表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/23

第15話 記録を見る人

二月の半ば、マルガレーテから二通目の手紙が届いた。


前回と同じ象牙色の封筒。同じ流れるような筆跡。グリューネヴァルトの緑の封蝋。


文面は短かった。


『先日の面会の際に申し出ました件について。ユリウスの記録を拝見させていただきたく、日を改めて伺いたいと存じます。ご都合のよい日をお知らせください』


約束を、守りに来る。


前回の面会の帰り際、マルガレーテは「あの子の記録を、私にも見せなさい」と命令口調で言い、すぐに「見せてもらえますか」と言い直した。あのとき私は「次にいらしたとき、お見せします」と答えた。


返信を書いた。五日後の午前を指定した。


---


ディートリヒに伝えたのは、夕食の後だった。


ユリウスは寝台で眠っている。竈の火が低くなり、離れの中に橙色の影が揺れていた。


「マルガレーテ様がまたいらっしゃいます。ノートを見せてほしいと」


ディートリヒは簡易寝台に腰かけて、書類を読んでいた。内務卿からの問い合わせ書類だ。湯治場の認可申請に対して、追加の情報提供を求める内容だと聞いている。


「見せるのか」


「はい」


「どこまで」


その問いに、少し考えた。


ノートには半年分のユリウスの記録がある。公爵邸時代の体温、食事量、投薬の記録。侍医の処方が合わなかったこと。リンデンバートに来てからの回復。帳簿の写しもある。


「ユリウスの健康記録の部分だけ見せます。帳簿の写しは見せません」


ディートリヒが書類から目を上げた。


「妥当だな」


それだけ言って、書類に戻った。


妥当。いつもの一語評価だ。パンは「焦げてない」。おかゆは「悪くない」。判断は「妥当」。この人の語彙は本当に少ない。


「旦那様は、当日どうされますか」


「前と同じだ。いない方がいい」


「ゲルハルトさんに立ち会いをお願いしてあります」


「ああ」


会話が終わった。


ディートリヒが書類に赤い線を引いている。内務卿への返答を整理しているのだろう。公爵当主としての仕事を、この小さな離れの簡易寝台の上でやっている。王都の広い書斎ではなく。


「旦那様」


「なんだ」


「書類、机を使ってください。私はもう寝ますから」


ディートリヒが顔を上げた。机の上にはノート三冊と、私の筆記具と、ユリウスが拾ってきた木の実が三つ並んでいる。


「……散らかっている」


「片づけます」


ノートを棚に移し、筆記具を引き出しに入れた。木の実は動かさなかった。ユリウスが怒るからだ。


ディートリヒが簡易寝台から立ち上がり、机の前に座った。書類を広げ直す。木の実の横に、封書の束が並んだ。


「あの木の実」


ディートリヒが言った。


「は」


「どかしていいか」


「ユリウスが朝起きたとき、なくなっていると泣きます」


ディートリヒの手が止まった。木の実を見た。三つ、横一列。大きいのと、中くらいのと、小さいの。


木の実を机の端に寄せた。どかすのではなく、端に寄せた。三つの並びは崩さなかった。


「……これでいい」


私は寝台に入りながら、その横顔を見ていた。


書類に向かうディートリヒの手元を、竈の残り火が淡く照らしている。赤い線を引く指先は迷いがない。公爵としての判断は早い。けれど、木の実を三つ並べたまま端に寄せるのには、少し時間がかかった。


目を閉じた。


---


五日後。


マルガレーテは前回と同じように、馬車一台で来た。従者は一人。旅装は灰色。背筋はまっすぐだが、顎の角度は前回よりさらに低かった。


離れの中に案内した。ゲルハルトが壁際に立っている。ディートリヒはゲルハルトの家にいる。


ユリウスは今日、ハンナと外に出していた。前回の面会でユリウスが菓子を渡した場面は良かったが、今回は記録を見せる話だ。子どもがいると、マルガレーテも私も気を遣う。


「お座りください」


椅子を勧めた。マルガレーテが座った。手袋を外した。指先が赤い。馬車の中も冷えたのだろう。


茶を出した。ゲルハルトの薬草茶ではなく、行商人が持ってきた南部の茶葉で淹れた。マルガレーテは茶碗を両手で包み、一口飲んだ。


「温かい」


小さな声だった。感想というより、確認するような呟きだ。


ノートを机の上に置いた。


「ユリウスの健康記録です。公爵邸に入った日から、現在まで」


マルガレーテが茶碗を置き、ノートに手を伸ばした。


開く前に、一瞬、指が止まった。表紙の革に触れて、何かを確かめるように親指で撫でた。


開いた。


最初のページ。日付、体温、食事量、睡眠時間。


マルガレーテの目がページの上を動いた。ゆっくりと。一行ずつ追っている。


私は向かいの椅子に座って、待った。


ページが捲られた。二週目、三週目。体温の推移。食事量の増減。夜泣きの回数。


マルガレーテの指がある行で止まった。


「この日——投薬量が変わっていますね」


「はい。侍医が処方を変更した日です。この日を境に、夜泣きの回数が増えています」


マルガレーテはその行を見つめていた。


「進言を却下しましたね。『継母風情が口を出すな』と」


声が、静かだった。怒りでも弁解でもなかった。


「……私が言いました。覚えています」


ページを捲った。指の動きが、わずかに硬くなっていた。


リンデンバートに移ってからの記録に入った。投薬中止。温泉湯治の開始。三日目の解熱。食欲の回復。夜泣きの消失。


ページを捲る速度が遅くなった。一行ずつ、丁寧に読んでいる。


「体温、食事、排泄、睡眠。毎日欠かさず」


「はい」


「半年以上」


「はい」


マルガレーテがノートから顔を上げた。


「なぜ」


問いの意味が、一瞬分からなかった。


「なぜ、ここまで記録するのですか。手間でしょう。毎日毎日、体温を測って、食事の量を計って」


なぜ。


答えは一つしかない。


「心配だからです」


マルガレーテの目が細くなった。


「心配」


「はい。この子の体に何が起きているか知りたいから、記録します。知らなければ対処できません。対処できなければ守れません」


声が大きくなりかけたのを抑えた。


マルガレーテはしばらく私を見ていた。それから、視線をノートに戻した。


後半のページを捲っていく。リンデンバートでの日々。体温が安定していく記録。食事量が増えていく数字。夜泣きの欄に「なし」が続く行。


最後のページまで来た。昨日の日付。体温三十六度五分。食欲良好。排泄正常。特記事項——


マルガレーテの目が止まった。


『ユリウスが木の実で家族を並べた。三つ。横一列。「いっしょ」と言った。発語・社会性の発達、順調』


マルガレーテがそのページを見つめていた。長い時間。


ノートを閉じた。


「……丁寧な記録です」


声がかすれていた。


ゲルハルトが壁際で腕を組んだまま、何も言わなかった。


マルガレーテがノートを机に戻した。その手が震えていた。前回、ユリウスの背中に手を添えたときと同じ震え方だった。


「エレオノーラさん」


「はい」


「一つ、聞いてもよろしいですか」


「どうぞ」


「あの子は——幸せですか」


胸が、詰まった。


目の前にいるのは、公爵邸の廊下で私を叱責した人だ。ユリウスの養育権を奪おうとした人だ。手続きで押し、使者を送り、聴聞会で三つの主張を並べた人だ。


その人が、孫が幸せかどうかを聞いている。


「幸せだと思います」


正直に答えた。


「毎日ハンナと走り回って、湯溜まりに手を浸けて、パンを食べて、夜は『おやすみ』と言って眠ります。言葉が増えました。笑う回数が増えました。私が出かけると『おかえり』と言います」


マルガレーテは聞いていた。


「この子は——最初の頃は、私の袖を掴んで離しませんでした。どこかに行くのかと怯えていました。今はもう掴みません。帰ってくると信じているから」


マルガレーテの唇が、わずかに震えた。


「私は、あの子にそういう顔をさせたことがなかった」


低い声だった。


「侍女に報告させて、数字だけ見て、薬を出させて。それで養育しているつもりでいた」


自分の手を見下ろした。手袋を外した白い手。指先はまだ赤い。


「継母風情が口を出すな、と言ったのは——自分が口を出されるのが怖かったからです。自分のやり方が間違っていると認めたくなかった」


ゲルハルトが壁際で小さく息を吐いた。


私は何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかった。


マルガレーテが立ち上がった。


「ありがとうございました。記録を見せていただいて」


「また——いらしてください。ユリウスに会いに」


言ってから、自分で驚いた。社交辞令ではなく、本心だった。


マルガレーテの目が、一瞬だけ大きくなった。


「……そう言っていただけるとは思いませんでした」


帰り際、戸口で振り返った。


「あの子に伝えてください。おばあさまがまた来ると」


「伝えます」


マルガレーテが頷いて、馬車に向かった。


馬車が去るのを見送った。今回は窓の帳は開かなかった。


---


離れに戻ると、机の上にノートが閉じたまま置かれていた。


開いた。マルガレーテが最後に見ていたページ。木の実の記録のところに、かすかに指の跡がついていた。何度も指先でなぞったのだろう。紙の表面がわずかに毛羽立っている。


ゲルハルトが戸口に立っていた。


「泣いとったな」


「え」


「マルガレーテ様。馬車に乗る直前に、一度だけ目を拭った。見えたか」


見えなかった。


「……見ていませんでした」


「見んでいい。あの方にも体面がある」


ゲルハルトが腕を組み直した。


「だが、あの方がこの村で泣いたのは——たぶん、良いことだ」


ゲルハルトが帰った後、ディートリヒがゲルハルトの家から戻ってきた。


「終わったか」


「終わりました」


椅子に座って、靴を脱ぐ。大きな革の長靴が、離れの土間に並ぶ。この人の靴はいつも同じ場所に置かれる。几帳面なのだ。パンは焦がすのに。


「マルガレーテ様は、ノートを最後まで読みました」


「ああ」


「木の実の記録のところで、長く止まっていました」


ディートリヒが机を見た。木の実が三つ、端に並んでいる。朝、ユリウスが起きたときに位置がずれていないか確認していたのを、ディートリヒも私も知っている。


「母上は——」


ディートリヒが言いかけて、止まった。


「何か言っていたか」


「『あの子は幸せですか』と聞かれました」


ディートリヒの手が、膝の上で止まった。


「何と答えた」


「幸せだと思います、と答えました」


沈黙が落ちた。竈の火がぱちりと鳴った。


「……妥当だな」


また、その一語だ。


でも今回は、声が少しだけ低かった。低くて、柔らかかった。妥当という言葉の中に、別の何かが混じっていた。


安堵だったのかもしれない。


外から、ユリウスの声が聞こえた。


「まま、パパ、ただいまー」


ハンナと一緒に走ってくる足音。小さな足音と、もう少し大きな足音。


戸が開いて、冷たい空気と一緒にユリウスが飛び込んできた。頬が真っ赤で、鼻の頭に泥がついている。


「おかえり。手を洗いなさい」


「やだ」


「洗いなさい」


「やだー」


ディートリヒがユリウスの襟首を掴んで、竈の横の水桶に連れていった。


「洗え」


「パパもやだ」


「俺は洗った。洗え」


ユリウスがしぶしぶ手を水に突っ込んだ。冷たいのか、声を上げた。ディートリヒが布を渡す。ユリウスが手を拭く。一連の動作が、いつの間にか流れるようになっていた。


三人の生活が、形になりつつある。


夕食の支度を始めた。根菜を刻みながら、思った。


マルガレーテは変わり始めている。変わり切るには時間がかかるだろう。もしかしたら、変わり切らないかもしれない。あの人のやり方——管理し、掌握し、計画の中に置く——は四十年以上かけて染みついたものだ。


でも、「見せてもらえますか」と言い直した。ユリウスの背中に手を添えた。ノートの記録を最後まで読んだ。「あの子は幸せですか」と聞いた。


少しずつ、ほんの少しずつ。


記録をつけるように、一日ずつ。


鍋が煮立った。湯気が天井に向かって立ち昇る。離れの外でも、村のあちこちから白い湯気が上がっている。


二月の夕暮れ。日が少しだけ長くなった。窓から見える空の色が、冬の灰色から、春を予感させる薄い青に変わり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ