第15話 記録を見る人
二月の半ば、マルガレーテから二通目の手紙が届いた。
前回と同じ象牙色の封筒。同じ流れるような筆跡。グリューネヴァルトの緑の封蝋。
文面は短かった。
『先日の面会の際に申し出ました件について。ユリウスの記録を拝見させていただきたく、日を改めて伺いたいと存じます。ご都合のよい日をお知らせください』
約束を、守りに来る。
前回の面会の帰り際、マルガレーテは「あの子の記録を、私にも見せなさい」と命令口調で言い、すぐに「見せてもらえますか」と言い直した。あのとき私は「次にいらしたとき、お見せします」と答えた。
返信を書いた。五日後の午前を指定した。
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ディートリヒに伝えたのは、夕食の後だった。
ユリウスは寝台で眠っている。竈の火が低くなり、離れの中に橙色の影が揺れていた。
「マルガレーテ様がまたいらっしゃいます。ノートを見せてほしいと」
ディートリヒは簡易寝台に腰かけて、書類を読んでいた。内務卿からの問い合わせ書類だ。湯治場の認可申請に対して、追加の情報提供を求める内容だと聞いている。
「見せるのか」
「はい」
「どこまで」
その問いに、少し考えた。
ノートには半年分のユリウスの記録がある。公爵邸時代の体温、食事量、投薬の記録。侍医の処方が合わなかったこと。リンデンバートに来てからの回復。帳簿の写しもある。
「ユリウスの健康記録の部分だけ見せます。帳簿の写しは見せません」
ディートリヒが書類から目を上げた。
「妥当だな」
それだけ言って、書類に戻った。
妥当。いつもの一語評価だ。パンは「焦げてない」。おかゆは「悪くない」。判断は「妥当」。この人の語彙は本当に少ない。
「旦那様は、当日どうされますか」
「前と同じだ。いない方がいい」
「ゲルハルトさんに立ち会いをお願いしてあります」
「ああ」
会話が終わった。
ディートリヒが書類に赤い線を引いている。内務卿への返答を整理しているのだろう。公爵当主としての仕事を、この小さな離れの簡易寝台の上でやっている。王都の広い書斎ではなく。
「旦那様」
「なんだ」
「書類、机を使ってください。私はもう寝ますから」
ディートリヒが顔を上げた。机の上にはノート三冊と、私の筆記具と、ユリウスが拾ってきた木の実が三つ並んでいる。
「……散らかっている」
「片づけます」
ノートを棚に移し、筆記具を引き出しに入れた。木の実は動かさなかった。ユリウスが怒るからだ。
ディートリヒが簡易寝台から立ち上がり、机の前に座った。書類を広げ直す。木の実の横に、封書の束が並んだ。
「あの木の実」
ディートリヒが言った。
「は」
「どかしていいか」
「ユリウスが朝起きたとき、なくなっていると泣きます」
ディートリヒの手が止まった。木の実を見た。三つ、横一列。大きいのと、中くらいのと、小さいの。
木の実を机の端に寄せた。どかすのではなく、端に寄せた。三つの並びは崩さなかった。
「……これでいい」
私は寝台に入りながら、その横顔を見ていた。
書類に向かうディートリヒの手元を、竈の残り火が淡く照らしている。赤い線を引く指先は迷いがない。公爵としての判断は早い。けれど、木の実を三つ並べたまま端に寄せるのには、少し時間がかかった。
目を閉じた。
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五日後。
マルガレーテは前回と同じように、馬車一台で来た。従者は一人。旅装は灰色。背筋はまっすぐだが、顎の角度は前回よりさらに低かった。
離れの中に案内した。ゲルハルトが壁際に立っている。ディートリヒはゲルハルトの家にいる。
ユリウスは今日、ハンナと外に出していた。前回の面会でユリウスが菓子を渡した場面は良かったが、今回は記録を見せる話だ。子どもがいると、マルガレーテも私も気を遣う。
「お座りください」
椅子を勧めた。マルガレーテが座った。手袋を外した。指先が赤い。馬車の中も冷えたのだろう。
茶を出した。ゲルハルトの薬草茶ではなく、行商人が持ってきた南部の茶葉で淹れた。マルガレーテは茶碗を両手で包み、一口飲んだ。
「温かい」
小さな声だった。感想というより、確認するような呟きだ。
ノートを机の上に置いた。
「ユリウスの健康記録です。公爵邸に入った日から、現在まで」
マルガレーテが茶碗を置き、ノートに手を伸ばした。
開く前に、一瞬、指が止まった。表紙の革に触れて、何かを確かめるように親指で撫でた。
開いた。
最初のページ。日付、体温、食事量、睡眠時間。
マルガレーテの目がページの上を動いた。ゆっくりと。一行ずつ追っている。
私は向かいの椅子に座って、待った。
ページが捲られた。二週目、三週目。体温の推移。食事量の増減。夜泣きの回数。
マルガレーテの指がある行で止まった。
「この日——投薬量が変わっていますね」
「はい。侍医が処方を変更した日です。この日を境に、夜泣きの回数が増えています」
マルガレーテはその行を見つめていた。
「進言を却下しましたね。『継母風情が口を出すな』と」
声が、静かだった。怒りでも弁解でもなかった。
「……私が言いました。覚えています」
ページを捲った。指の動きが、わずかに硬くなっていた。
リンデンバートに移ってからの記録に入った。投薬中止。温泉湯治の開始。三日目の解熱。食欲の回復。夜泣きの消失。
ページを捲る速度が遅くなった。一行ずつ、丁寧に読んでいる。
「体温、食事、排泄、睡眠。毎日欠かさず」
「はい」
「半年以上」
「はい」
マルガレーテがノートから顔を上げた。
「なぜ」
問いの意味が、一瞬分からなかった。
「なぜ、ここまで記録するのですか。手間でしょう。毎日毎日、体温を測って、食事の量を計って」
なぜ。
答えは一つしかない。
「心配だからです」
マルガレーテの目が細くなった。
「心配」
「はい。この子の体に何が起きているか知りたいから、記録します。知らなければ対処できません。対処できなければ守れません」
声が大きくなりかけたのを抑えた。
マルガレーテはしばらく私を見ていた。それから、視線をノートに戻した。
後半のページを捲っていく。リンデンバートでの日々。体温が安定していく記録。食事量が増えていく数字。夜泣きの欄に「なし」が続く行。
最後のページまで来た。昨日の日付。体温三十六度五分。食欲良好。排泄正常。特記事項——
マルガレーテの目が止まった。
『ユリウスが木の実で家族を並べた。三つ。横一列。「いっしょ」と言った。発語・社会性の発達、順調』
マルガレーテがそのページを見つめていた。長い時間。
ノートを閉じた。
「……丁寧な記録です」
声がかすれていた。
ゲルハルトが壁際で腕を組んだまま、何も言わなかった。
マルガレーテがノートを机に戻した。その手が震えていた。前回、ユリウスの背中に手を添えたときと同じ震え方だった。
「エレオノーラさん」
「はい」
「一つ、聞いてもよろしいですか」
「どうぞ」
「あの子は——幸せですか」
胸が、詰まった。
目の前にいるのは、公爵邸の廊下で私を叱責した人だ。ユリウスの養育権を奪おうとした人だ。手続きで押し、使者を送り、聴聞会で三つの主張を並べた人だ。
その人が、孫が幸せかどうかを聞いている。
「幸せだと思います」
正直に答えた。
「毎日ハンナと走り回って、湯溜まりに手を浸けて、パンを食べて、夜は『おやすみ』と言って眠ります。言葉が増えました。笑う回数が増えました。私が出かけると『おかえり』と言います」
マルガレーテは聞いていた。
「この子は——最初の頃は、私の袖を掴んで離しませんでした。どこかに行くのかと怯えていました。今はもう掴みません。帰ってくると信じているから」
マルガレーテの唇が、わずかに震えた。
「私は、あの子にそういう顔をさせたことがなかった」
低い声だった。
「侍女に報告させて、数字だけ見て、薬を出させて。それで養育しているつもりでいた」
自分の手を見下ろした。手袋を外した白い手。指先はまだ赤い。
「継母風情が口を出すな、と言ったのは——自分が口を出されるのが怖かったからです。自分のやり方が間違っていると認めたくなかった」
ゲルハルトが壁際で小さく息を吐いた。
私は何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかった。
マルガレーテが立ち上がった。
「ありがとうございました。記録を見せていただいて」
「また——いらしてください。ユリウスに会いに」
言ってから、自分で驚いた。社交辞令ではなく、本心だった。
マルガレーテの目が、一瞬だけ大きくなった。
「……そう言っていただけるとは思いませんでした」
帰り際、戸口で振り返った。
「あの子に伝えてください。おばあさまがまた来ると」
「伝えます」
マルガレーテが頷いて、馬車に向かった。
馬車が去るのを見送った。今回は窓の帳は開かなかった。
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離れに戻ると、机の上にノートが閉じたまま置かれていた。
開いた。マルガレーテが最後に見ていたページ。木の実の記録のところに、かすかに指の跡がついていた。何度も指先でなぞったのだろう。紙の表面がわずかに毛羽立っている。
ゲルハルトが戸口に立っていた。
「泣いとったな」
「え」
「マルガレーテ様。馬車に乗る直前に、一度だけ目を拭った。見えたか」
見えなかった。
「……見ていませんでした」
「見んでいい。あの方にも体面がある」
ゲルハルトが腕を組み直した。
「だが、あの方がこの村で泣いたのは——たぶん、良いことだ」
ゲルハルトが帰った後、ディートリヒがゲルハルトの家から戻ってきた。
「終わったか」
「終わりました」
椅子に座って、靴を脱ぐ。大きな革の長靴が、離れの土間に並ぶ。この人の靴はいつも同じ場所に置かれる。几帳面なのだ。パンは焦がすのに。
「マルガレーテ様は、ノートを最後まで読みました」
「ああ」
「木の実の記録のところで、長く止まっていました」
ディートリヒが机を見た。木の実が三つ、端に並んでいる。朝、ユリウスが起きたときに位置がずれていないか確認していたのを、ディートリヒも私も知っている。
「母上は——」
ディートリヒが言いかけて、止まった。
「何か言っていたか」
「『あの子は幸せですか』と聞かれました」
ディートリヒの手が、膝の上で止まった。
「何と答えた」
「幸せだと思います、と答えました」
沈黙が落ちた。竈の火がぱちりと鳴った。
「……妥当だな」
また、その一語だ。
でも今回は、声が少しだけ低かった。低くて、柔らかかった。妥当という言葉の中に、別の何かが混じっていた。
安堵だったのかもしれない。
外から、ユリウスの声が聞こえた。
「まま、パパ、ただいまー」
ハンナと一緒に走ってくる足音。小さな足音と、もう少し大きな足音。
戸が開いて、冷たい空気と一緒にユリウスが飛び込んできた。頬が真っ赤で、鼻の頭に泥がついている。
「おかえり。手を洗いなさい」
「やだ」
「洗いなさい」
「やだー」
ディートリヒがユリウスの襟首を掴んで、竈の横の水桶に連れていった。
「洗え」
「パパもやだ」
「俺は洗った。洗え」
ユリウスがしぶしぶ手を水に突っ込んだ。冷たいのか、声を上げた。ディートリヒが布を渡す。ユリウスが手を拭く。一連の動作が、いつの間にか流れるようになっていた。
三人の生活が、形になりつつある。
夕食の支度を始めた。根菜を刻みながら、思った。
マルガレーテは変わり始めている。変わり切るには時間がかかるだろう。もしかしたら、変わり切らないかもしれない。あの人のやり方——管理し、掌握し、計画の中に置く——は四十年以上かけて染みついたものだ。
でも、「見せてもらえますか」と言い直した。ユリウスの背中に手を添えた。ノートの記録を最後まで読んだ。「あの子は幸せですか」と聞いた。
少しずつ、ほんの少しずつ。
記録をつけるように、一日ずつ。
鍋が煮立った。湯気が天井に向かって立ち昇る。離れの外でも、村のあちこちから白い湯気が上がっている。
二月の夕暮れ。日が少しだけ長くなった。窓から見える空の色が、冬の灰色から、春を予感させる薄い青に変わり始めていた。




