第13話 おかあさまって、なに
一月の終わり、珍しく雪が降った。
リンデンバートは山間の村だが、温泉の熱で地表が暖められているせいか、積もるほどの雪は滅多にない。それでもこの日は朝から細かい雪が舞って、石畳の上にうっすらと白い層ができた。
ユリウスが窓に張りついている。
「まま、しろい」
「雪だよ。冷たいんだよ」
「さわりたい」
「上着を着てからね」
ユリウスに厚手の上着を着せて、手袋を嵌めた。手袋はゲルハルトがハンナのお下がりを持ってきてくれたもので、少し大きいが、ないよりはずっといい。
外に出ると、ハンナがもう石畳の上にいた。雪を丸めている。
「ユリウス、こっち。雪だるま作ろう」
ユリウスが駆けていった。二人で雪を集めて丸めている。積もった量が少ないから、石畳の隙間の土も一緒に丸め込んで、灰色がかった雪玉ができた。それでも二人は真剣な顔で、小さな雪だるまを組み上げていく。
離れの前に立って、二人を見ていた。
「おい」
ゲルハルトが自分の家の戸口から顔を出した。
「ハンナ、昼にはカミルが来るから、ちゃんと支度しとけ」
ハンナが振り返った。
「わかってる、おじいちゃん」
カミル。聞いたことのない名前だった。
「お客さんですか」
ゲルハルトに聞くと、短く答えた。
「ハンナの母親だ。南部の街から来る。年に二度、様子を見に来るんだ」
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昼過ぎに、女性が一人、徒歩で村に入ってきた。
三十代の半ばくらい。ハンナと同じ薄茶色の髪を後ろで一つに束ねている。旅装は質素だが、清潔だった。背負った荷物袋から、布地の端が覗いている。
「ハンナ」
女性がハンナの名を呼んだ。その声だけで、ハンナの顔が変わった。
「おかあさま!」
ハンナが走った。雪だるまを放り出して、まっすぐ走った。
女性がしゃがんで、ハンナを抱きしめた。ハンナの手が母親の背中に回る。女性の目が閉じられる。二人の間に言葉はなかった。ただ、抱きしめている。
ユリウスが、石畳の上に立っていた。
雪だるまの横で、二人を見ていた。
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カミルは南部の繊維工場で働いていると、ゲルハルトが教えてくれた。夫——ゲルハルトの息子は五年前に亡くなっている。カミルは一人で働きながらハンナを養っているが、工場の寮に子どもは住めない。だからハンナをゲルハルトに預けている。
「不本意だが、仕方のないことだ。カミルは真面目な女だ。金を送ってくるし、年に二度は必ず来る」
ゲルハルトの声は平坦だったが、「仕方のないことだ」という言葉の裏に、何かが滲んでいた。
離れの前で、カミルとハンナが並んで座っている。カミルが荷物袋から布地を出して、ハンナの肩に当てている。新しい上着の生地だ。寸法を確かめているのだろう。ハンナが何か話すたびに、カミルが頷く。
ユリウスは少し離れた場所にいた。
溶けかけた雪だるまの横に座って、二人を見ていた。いつもならハンナのそばに行くのに、今日は近づかない。
私はユリウスのそばに行って、隣に座った。
「ハンナ、嬉しそうだね」
ユリウスは答えなかった。
二人を見ている。カミルがハンナの髪を撫でる仕草を、じっと見ている。
「まま」
「なに」
「おかあさまって、なに」
息が止まった。
ユリウスが私を見上げた。まっすぐな目だった。四歳の子どもの、混じり気のない目。
「ハンナが、おかあさまっていった。ハンナのおかあさまは、あのひと」
カミルの方を指差した。
「ユリウスのおかあさまは、だれ」
心臓が痛かった。
この問いが来ることは分かっていた。いつか来ると思っていた。でも、まだ先だと思っていた。もう少し言葉が増えてから。もう少し物事が分かるようになってから。
四歳は、早すぎるだろうか。
いいや。四歳は、分かっている。分からないなりに、感じている。ハンナが「おかあさま」と叫んで走っていく姿を見て、自分にはそれがないと感じた。だから聞いている。
嘘はつけない。
「ユリウスのお母さまはね、アデリーナっていう名前の人だよ」
ユリウスの目が瞬いた。
「あでりーな」
「うん。ユリウスが生まれたとき、とても喜んだ人だよ」
知っていることは少ない。ディートリヒから聞いたのは、マルガレーテの手元で育ったおとなしい人だったということ。優しかったということ。母上の言うことに逆らえなかったということ。
でも、一つだけ確かなことがある。
「アデリーナお母さまは、ユリウスが生まれたとき、ユリウスを抱っこしたの。小さくて温かかったって」
本当のことかは分からない。けれど、生まれた子を抱かない母親はいない。前世で何百人もの赤ん坊を見てきた。どんなに疲れていても、どんなに体が辛くても、生まれた子を腕に乗せられた瞬間、母親の顔は変わる。アデリーナもそうだったはずだ。
「あでりーなおかあさまは、どこ」
「お空の上にいるよ。もう会えないの。でも、ユリウスのことをずっと見ているよ」
正確な言い方ではないかもしれない。この世界の死生観に合っているかも分からない。けれど、四歳の子どもに「亡くなった」という言葉を使うよりは、こちらの方がいい。前世の小児科でも、幼い子に家族の死を伝えるときは、具体的で穏やかな言葉を選んだ。
ユリウスは空を見上げた。
灰色の雲の隙間から、薄い日差しが漏れている。
「おそら」
「うん」
ユリウスが視線を下ろした。私を見た。
「じゃあ、ままは」
「私は」
「ままはおかあさまじゃないの」
胸の奥が、きゅっと締まった。
私はこの子の母ではない。継母だ。血の繋がりはない。公爵邸で与えられた役割は「ユリウスのそばにいること」だけだった。
「私はね、ユリウスの——」
言葉を探した。
継母です、と言えばいいのか。でも四歳の子どもに「継母」という言葉を説明できる気がしなかった。
「私は、ユリウスのそばにいる人だよ」
ユリウスが首を傾げた。
「そばにいるひと」
「うん。朝ご飯を作って、お熱を測って、一緒にお湯に入って、夜はおやすみを言う人」
ユリウスが考え込んだ。四歳なりに、何かを整理しようとしている。
「それ、おかあさまとおなじ?」
カミルとハンナの方を見た。カミルがハンナの上着の寸法を測り、ハンナが何か話し、カミルが笑っている。
「おなじところも、あると思う。違うところも、あるかもしれない」
正直に答えた。
ユリウスはまたしばらく考えて、それから言った。
「ままは、ままだよ」
ただ、それだけ言った。
泣きそうになった。
泣かなかった。代わりに、ユリウスの頭を撫でた。冷たい空気の中で、小さな頭は温かかった。手袋の指先から伝わるぬくもりが、確かにあった。
「そうだね。私は、ままだね」
ユリウスが頷いて、立ち上がった。
「ハンナのおかあさまに、ゆきだるまみせる」
走っていった。
溶けかけた灰色の雪だるまを指差して、カミルに何かを話している。カミルが笑った。ハンナが「それユリウスと作ったの」と言っている。
石畳の上に座ったまま、しばらく動けなかった。
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夕方、カミルが帰った。
ハンナは泣かなかった。「また来てね」と手を振って、ゲルハルトの家に戻った。強い子だ。八歳で、母と離れて暮らして、咳が出ても泣かずに耐えて。
ユリウスは夕食の後、いつもより早く寝台に入った。
毛布の中から私を見上げて、言った。
「まま、おやすみ」
「おやすみ、ユリウス」
目を閉じた。すぐに寝息が聞こえた。
机に向かって、ノートを開いた。
今日のユリウスの記録。体温三十六度五分。食欲良好。排泄正常。午前中は雪遊び。特記事項——
ペンが止まった。
特記事項。
「おかあさまって、なに」と聞いた。アデリーナの存在を伝えた。ユリウスは「ままは、ままだよ」と言った。
看護記録に書くべきことだろうか。体温でも食事量でもない。投薬の記録でもない。
でも、この子の成長の記録だ。
書いた。
『本日、ユリウスがハンナの母親との再会を見て、「おかあさまとは何か」と質問。亡き実母アデリーナの存在を伝えた。ユリウスは理解した様子で、その後「ままは、ままだよ」と発言。情緒面の発達は順調と思われる』
ペンを置いた。
看護記録の書き方だ。客観的で、淡白で、感情を排した記述。前世の十年間でそう訓練されてきた。
でも本当は、もう一行書きたかった。
「嬉しかった」と。
書かなかった。看護記録には書かない。
代わりに、ノートを閉じて窓の外を見た。
雪は止んでいた。雲の切れ間から、星が二つ見えた。
離れの戸が開いて、ディートリヒが入ってきた。ゲルハルトの家で書類を仕上げていたのだろう。外套に冷たい空気をまとっている。
ユリウスの寝台を見て、寝息を確認して、簡易寝台に腰を下ろした。
「今日、ユリウスに聞かれました」
「何を」
「おかあさまって何、と」
ディートリヒの手が、外套のボタンを外す途中で止まった。
「アデリーナさんのことを話しました。ユリウスが生まれたとき喜んだ人だと。もう会えないけれど、空の上から見ていると」
ディートリヒは黙っていた。
外套を脱いで、簡易寝台の端にかけた。靴を脱いだ。一連の動作がゆっくりだった。
「……そうか」
それだけ言った。
声は低かった。いつもの淡々とした低さとは少し違う。重さがあった。
「アデリーナのことを覚えている人間が、もういない」
ディートリヒが寝台に横になった。天井を見ている。
「母上は名前を出さん。使用人は入れ替わった。俺も——詳しく知らない。一緒にいた時間が短かった」
一緒にいた時間が短かった。ディートリヒとアデリーナの婚姻は、ユリウスが生まれるまでの約一年。産後半年でアデリーナは亡くなった。合わせて一年半。そのうち、ディートリヒが北部領の視察で不在だった期間を引けば、実際に顔を合わせた日数はもっと少なかったのだろう。
「あんたが話してくれたなら、それでいい」
天井を見たまま、ディートリヒが言った。
「俺には言えんかった。何を言えばいいか、分からん」
正直な言葉だった。
この人は嘘をつかない。言えないことは「言えない」と言う。知らないことは「知らない」と言う。不器用で、ぶっきらぼうで、パンを焦がすような人だけれど、言葉に嘘がない。
「旦那様」
「なんだ」
「ユリウスは、『ままは、ままだよ』と言いました」
ディートリヒが天井から視線を動かした。私を見た。
「それは——ユリウスが決めたことだ」
静かな声だった。
否定しなかった。「継母だろう」とは言わなかった。ユリウスが決めたことだ、と言った。
「おやすみなさい、旦那様」
「ああ」
竈の火を落とした。
暗くなった離れの中に、ユリウスの寝息と、ディートリヒの呼吸が聞こえている。三つの寝台に、三人。
窓の外に星が見えた。
さっきより、少し増えている。




