泣くな。この子の膝を見なければ。手当てをしなければ。泣くのは後だ。
「うん。痛いね。大丈夫、すぐ手当てするからね」
声は普段通りに出た。前世の十年が、こういうときに体を動かしてくれる。泣いている子どもの前では、まず声を落ち着かせる。声が穏やかであれば、子どもは安心する。
ユリウスを抱き上げて、離れに戻った。寝台に座らせ、膝を見た。擦り傷だ。深くはない。砂利が少し入り込んでいる。
水で洗った。ユリウスが「いたい」と声を上げたが、暴れなかった。しがみついていた手は私の袖を掴んでいる。
ゲルハルトの薬草の軟膏を塗った。清潔な布を巻いた。
「はい、おしまい。痛かったね」
「いたかった」
涙が止まっている。目元が赤いが、もう泣いていない。
「すぐ治るからね」
「なおる?」
「治るよ。明日にはもう痛くないよ」
ユリウスが私の顔を見た。泣いた後の、まっすぐな目。
「おかあさま」
もう一度、呼んだ。
泣いているときの咄嗟の言葉ではない。落ち着いた声で、私の顔を見て、はっきりと。
「おかあさま、ありがとう」
ハンナが戸口に立っていた。
「おねえちゃん——ユリウス、大丈夫?」
「大丈夫だよ。ちょっと転んだだけ」
ハンナが安心した顔をして、ユリウスの隣に座った。
「ユリウス、泣いてたね」
「なかないよ」
「泣いてたよ」
「もうなかない」
「うん。もう大丈夫だよね」
ハンナがユリウスの頭を撫でた。八歳の手が四歳の頭を撫でる。姉と弟のようだった。
二人が外に出ていくのを見送った。ユリウスは少しだけびっこを引いていたが、石畳の上を歩いている。ハンナが手を繋いでいた。
一人になった。
離れの中に、夕方の光が差し込んでいる。
椅子に座った。
それから、泣いた。
声は出さなかった。涙が頬を伝って、顎から落ちた。机の上のノートの表紙に一滴落ちて、革の表面に小さな染みを作った。
おかあさま、と呼ばれた。
この子の母ではない。継母だ。血の繋がりはない。公爵邸で与えられた役割は「ユリウスのそばにいること」だけだった。
でも、この子が痛いとき、怖いとき、泣いているとき——走ってきたのは私のところだった。しがみついたのは私の首だった。出てきた言葉は「おかあさま」だった。
半年以上、毎日体温を測った。食事を作った。記録をつけた。おやすみを言った。
その全部が、今日のこの一言に繋がっている。
泣いているのは嬉しいからだ。嬉しくて、苦しくて、その二つが同時に来て、涙になった。
涙を拭いた。手の甲で、乱暴に拭いた。
ノートを開いた。
今日の記録。
体温三十六度四分。食欲良好。排泄正常。午前は湯溜まり巡回に同行。午後はハンナと外遊び。夕方、石畳で転倒し右膝を擦りむく。軽度の擦過傷。洗浄し軟膏塗布、布で被覆。出血は微量、縫合不要。
特記事項——
ペンが止まった。
看護記録に書くべきことか。体温でも食事量でもない。投薬の記録でもない。
でも書いた。
『本日、ユリウスが初めて「おかあさま」と呼んだ。転倒時の咄嗟の発言、および手当て後の落ち着いた状態での発言。計二回。呼称の変化は情緒面の発達と、養育者への信頼の深化を示すものと考えられる』
看護記録の書き方だ。客観的で、淡白で、感情を排した記述。
最後に一行、足した。
書くつもりはなかった。ペンが勝手に動いた。
『嬉しかった』
ペンを置いた。
ノートを閉じようとして、やめた。その一行を見つめた。
看護記録に「嬉しかった」と書いたのは、前世を含めて初めてだった。十年間、何千人もの子どもの記録をつけてきて、一度も書かなかった。書いてはいけないと思っていた。記録は客観的でなければならない。感情は記録を歪める。そう教わった。
でも——。
この記録は、看護記録ではない。
この子の成長の記録であり、この家の記録であり、この村の記録だ。体温と食事量の間に、木の実を並べたことや、雪だるまを作ったことや、「いっしょ」と言ったことを書いてきた。
なら、「嬉しかった」も書いていい。
ノートを閉じた。
夜になった。
ユリウスを寝台に寝かせた。膝の包帯を確認した。血は止まっている。腫れもない。明日には痛みも引くだろう。
「おやすみ、ユリウス」
「おやすみ、おかあさま」
三度目だった。
もう咄嗟の言葉ではない。選んで、使っている。「まま」ではなく「おかあさま」を。
「……おやすみ」
もう一度言った。声が少し掠れたが、気づかれなかっただろう。
ユリウスが目を閉じた。すぐに寝息が聞こえた。転んだ疲れか、泣いた疲れか、あるいはその両方か。
ディートリヒが戻ってきたのは、ユリウスが眠った後だった。
ゲルハルトの家で遅くまで書類作業をしていたらしい。外套を脱いで、靴を脱いで、簡易寝台に腰を下ろした。
「ユリウスが転んだと聞いた」
「膝の擦り傷です。軽傷です。手当てしました」
「ああ」
ディートリヒが寝台のユリウスを見た。穏やかな寝顔だ。包帯が少しだけ見えている。
「大丈夫そうだな」
「大丈夫です」
沈黙が落ちた。竈の火が弱くなっている。橙色の光が壁に揺れている。
今日のことを、この人に言うべきだろうか。
「おかあさま」と呼ばれたことを。
言わなかった。
ディートリヒに言えば、この人は何と答えるだろう。「ユリウスが決めたことだ」と言うだろうか。あの静かな声で。
言いたかった。でも、今日はまだ——胸の中のものが溢れそうで、声にすると泣いてしまいそうで、言えなかった。
代わりに、いつもの言葉を言った。
「おやすみなさい」
「ああ」
ディートリヒが横になった。一分で寝息が聞こえ始める。この人は本当にすぐ眠る。
離れの中に、三つの寝息が満ちた。
大きいのと、小さいのと、中くらいの。木の実みたいだ、と思った。
窓の外に、春の星が見えた。冬より高い位置で、冬より柔らかく光っている。
机の上のノートの中に、「嬉しかった」の一行がある。
誰にも見せなくていい。いつかディートリヒがこのノートを読む日が来るかもしれない。来ないかもしれない。
どちらでもいい。
記録は残る。残ったものが、いつか誰かの目に触れる。そのとき、この一行が何を伝えるかは分からない。
でも、書いた。
書いたことに、悔いはない。
目を閉じた。
春の夜は、冬より少しだけ短い。朝が早く来る。明日もユリウスの体温を測る。食事を作る。記録をつける。花が四つに増えているか確認する。
おかあさま。
頭の中で、あの声が響いていた。
小さな手が首に回る感触が、まだ残っていた。




