第14話 先代公爵の湯
二月に入った。
リンデンバートの冬は長い。それでも、日差しの角度が少しだけ変わったのを感じる。朝、窓を開けたときの空が、一月よりわずかに高い。
湯治客は冬の間も途絶えなかった。雪が降ろうが道が凍ろうが、腰の痛い人も膝の悪い人もやって来る。症例ノートは三十件を超えた。リーフェンタール伯爵領からの来訪が最も多いが、最近は南部の街道沿いからも噂を聞いてくる人がいる。
内務卿への湯治場認可申請は、ディートリヒとゲルハルトが書類を仕上げて提出した。返答はまだない。帝国の行政手続きはどれも遅い、とゲルハルトが言った。ディートリヒが「遅いのは手続きではなく担当者だ」と返し、ゲルハルトが鼻を鳴らした。この二人は似ている。口数が少なく、ぶっきらぼうで、言葉の端にだけ本音が見える。
その日の午後、私はゲルハルトの家に湯治ノートを届けに行った。
ゲルハルトが体系化ノートの写しを手元に置いておきたいと言ったのだ。「湯の管理は村長の仕事だ」と、当然のように言った。
ゲルハルトの家は、離れから十歩ほどの距離にある。石造りの、村で一番しっかりした造りの家だ。壁が厚い。冬でも中は暖かい。
戸を叩くと、中から「開いとる」と声がした。
入ると、ゲルハルトが竈の前に座っていた。鍋に何かを煮ている。薬草の匂いがした。ハンナの咳止め用の煎じ薬だろう。ハンナの咳はほとんど出なくなったが、冬の間は予防として飲ませていると言っていた。
「ノートの写し、できました」
「そこに置いてくれ」
机を指差された。その上に古い地図が広げてあった。リンデンバートと周辺の山の地図。紙が茶色く変色している。かなり古いものだ。
「この地図、どこで」
「昔から持っとる」
ゲルハルトが鍋から目を離さずに言った。
「この村に来たときに、前の村長から引き継いだ。もう四十年になるか」
四十年。
「ゲルハルトさんがこの村に来たのは、四十年前ですか」
「ああ。公爵家を辞めて、ここに来た」
公爵家を辞めた。聴聞会で「元従騎士」と名乗ったとき、その経緯には触れなかった。
ゲルハルトが煎じ薬を火から下ろした。椀に注ぎ、机の脇に置いた。ハンナの分だ。それから、自分の分の茶を淹れ、私にも椀を差し出した。
「座れ。立ったまま人の家を見回すな」
「すみません」
椅子に座った。茶を一口飲んだ。苦い。薬草の茶だ。
ゲルハルトが地図の端に指を置いた。
「ここがリンデンバート。ここが公爵領の北端。この辺りが——昔は街道筋で、もう少し栄えとった」
「街道がこの村を通っていたんですか」
「通っていた。五十年ほど前に、南側に新しい道が通ってな。こっちの道は使われなくなった。それで村から人が減った」
街道が移った。それだけで村が枯れる。交通の要所でなくなれば、人は来ない。湯が湧いていても、来る人がいなければ意味がない。
「先代公爵は、ここの湯が好きだった」
ゲルハルトが茶をすすりながら言った。
声が、少しだけ柔らかくなっていた。ゲルハルトがこの口調になるのは珍しい。
「先代——ディートリヒ様のお父上ですか」
「ああ。ヴィルヘルム公爵。俺の主人だった」
ゲルハルトの目が、窓の外を見た。白い湯気が立ち昇っている。いつもの光景だ。でも、ゲルハルトの目には別のものが映っているように見えた。
「若い頃のヴィルヘルム様は、よくこの村に来ておった。公爵家の仕事に疲れると馬で北に走って、ここの湯に浸かって帰る。俺は従騎士だったから、そのたびに付き添った」
ゲルハルトが茶の椀を机に置いた。
「あの頃はまだ、この村に十軒以上家があった。湯治宿も二軒あった。あんたが住んどる離れは、そのうちの一軒の別棟だ」
知っていた。元湯治宿だということは。けれど、それがかつて繁盛していた宿だったということは、初めて聞いた。
「ヴィルヘルム様は湯が好きだったが、それだけじゃなかった。この村の静かさが好きだったのだと思う。王都では常に誰かに見られとる。領主の仕事は終わりがない。ここに来ると、誰にも何も言われんと言って笑っておった」
笑っておった。
先代公爵が笑う姿を、ゲルハルトは知っている。
「マルガレーテ様とご結婚されたのは——」
「ヴィルヘルム様が三十、マルガレーテ様が二十二のときだ」
ゲルハルトは即答した。数字を覚えている。
「グリューネヴァルト侯爵家の長女。頭が切れて、気が強い。ヴィルヘルム様とは正反対だった。あの方は穏やかすぎるくらい穏やかな人でな。家の仕事を人に任せるのが当たり前だと思っとった。マルガレーテ様が嫁いできたとき、家政を全部任せた。最初の一年で、屋敷の運営がまるで変わった」
マルガレーテが家政を握った経緯。ディートリヒが言った通りだ。「父上は穏やかで、妻に家政を任せきりにした」。
「マルガレーテ様は有能だった。帳簿を整え、使用人を統率し、交際を仕切った。ヴィルヘルム様はそれに感謝しとった。感謝して、ますます任せた。最後には、自分は領地の巡回と湯治にだけ出かけるようになった」
ゲルハルトの声に、かすかに苦みが混じった。
「俺は気づいとった。マルガレーテ様が家政を握れば握るほど、ヴィルヘルム様はこの村に来る回数が増えた。逃げとったのかもしれん。あるいは、ここでしか息がつけなかったのかもしれん」
逃げていた。
その言葉が、胸に刺さった。
私も逃げてきた。公爵邸から。マルガレーテの支配から。ユリウスを連れて、誰も来ない場所に。
「ヴィルヘルム様が亡くなったのは十五年前だ。急な病でな。ディートリヒ様がまだ十六のときだった。当主を継いだが、実質的にはマルガレーテ様がすべてを仕切っておった」
十六歳で当主。そして母が全権を握る。
「俺はそのとき、公爵家を辞めた」
ゲルハルトの声が、静かになった。
「なぜですか」
聞いていいのか分からなかったが、聞いた。
ゲルハルトはしばらく黙っていた。茶の椀を両手で包んで、湯気を見つめていた。
「ヴィルヘルム様がおらん公爵家に、俺の居場所はなかった。従騎士というのは主人に仕える。主人が死ねば、次の当主に仕えるのが筋だ。だがマルガレーテ様は俺を必要としなかった。俺は——正直に言えば、あの方のやり方が合わなかった」
合わなかった。
「あの方は、すべてを管理する。人も、金も、予定も。それ自体は悪いことではない。だが——」
ゲルハルトが言葉を切った。
「任せるのが下手なのだ。任せて、待つということができない。ヴィルヘルム様は任せすぎた。マルガレーテ様は、任せなさすぎる。どちらも、うまくいかん」
鍋の煎じ薬が、まだ薬草の匂いを立てていた。
「俺はこの村に来た。ヴィルヘルム様が好きだった村だ。前の村長が歳で引退するというので引き継いだ。四十年、ここにおる」
四十年。
この村で、一人で、湯気の中で。
「先代公爵がこの村の湯を好きだったから、ゲルハルトさんはここに」
「ああ」
ゲルハルトが椀を置いた。
「あんたが来るまで、この村にヴァイスフェルトの名を持つ人間は来なかった。四十年間、一人も。ディートリヒ様も——ここの存在を知っていたかどうか怪しい」
知らなかったのだろうと思う。ディートリヒが初めてこの村に来たとき、村の様子を見回す目には発見の色があった。自分の領地なのに、初めて踏む土地の顔をしていた。
「あんたが公爵邸の棚で見つけた手紙」
手紙。アデリーナ宛てのディートリヒの手紙。この前見つけて、読まずに棚に戻したもの。
「あれがなぜここにあったか、分かるか」
考えたことがなかった。離れは元湯治宿の別棟だ。公爵家の私物があること自体は不自然ではない。でも、アデリーナ宛ての手紙がなぜ。
「ヴィルヘルム様がこの村に来るとき、たまに手紙を持ってきた。王都で出せない手紙を、ここで書いて、ここに置いていった。出さなかった手紙だ」
出さなかった手紙。
「ディートリヒ様がアデリーナ嬢に書いた手紙がなぜここにあるかは、俺には分からん。ヴィルヘルム様が息子の手紙をここに持ってきたのか、それともディートリヒ様本人がいつか来て置いていったのか」
ゲルハルトは首を振った。
「どちらにせよ、出されなかった手紙だ」
出されなかった手紙。書いたのに、送らなかった。
ディートリヒとアデリーナの間に何があったのか。マルガレーテが選んで、手元で育てて、嫁がせた娘。優しくて、おとなしくて、母上の言うことに逆らえなかった人。
ディートリヒは手紙を書いた。でも出さなかった。
なぜだろう。
聞くべき相手は、ゲルハルトではない。
「ゲルハルトさん」
「なんだ」
「この村のこと、もっと教えてください。湯溜まりの昔の使い方とか、先代公爵が好きだった湯がどれだったかとか」
ゲルハルトの眉が上がった。
「体系化ノートに入れるのか」
「はい。記録は多い方がいい。昔の使い方が分かれば、今の湯治にも活かせます」
ゲルハルトが腕を組んだ。いつもの姿勢だ。
「ヴィルヘルム様が好きだったのは、離れの裏手のやつだ。いちばんぬるい。あの方はいつも言っておった。『熱い湯は体に効くが、ぬるい湯は心に効く』と」
ぬるい湯は心に効く。
ユリウスの熱を下げたのも、あの裏手のぬるい湯だった。
「あの方はな、医者嫌いだった。薬も嫌いだった。湯に浸かって、深く息を吸って、それで治ると信じとった。無責任な話だが——」
ゲルハルトが鼻を鳴らした。
「結果として、あの方は七十まで大病をせんかった。最後は急な病であっけなく逝ったが、それまでの五十年は、湯と散歩だけで生きとったようなものだ」
窓の外に、日差しが傾いてきていた。冬の午後は短い。
「ありがとうございます。ノートに記録します」
「記録好きだな、あんたは」
「看護師の性分です」
言ってから、しまった、と思った。看護師という言葉は前世のものだ。
けれどゲルハルトは特に気にした様子はなかった。
「まあいい。書きたいだけ書け。この村の湯は、書かれるのを待っとった」
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離れに戻る途中、裏手の湯溜まりに寄った。
ぬるい、無色透明の湯。底の白い堆積物。わずかに立ち昇る薄い湯気。
手を浸した。指先がかすかに光る。微量の魔力。
この湯に先代公爵が浸かっていた。四十年以上前、従騎士のゲルハルトを連れて、王都から馬で走ってきて、誰にも何も言われない場所で息をついていた。
ぬるい湯は心に効く。
手を引き上げた。指先に残った温もりが、冬の空気の中でゆっくりと冷めていく。
離れの戸を開けると、中から声が聞こえた。
「パパ、これ」
ユリウスの声。
「……何だ」
ディートリヒの声。
覗くと、ユリウスが机の上に木の実を並べていた。ハンナと拾ってきたのだろう。丸い実を三つ、横一列に並べている。
「これがパパ。これがまま。これがユリウス」
三つの木の実を指差して、ユリウスが言った。
ディートリヒは椅子に座ったまま、木の実を見ていた。
「……なぜ俺がいちばん大きい」
「パパがいちばんおおきいから」
当然のような顔で言った。
ディートリヒの口元が、ほんのわずかに緩んだ。今度は見間違いではなかった。
私は戸口に立ったまま、その光景を見ていた。
三つの木の実が、机の上に並んでいる。大きいのと、中くらいのと、小さいの。
家族の形をしている、と思った。
木の実で作った、ささやかな家族。
ユリウスが私に気づいた。
「まま、おかえり」
「ただいま」
「おゆ、いってきた?」
「うん。ちょっとだけ手を浸けてきた」
「あったかかった?」
「あったかかったよ」
ユリウスが笑った。
ディートリヒは木の実を一つ摘まんで、机の端に置いた。いちばん大きいやつだ。
「邪魔だ」
「パパ、もどして」
「ここでいい」
「だめ。いっしょにならべないと」
ユリウスがディートリヒの手から木の実を取り返して、元の位置に戻した。三つ横一列。
「いっしょ」
ユリウスが満足そうに頷いた。
ディートリヒが私の方を見た。私はディートリヒを見た。目が合った。
何も言わなかった。ディートリヒも何も言わなかった。
けれど、あの人の目の奥に、温かいものがあった。ほんの一瞬だけ。すぐにいつもの無表情に戻ったが、確かにあった。
竈に火を入れた。夕食の支度を始めながら、ノートを開いた。
今日のゲルハルトの話を書き留める。先代公爵の湯治。四十年前の村の様子。街道の移動と村の衰退。ぬるい湯は心に効く。
記録の最後に、一行だけ追加した。
『ユリウスが木の実で家族を並べた。三つ。横一列。「いっしょ」と言った。発語・社会性の発達、順調』
看護記録の書き方で、家族のことを書いている。
おかしなことかもしれない。でも、こうやって書くのがいちばん落ち着く。
窓の外の湯気が、夕暮れの光の中で薄い橙に染まっていた。




