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継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第18話 聞きたいこと

三月の半ば、リンデンバートに最初の花が咲いた。


離れの裏手、湯溜まりのそばの岩の隙間に、小さな白い花がひとつ。名前は分からない。この世界の植物にまだ詳しくない。前世の知識で言えばフキノトウに似た形だが、花弁が白い。


ユリウスが見つけた。


「まま、おはな」


朝の湯溜まり巡回に付いてきたユリウスが、岩の隙間を指差した。しゃがみ込んで、顔を近づけている。


「きれいだね。摘まないでね」


「とらない。みるだけ」


最近のユリウスは「見るだけ」ができるようになった。以前なら手を伸ばして掴んでいた。四歳と半年。少しずつ、自分の手を止めることを覚えている。


「おゆのちかくだから、あったかいからさいたの?」


「そうだね。湯溜まりの近くは地面が温かいから、ほかの場所より早く咲くんだと思う」


「ゆのちからだ」


ユリウスが真剣な顔で頷いた。湯の力。この子はこの村の湯を、何か特別なものだと思っている。間違いではない。


ノートに書いた。日付、湯溜まり裏手の岩場に白い花が一輪。ユリウスが発見。春の兆し。


湯治客の数が増えていた。


雪解けで道が通りやすくなったせいだろう。三月に入ってから、週に五組を超える来訪がある。リーフェンタール伯爵領からだけでなく、東の街道沿いの宿場町や、南の農村からも人が来る。


症例ノートは四十件に迫っていた。腰痛、膝の痛み、手指のこわばり、慢性の肩こり、冷え性。どれも深刻な病ではないが、日々の暮らしに支障をきたすもので、治癒師に診せる金がない人ばかりだ。


湯溜まりの使い分けにも慣れた。北の岩場の高温泉は筋肉の痛みに。東の林のぬめりのある湯は関節に。南の斜面の気泡の湯はハンナの蒸気吸入と呼吸器に。離れの裏手のぬるい湯は発熱時と、心が疲れた人に。


「ぬるい湯は心に効く」——先代公爵の言葉を、ゲルハルトが教えてくれた。実際、裏手のぬるい湯に浸かった後の来訪者は、体だけでなく表情も和らいでいることが多い。記録に残している。科学的な根拠は分からない。けれど看護師は目の前の事実を記録する。理屈は後からついてくる。


ハンナの咳は、ほぼ出なくなった。冬の間は予防で蒸気吸入を続けていたが、三月に入ってからは週に二度に減らした。それでも咳は戻らない。


ゲルハルトがそのことに触れないのは、照れているからだと思う。孫娘の咳が止んだことを誰よりも喜んでいるはずなのに、口に出さない。ただ、ハンナが外を走り回っているのを見るとき、腕を組んだまま目元だけが緩む。


その日の午後、ディートリヒが離れに戻ってきた。


ゲルハルトの家で書類作業をしていたはずだが、いつもより早い。外套を脱いで椅子の背にかけ、机の前に座った。


「内務卿から返信が来た」


「認可ですか」


「まだだ。追加で現地確認の人間を送ると書いてある。内務卿の部下が来る。一週間以内に」


現地確認。つまり、役人がこの村に来て、湯溜まりを見て、記録を確認するということだ。


「ノートを見せることになりますか」


「なる。症例の記録と、湯溜まりの体系化ノート。両方だ」


「準備します」


「ああ」


ディートリヒがペンを取り、手元の紙に何かを書き始めた。内務卿への返信だろう。


私は棚からノートを三冊出した。一冊目のユリウスの健康記録は見せない。二冊目の症例記録と三冊目の体系化ノートを整理する。


ページを捲りながら、記録の抜けがないか確認していく。来訪者の名前、症状、使用した湯、入り方、時間、回数、経過。全て揃っている。


ディートリヒがペンを止めた。


「エレオノーラ」


顔を上げた。この人が私を名前で呼ぶようになったのは——いや、十二月の下旬からだ。もう三ヶ月近くになるが、まだ呼ばれるたびに胸の奥が少しだけ跳ねる。慣れない。


「はい」


「一つ、聞いていいか」


ディートリヒの手がペンを置いた。机の上に、目を落としたままだった。


「前に——聞きたいことがあると言った。聞き方が分からんと」


二月の終わりの雨の日。アデリーナの手紙を読んだ後。あの日、ディートリヒは「聞きたいことがある。聞き方が分からんだけだ」と言った。私は「まとまったときでいいです」と返した。


まとまったのだ。


「どうぞ」


ディートリヒが顔を上げた。私を見た。


「あんたは——なぜユリウスのそばにいる」


問いの意味を、一瞬、考えた。


「なぜ、というのは——」


「血の繋がりはない。俺の後妻として嫁いだだけだ。継母として義務を果たせば、それで十分だった。誰もあんたに、毎日体温を測れとは言っていない。食事の量を計れとも、夜泣きの回数を数えろとも。ノートに記録しろとも。誰も言っていない」


声は淡々としていた。詰問ではない。この人が本当に知りたいことを、ようやく言葉にしている声だった。


「なのに、あんたはやった。半年以上、一日も欠かさずにやった。公爵邸でマルガレーテに叱責されながらやった。薬が合わないと進言して却下されても、やめなかった。挙げ句、子どもを連れて夜逃げした」


ディートリヒの目が、まっすぐに私を見ていた。


「なぜだ」


窓の外で、湯気が白く立ち昇っている。ユリウスはハンナと石畳で遊んでいる。笑い声が聞こえる。


なぜ。


この問いに、きちんと答えなければならないと思った。


「前世で——」


言いかけて、止まった。前世の話をするのか。この世界で「前世」という概念がどこまで通じるか分からない。ディートリヒは転生の話を聞いたことがない。


言い直した。


「私は昔から、子どもの体調を記録する仕事をしていました。それが——身に染みついているんです」


嘘ではない。全てではないが、嘘ではない。


「ユリウスの熱を測って、食べた量を書いて、夜泣きの回数を数える。それは私にとって特別なことではなくて——やらない方が気持ち悪いんです。やらないと、この子に何が起きているか分からなくなる。分からないのが怖い」


ディートリヒは黙って聞いていた。


「公爵邸で、マルガレーテ様に養育から外されたとき。あの子の体温が分からなくなる、と思いました。昨日より高いのか低いのか、夜泣きが増えたのか減ったのか、薬が合っているのか合っていないのか。記録を取れなくなったら、この子を守る手段がなくなる」


声が大きくなりかけたのを抑えた。


「だから連れて出ました。身勝手です。継母の分際で、と言われれば、その通りです。でも——」


「言うな」


ディートリヒが遮った。


声は低かった。けれど硬くはなかった。


「継母の分際、という言い方は——俺の家で起きたことだ。あんたの問題ではない。俺が不在だったから起きた。俺がユリウスのそばにいれば、あんたが夜逃げする必要はなかった」


「旦那様は帳簿の調査を——」


「必要な仕事だった。だが、必要な仕事を理由にして、もっと必要なことから逃げていたと、前にも言った。二度言わせるな」


不器用な言葉だった。「二度言わせるな」は怒っているのではなく、自分に対する苛立ちだ。もう分かる。この人の言葉の裏は、五ヶ月一緒に暮らせば読める。


「もう一つ聞く」


「はい」


「あんたは——この先も、ここにいるか」


質問の形をしていたが、声は質問の声ではなかった。確認しようとしている。確かめたいものがあって、言葉にしている。


「います」


「なぜだ」


「ユリウスがいるからです」


即答だった。考える必要がなかった。


「それだけか」


ディートリヒの声が、少しだけ低くなった。


それだけか。


胸の奥で、何かが動いた。温かいものだ。恋と呼ぶには静かすぎるが、確かにそこにある。


「……それだけでは、ないかもしれません」


正直に言った。


ディートリヒの手が、机の上で止まっていた。木の実の横に置かれた手。大きな手だ。釘をまっすぐ打ち、薪を割り、息子の髪をそっと撫でる手。


「まとまらん」


ディートリヒが言った。


「聞きたいことは聞いた。だがまだ、まとまらん」


「まとまらなくていいです」


「いいのか」


「はい。まとまったときに、また聞いてください」


同じやり取りだ。二月の雨の日と同じだ。でも、あのときとは少し違う。あのときは「聞き方が分からん」だった。今日は「まとまらん」だ。聞くことはできた。答えも聞いた。ただ、その先が、まだ形にならない。


ディートリヒが目を逸らした。ペンを取り直し、内務卿への返信に戻った。


「……エレ」


手が止まった。


ディートリヒ自身の手が、止まった。


今、この人は——。


「何だ」


私に聞いたのではない。自分に聞いている。自分が今、何と言ったか確認している。


「エレ、と——おっしゃいました?」


ディートリヒの耳の先が、わずかに赤くなった。


見間違いではない。この人の耳は薄いから、血の色が透ける。赤い。確かに赤い。


「言ったか」


「言いました」


「……言い間違いだ」


「はい」


「エレオノーラ、だ」


「はい」


「長い」


「長いですね」


ディートリヒがペンを握り直した。紙の上に何かを書こうとして、一文字も書かないまま止まった。


「書類に戻る」


「どうぞ」


沈黙が戻った。ペンの走る音と、窓の外のユリウスの声と、湯溜まりの湯気が微かに立てる音。


私はノートの整理に戻った。症例記録のページを捲る。来訪者の名前と症状を確認していく。


指先が温かかった。部屋の温度は変わっていないのに。


夕方、ユリウスとハンナが戻ってきた。


ユリウスの手に、白い花が一輪あった。


「まま、とった」


「摘まないでね、って言ったでしょう」


「とってない。おちてた」


嘘ではないかもしれない。花びらが少し萎れている。風で落ちたものを拾ったのだろう。


「おはな、ままにあげる」


小さな手が、白い花を差し出した。


「ありがとう」


受け取った。萎れかけた白い花を、水を入れた小さな瓶に挿した。机の上に置いた。木の実の隣に。


三つの木の実と、一輪の白い花。


ユリウスがそれを見て、満足そうに頷いた。


「いっしょ」


いつもの言葉だった。


夕食の後、ディートリヒがユリウスを湯溜まりに連れていった。


裏手のぬるい湯だ。日が落ちた後の湯溜まりは、湯気が濃くなって周囲がぼんやりと白く煙る。ユリウスは湯が好きだ。入ると出たがらない。


「パパ、まだ」


「もう上がる」


「まだー」


「指が皺になっとるぞ」


「しわ、おもしろい」


遠くから聞こえる声を聞きながら、離れの中で洗い物をしていた。皿を三枚洗い、鍋を洗い、竈の灰を掻き出す。


毎日同じことをしている。体温を測り、食事を作り、記録をつけ、皿を洗う。同じことの繰り返しだ。


でも同じ日はない。


ユリウスの言葉が増え、ディートリヒの表情が少しずつ柔らかくなり、ゲルハルトの笑い顔が板についてきて、ハンナの咳が消え、湯治客が増え、花が咲く。


同じ日はない。記録をつけているから分かる。昨日と今日は違う。今日と明日も違う。


ユリウスを寝台に寝かせた後、ノートを開いた。


体温三十六度五分。食欲良好。排泄正常。午前は花を発見。午後はハンナと外遊び。夕方、湯溜まりに入浴(裏手のぬるい湯、約十五分)。入浴後の機嫌良好。


特記事項——


ペンを走らせる。


内務卿から現地確認の連絡。一週間以内に役人来訪予定。症例記録と体系化ノートの整理完了。


書き終えて、ペンを止めた。


もう一行、書きたいことがあった。


ディートリヒが「エレ」と呼んだこと。言い間違いだと言ったこと。耳が赤かったこと。


書かなかった。看護記録には書かない。


でも覚えている。記録しなくても、覚えていることが増えている。ノートに書けないことばかりが、胸の中に溜まっていく。


ノートを閉じた。


簡易寝台で、ディートリヒがもう眠っている。湯に入ったせいか、いつもより早く寝た。寝息が規則的だ。ユリウスの寝息と少し似ている。親子だな、と思った。


窓の外に星が見えた。三月の星は、冬の星より少しだけ高い位置にある。空が広くなったように感じるのは、木の枝先に芽が膨らんで、空の見え方が変わったからだろう。


机の上に、木の実が三つと、白い花が一輪。


竈の残り火が、それを淡く照らしていた。


おやすみ、ユリウス。おやすみ、ディートリヒ。


今日も声には出さなかった。でもいつか——まとまったら——声に出せる日が来るのかもしれない。


目を閉じた。


湯気の匂いと、かすかな硫黄の匂いが、離れの中に漂っていた。

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