第16話 出さなかった手紙
二月の終わりに、雨が降った。
冬の間は雪か晴れが多かったリンデンバートに、初めてまとまった雨が来た。冷たい雨ではない。雪を溶かす、少しだけぬるい雨だ。山の空気に混じる硫黄の匂いが、雨のせいでいつもより濃くなっている。
朝から降り続いて、昼を過ぎても止まなかった。
湯治客は来ない。道がぬかるんで、馬車も通れないだろう。村の中も静かだ。ゲルハルトの家の煙突から煙が上がっているのが見えるだけで、他の家は戸を閉めている。
ユリウスは退屈していた。
外に出たがったが、雨の中を裸足で走らせるわけにはいかない。離れの中で積み木の代わりに薪を積んでいたが、三回崩れたところで飽きた。
「まま、ひまー」
「お絵描きしようか」
ノートの余白ページを破って渡した。ペンの代わりに、竈の灰を水で溶いて指につけさせる。灰色の指で紙の上に何かを描き始めた。丸がいくつかと、線が何本か。
「これ、なに」
「おゆ」
湯溜まりのつもりらしい。丸が湯溜まりで、線が湯気だ。
「こっちは」
「ハンナ」
棒人間のようなものが一つ。
「こっちは」
「パパ。おおきい」
確かに大きい。丸い頭が紙の端まではみ出している。
ディートリヒは離れの隅で書類を広げていたが、ユリウスの「おおきい」という声に顔を上げた。
「何がでかいと言っている」
「パパの絵です。頭が大きいそうです」
ディートリヒが立ち上がって、ユリウスの絵を覗き込んだ。
「……似ていない」
「にてる」
「頭がでかすぎる」
「パパのあたまはおおきいよ」
ディートリヒが何か言いかけて、やめた。椅子に戻った。
ユリウスが絵の続きを描いている。私の分も描いてくれたらしい。パパよりは頭が小さい。
「ユリウスは」
「ここ」
大きいパパと中くらいの私の間に、小さな棒人間。三人並んでいる。
木の実と同じだ。大きいの、中くらいの、小さいの。横一列。
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午後になっても雨は止まなかった。
ユリウスが昼寝に入った。寝台の上で毛布にくるまって、すぐに寝息を立て始めた。午前中に薪を積んだり絵を描いたりした疲れだろう。
離れの中が静かになった。
雨の音だけが聞こえている。屋根を打つ音が一定で、不思議と落ち着く。
ディートリヒは机に向かっていた。書類ではなく、地図を広げている。ゲルハルトから借りた古い地図だ。リンデンバートと周辺の山の地図。内務卿への追加資料に、村の位置と湯溜まりの配置を添えるためだと言っていた。
私は棚の前に立っていた。
棚の奥に、木箱がある。
この村に来た最初の週に見つけた箱だ。中身はアデリーナ宛てのディートリヒの手紙の束。紐で括られた便箋が十通ほど。あのときは読まずに戻した。
ゲルハルトが言っていた。出されなかった手紙だと。ヴィルヘルム公爵がこの村に手紙を持ち込んだのか、ディートリヒ本人が置いていったのか、ゲルハルトにも分からないと。
棚に手を伸ばしかけて、止めた。
「あれか」
背後から声がした。
振り返ると、ディートリヒが地図から目を上げていた。私の視線の先を追ったのだろう。
「棚の手紙のことなら、知っている」
「……ご存じでしたか」
「ゲルハルトから聞いた。あんたが見つけて、読まずに戻したと」
ゲルハルトが話したのか。あの人は口が堅いようでいて、必要な情報はきちんと回す。
ディートリヒが椅子から立ち上がった。棚まで来て、木箱を引き出した。埃がうっすらと積もっている。前回私が戻してから、誰も触っていない。
紐を解いた。便箋の束を手に取った。
「読むか」
「え」
「あんたに関係のある話だ。読んでいい」
差し出された。
受け取るべきかどうか迷った。亡くなった人への手紙だ。しかも先妻への、夫の手紙だ。私が読むものではない。
けれど、ディートリヒが「読んでいい」と言った。この人は嘘を言わない。不要なことも言わない。読んでいいと言ったのなら、読む意味があるということだ。
最初の一通を開いた。
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筆跡は硬かった。ディートリヒの字だ。書類に赤い線を引くときの、あの迷いのない線と同じ筆圧。
『アデリーナへ。今日、ユリウスが初めて笑った。口の端が少し上がっただけだが、侍女は笑ったと言い張っている。俺には判断がつかない。赤ん坊の笑顔がどういうものか、よく分からない』
日付は三年半ほど前。ユリウスが生まれて間もない頃だ。
二通目。
『ユリウスが熱を出した。侍医は大したことないと言うが、夜中に何度も泣く。母上が侍女に指示を出して対応しているが、俺には何もできない。何をすればいいか分からない。あんたがいれば聞けたのに』
あんたがいれば。
アデリーナはこの時点で、もう亡くなっていた。
三通目。
『母上がユリウスの部屋を移した。理由は聞いていない。母上が決めたことに口を出す習慣が、俺にはない。父上もそうだった。そうやって育った。正しかったのかは分からない』
四通目。
『北部領に出る。帳簿に不審な点がある。三ヶ月かかるかもしれない。ユリウスのことは母上に任せる。任せる以外の選択肢を、俺は持っていない。持っていないことが、たぶん問題なのだと思う』
五通目。
『後妻の話が来ている。ヘルムートという法務局の男から紹介だ。母上は反対している。母上が選んだ相手ではないからだ。俺は会ったことがない。会ってもいない人間を妻にする。前回もそうだった。あんたとも、会う前に決まっていた。それでもあんたは笑っていた。あの笑顔が本物だったかどうか、今も分からない』
手紙を持つ指先が、冷たくなっていた。
六通目。
『エレオノーラという名前だそうだ。伯爵家の娘。母上の知らない家から来る。母上は怒っている。俺には断る理由がない。ユリウスの世話をしてくれる人が来るなら、それでいい。それでいいと思っている自分が、父上に似ていて嫌だ』
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最後の一通は、他の手紙より紙が新しかった。
『アデリーナへ。これが最後の手紙だ。書いても届かない手紙をこれ以上書いても意味がない。ユリウスのそばに、エレオノーラがいる。あの人は毎日記録をつけている。体温と食事量を。俺がやらなかったことを、あの人がやっている。あんたが生きていたら、あんたがやっていたかもしれないことを。だから、もう書かない。この手紙をリンデンバートに置いていく。父上が好きだった村に。出さなかった手紙は、出さなかったままでいい』
日付は——十月。
今年の十月だ。
私がリンデンバートに逃げてくる前。ディートリヒが北部領の視察に出る直前。
この手紙を置きにこの村に来たのか。
ディートリヒがこの村を知っていたのは、先代公爵から聞いていたからではなく、自分の足で来たからだ。
手紙を束に戻した。
手が震えていた。
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ディートリヒは窓際に立っていた。雨を見ている。
「最後の手紙は、十月の日付でした」
「ああ」
「この村に来たことがあったんですね。北部領の視察に出る前に」
「一度だけ来た。父上が好きだった場所だと、ゲルハルトから聞いていた。手紙を置いて、そのまま北に向かった」
「ディートリヒ様が初めてこの村に来たとき—あの日、村の様子を初めて見る顔をしていました。あれは——」
「手紙を置いたのは夜だった。村を見て回る暇はなかった。翌朝にはもう発った」
夜来て、手紙を置いて、朝には去った。村の湯溜まりも、石畳も、看板も見ていない。ただ手紙を届けるためだけに来た。届ける相手はもういないのに。
「アデリーナさんに手紙を書くのは、いつからですか」
「あいつが死んでからだ。生きている間は書かなかった。話す機会はあったのに、何を話していいか分からなかった。死んでから、言いたいことが出てきた。間の悪い男だ」
自嘲ではなかった。淡々とした声だった。それでも、「間の悪い男だ」という言葉には、どこか痛みがあった。
「手紙に——私の名前がありました」
「ああ」
「『あの人は毎日記録をつけている。俺がやらなかったことを、あの人がやっている』と」
ディートリヒが窓から離れた。私の方を向いた。
雨の音が離れの屋根を打っている。ユリウスの寝息が、その音に混じって聞こえる。
「俺はユリウスのそばにいなかった」
低い声だった。
「帳簿を調べていた。それは必要なことだった。だが、必要なことを理由にして、もっと必要なことから逃げていた。ユリウスの熱が何度あるか、何を食べたか、夜中に何回泣いたか。知らなかった。知ろうとしなかった」
「旦那様は——」
「あんたが記録をつけているのを見て、初めて気づいた。知るべきことを、知る方法を、俺は持っていなかった。あんたは持っていた」
窓の外で、雨粒が石畳を叩いている。
「アデリーナにもそうだった。あいつが何を考えているか、何を望んでいるか、聞かなかった。母上が選んだ相手で、おとなしくて、言うことを聞く人で——それ以上のことを、知ろうとしなかった」
ディートリヒの目が、まっすぐに私を見た。
「あんたには聞きたいことがある。聞き方が分からんだけだ」
不器用な言葉だった。
パンを焦がすのと同じだ。やろうとしている。やり方が分からないだけで、やろうとしている。
「何でも聞いてください」
「……今すぐにはまとまらん」
「まとまったときでいいです」
ディートリヒが目を逸らした。窓の方を向いた。それから、ぽつりと言った。
「——この雨は、いつ止む」
天気の話に逃げた。
「明日の朝には止むと思います。山の雨は長く降りません」
「ゲルハルトの家の屋根が、少し漏れている」
「直すんですか」
「材料はある。雨が止んだら」
公爵当主が屋根を直す。パンを焦がした人が屋根を直せるのか、少し不安だったが、言わなかった。
「私も手伝います」
「あんたに屋根が直せるのか」
「梯子を支えるくらいはできます」
ディートリヒの口元が動いた。笑ったのだと思う。見間違いではないと思う。最近は見間違いかどうか迷うことが減った。
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寝台でユリウスが寝返りを打った。
「……まま」
寝言だった。目は開いていない。
毛布をかけ直した。小さな手が毛布の端を握った。
「ぱぱ……おゆ……」
湯溜まりの夢を見ているのだろう。パパと一緒にお湯に行く夢。
ディートリヒが寝台の横に来ていた。いつの間にか。
ユリウスの寝顔を見下ろしている。大きな手が、小さな頭に触れかけて——今度は止まらなかった。指先でそっと、髪を撫でた。
一度だけ。
それだけで手を引いて、机に戻った。
何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
雨の音が、少しだけ弱くなった気がした。
ノートを開いた。今日の記録をつける。
体温三十六度四分。食欲良好。午前中に絵を描いた。家族の絵。パパの頭が大きい。午後は昼寝。
特記事項の欄で、ペンが止まった。
書きたいことがたくさんあった。手紙のこと。ディートリヒの言葉のこと。「聞きたいことがある」という不器用な告白のこと。
看護記録には書けない。
でも、覚えている。全部、覚えている。記録しなくても、覚えていることがある。
ペンを置いて、窓の外を見た。
雨は細くなっていた。雲の向こうに、夕方の光がわずかに透けている。明日は晴れるだろう。
机の端に、木の実が三つ並んでいる。
三つ。横一列。いっしょ。
竈に火を入れた。夕食の支度を始めた。




