第12話 おばあさまの手紙
手紙が届いたのは、年が明けて三日目の朝だった。
郵便使いが月に二度、リンデンバートまで来る。以前は月に一度だったが、湯治の来訪者が増えてからは頻度が上がった。届くのはたいていヘルムートからの事務的な書簡か、リーフェンタール伯爵領の農民からの湯治の問い合わせだ。
今回は違った。
封筒の紙質が良かった。厚手の象牙色で、表の宛名は流れるような筆跡で書かれている。裏を返すと、緑の封蝋に小さな紋章が押されていた。
グリューネヴァルト侯爵家の紋だ。
指先が冷えた。
封筒を裏返して、もう一度表を見た。宛名は「エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト」。私宛てだ。
離れの中には誰もいない。ディートリヒは朝からゲルハルトのところで内務卿への申請書類を作っている。ユリウスはハンナと外に出た。石畳の上を走る小さな足音が、窓の向こうから聞こえている。
封を切った。
便箋は一枚。文面は短かった。
『エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト殿。新年のご挨拶を申し上げます。先般の裁定の件については承知しております。本状は、孫ユリウスとの面会をお願いするものです。場所と日時はそちらのご都合に合わせます。返信をお待ちしております。マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルト』
読み返した。
もう一度、読み返した。
丁重だった。命令の口調ではない。あの廊下で「あなたはもう関わらなくて結構」と言い放った声とは違う。聴聞会で三つの主張を並べ立てた、あの澄んだ声とも違う。
孫に会いたい。場所はそちらに合わせる。
それだけだ。
便箋を机に置いた。
感情が定まらなかった。警戒が先に来る。この人は手続きで押してくる人だ。ディートリヒがそう言った。丁重な手紙の裏に何があるのか、考えずにはいられない。
けれど同時に、聴聞会のあの瞬間を思い出した。ディートリヒが会計監査を申し立てたとき、マルガレーテの顔から血の気が引いた。あの目に浮かんでいたのは怒りではなく、驚きだった。
管理し、掌握し、計画の中に置く。それ以外の方法を知らない人。
その人が、「そちらの都合に合わせる」と書いてきた。
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ゲルハルトの家を訪ねた。
ディートリヒが机に向かって書類を広げていた。ゲルハルトが横から覗き込んで、何かを指差している。二人とも顔を上げた。
「手紙が来ました」
便箋をディートリヒに渡した。
ディートリヒが目を通した。表情は変わらなかった。便箋をゲルハルトに回した。ゲルハルトが眼鏡をかけて読み、鼻を鳴らした。
「殊勝なことだ」
「罠ですかね」
私の言葉に、ゲルハルトが眉を上げた。
「罠かどうかは分からん。だが、孫に会いたいという祖母の願いを、法的に拒否する根拠はない。裁定で禁じられたのは家政への関与であって、面会ではない」
分かっている。分かっているから、困っている。
ディートリヒが口を開いた。
「条件をつけろ」
「条件」
「場所はリンデンバート。ここなら俺たちの目が届く。立会人をつける。ゲルハルトでいい。時間は半日。それ以上は必要ない」
事務的だった。いつも通りの。
「それから——ユリウスに先に話しておけ。知らない人が急に来れば怖がる。予告があれば違う」
事務的な口調の中に、息子の性格を把握している言葉があった。
「分かりました。返信を書きます」
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返信は短く書いた。
面会に応じること。場所はリンデンバート。日時は十日後の午前。立会人としてゲルハルトが同席すること。
魔力封蝋は押さなかった。これは法的な書面ではない。ただの返信だ。
封をして、郵便使いに託した。
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ユリウスに話したのは、その日の夕方だった。
夕食の後、寝台に座ったユリウスの髪を梳かしながら、言った。
「ユリウス。もうすぐ、おばあさまが会いに来るよ」
ユリウスの頭が動きを止めた。
「おばあさま?」
「うん。マルガレーテおばあさま。ユリウスに会いたいんだって」
ユリウスは黙った。黙ったまま、私の膝に寄りかかった。
この子はマルガレーテを覚えているだろうか。公爵邸時代、マルガレーテはユリウスの部屋に直接来ることはほとんどなかった。侍女を通じて指示を出し、報告を受ける。ユリウスに触れるのは、客人がいる場で孫を見せるときくらいだったと思う。
「おばあさま、こわい?」
「怖くないよ」
自信を持って言えたかどうか、分からない。けれど、子どもの前で迷いを見せるべきではないと思った。
「会ってみて、嫌だったら私のところに来ていいからね」
ユリウスが顔を上げた。まっすぐに私を見た。
「まま、いっしょ?」
「いっしょだよ。ずっとそばにいる」
ユリウスが小さく頷いた。それから、ふと思いついたように言った。
「おばあさまに、おゆみせる?」
湯溜まりのことだ。この子は気に入った場所を人に見せたがる。ハンナにも、ディートリヒにも、最初に「おゆみせる」と言って手を引いた。
「おばあさまが見たいって言ったらね」
「うん」
ユリウスが毛布に潜り込んだ。
「おやすみ、まま」
「おやすみ、ユリウス」
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面会までの十日間は、忙しく過ぎた。
湯治場の認可申請のために、ディートリヒとゲルハルトが書類を揃えている。私は症例ノートの整理と、新しく来る湯治客の対応に追われた。
街道沿いの宿場町から来た女性は、肩の痛みが二ヶ月取れないと言った。北の岩場の高温泉で温め、東の林のぬめりのある湯で仕上げる二段階の湯治を試みた。三日で「嘘みたいに楽になった」と笑って帰っていった。二十四件目の症例だ。ノートに記録する。
面会の準備も進めた。
離れの中を掃除した。普段より丁寧に。窓を拭き、机を磨き、寝台の毛布を整えた。侯爵夫人を迎えるのに相応しい場所かと問われれば、到底そうではない。廃れた温泉村の、元湯治宿の離れだ。けれど、できる限りのことはした。
ユリウスの服も整えた。といっても、この村に持ってきた服は三日分しかない。何度も洗って少し色が褪せた上着を、できるだけ皺がないように畳んで干した。
焼き菓子を作ることにした。
前世の記憶を頼りに、簡素な材料で作れるものを考えた。穀物の粉と、蜂蜜と、少しの油。卵は——入れないことにした。
理由は特にない。ユリウスが小さい頃、卵を食べると口の周りが赤くなることがあった。ノートに記録してある。今はもう出ないが、念のために卵なしの菓子を覚えておくのは悪いことではない。前世の小児科では、アレルギーの可能性がある食材は代替で対応するのが基本だった。
焼き上がった菓子は素朴な味だった。ハンナに味見をさせたら「おいしい」と言ったので、たぶん大丈夫だろう。
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十日後の朝。
空は晴れていた。一月の澄んだ青空。気温は低いが、風はない。湯気がまっすぐに立ち昇る、穏やかな冬の日だった。
午前の遅い時間に、馬車の音がした。
村の入り口に出た。ユリウスの手を握っている。ゲルハルトが少し後ろに立っていた。ディートリヒは離れの中にいる。「俺がいると話がこじれる」と言った。おそらく正しい判断だった。
馬車が止まった。
従者が扉を開け、一人の女性が降りた。
マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルト。
記憶の中の人とは、少しだけ違っていた。
銀灰の髪は結い上げられているが、聴聞会のときほどきっちりとはしていなかった。深い紫の衣装ではなく、落ち着いた灰色の旅装だ。背筋はまっすぐだったが、顎の角度がわずかに低い。
旅の疲れだろうか。それとも——。
マルガレーテの視線が、まっすぐにユリウスに向いた。
一瞬、その目が揺れた。
口元が動いたが、声にはならなかった。すぐに表情を整えて、私の方を見た。
「エレオノーラさん。ご足労をおかけします」
「さん」付けだった。公爵邸では呼び捨てだった。聴聞会では「エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト」とフルネームだった。
「いらっしゃいませ、マルガレーテ様。どうぞ、中へ」
離れに案内した。
マルガレーテが戸口で立ち止まり、離れの中を見回した。狭い部屋。寝台が三つ。小さな竈と木の机。窓の外に湯気。
その目が何を見ているのか、分からなかった。粗末な住まいを見下しているのか、それとも別のものを見ているのか。
「お座りください」
椅子を勧めた。マルガレーテが腰を下ろした。ゲルハルトが入口近くの壁際に立った。
ユリウスは私の後ろに隠れていた。完全には隠れきれていない。小さな頭が私の腰の横から覗いている。
マルガレーテがユリウスを見た。
「ユリウス」
静かな声だった。
ユリウスが私の服の裾を握った。
沈黙が落ちた。
私はしゃがんで、ユリウスの目線に合わせた。
「大丈夫だよ。おばあさまだよ」
ユリウスは私の顔を見て、それからマルガレーテの方を見た。何かを考えている顔だった。四歳の子どもが、自分の中で何かを決めようとしている顔。
ユリウスが私の後ろから出てきた。
テーブルの上に、朝から用意しておいた焼き菓子の皿がある。ユリウスがそれに手を伸ばした。一つ取って、マルガレーテの前に歩いていった。
小さな手が、菓子を差し出した。
「おばあさまも、たべる?」
マルガレーテの手が止まった。膝の上で組んでいた指がほどけて、ゆっくりとユリウスの手から菓子を受け取った。
「……ありがとう」
マルガレーテが菓子を口に運んだ。一口、噛んで、止まった。
「卵を使っていないのね」
独り言のように呟いた。
私は少し驚いた。一口で分かるものだろうか。
マルガレーテが菓子を見つめた。もう一口、食べた。
「昔から——卵を食べると喉の奥が少し腫れるの。大したことではないのだけれど」
知らなかった。
公爵邸にいた半年間、マルガレーテの食事の好みなど考えたこともなかった。あの人は敵だった。私を追い出そうとする人だった。その人の体質など、知る由もなかった。
「ユリウスが小さい頃、卵で口の周りが赤くなったことがあったので、念のために卵なしで焼きました。マルガレーテ様のことは存じ上げませんでした」
正直に言った。
マルガレーテが私を見た。
「あの子の記録を、つけていると聞いたわ。体温や食事量」
「はい」
「卵のことも」
「はい。ノートに記録してあります」
マルガレーテの目が、ほんの一瞬だけ伏せられた。
それから、ユリウスの方に視線を戻した。ユリウスは自分も菓子を一つ取って、椅子によじ登ろうとしていた。ハンナと同じくらいの高さの椅子がないので、木箱の台に足をかけて必死に上っている。
マルガレーテの手が動いた。
椅子の横に立ち、ユリウスの背中にそっと手を添えた。押し上げるのではなく、落ちないように支えるだけの、控えめな手つきだった。
ユリウスが椅子に座った。マルガレーテの手を見て、不思議そうな顔をした。
「おばあさま、てがつめたい」
マルガレーテの指が離れた。
「……そうね。寒い日だものね」
声が、かすかに震えた。
私はそれを見ていた。
この人はユリウスに触れたことがなかったのかもしれない。公爵邸では侍女を通じて管理していた。抱き上げることも、手を繋ぐことも、しなかった。管理し、掌握し、計画の中に置く——それがこの人のやり方だとディートリヒは言った。
でも今、この人の手は震えていた。
孫の背中に手を添えただけで。
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面会は二時間ほどで終わった。
ユリウスは途中から打ち解けて、ハンナが来ると一緒に遊び始めた。マルガレーテは椅子に座ったまま、孫が石畳を走り回るのを窓から見ていた。
帰り際、マルガレーテが離れの戸口で立ち止まった。
「あの子の記録を——」
言いかけて、止まった。
口を開き直した。
「あの子の記録を、私にも見せなさい」
命令の口調だった。公爵邸の廊下で聞いたのと同じ、上から下への声。
一拍の間があった。
マルガレーテの顔が、わずかにこわばった。自分の口調に気づいたのだ。
「——見せて、もらえますか」
言い直した声は、低かった。
私は頷いた。
「次にいらしたとき、お見せします」
マルガレーテが目を逸らした。小さく頷いて、馬車に向かった。
従者が扉を開け、マルガレーテが乗り込んだ。馬車が動き出す前に、窓の帳がわずかに開いて、中からユリウスの方を一度だけ見た。
馬車が去った。
ゲルハルトが壁に背を預けて腕を組んでいた。
「あんた、菓子に卵を入れなかったな」
「ユリウスのためです」
「結果として、あの人の体に合った」
「偶然です」
「偶然か」
ゲルハルトが鼻を鳴らした。
「偶然でも、記録をつけている人間の偶然は、ただの偶然とは違う」
意味がよく分からなかった。けれど、否定もしなかった。
離れに戻ると、ディートリヒが簡易寝台に座って書類を読んでいた。顔を上げた。
「どうだった」
「穏やかでした。ユリウスが菓子を渡して、マルガレーテ様が受け取りました。帰り際に、ユリウスの記録を見せてほしいと言われました」
ディートリヒは何も言わなかった。
書類に視線を戻した。
しばらくして、低い声で呟いた。
「母上が、人にものを頼むのは珍しい」
それだけだった。
窓の外で、湯気が白く立ち昇っていた。一月の午後の光が傾き始めている。
机の上に、焼き菓子が二つ残っていた。マルガレーテが食べ残したのではない。ユリウスが「パパのぶん」と言って取り分けたものだ。
ディートリヒの前に皿を置いた。
「ユリウスが取っておいてくれました」
ディートリヒが菓子を見た。それから、一つ取って口に入れた。
「卵が入ってない」
「はい」
「なぜ」
「ユリウスのためです。小さい頃に卵で反応が出たことがあるので」
ディートリヒが二つ目の菓子を取った。
「……悪くない」
また、その言葉だった。パンのときと同じ。おかゆのときと同じ。
悪くない。
ディートリヒ語で、それはたぶん「おいしい」に相当するのだろう。
笑いそうになるのをこらえて、皿を下げた。
洗い物をしながら、マルガレーテの震えた指先を思い出していた。
あの人はこれから変わるのだろうか。変わらないのだろうか。分からない。
ただ、「見せてもらえますか」と言い直したあの声を、私は忘れないだろうと思った。




