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継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)
第2章

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第11話 エレオノーラ

朝の湯気が、窓の外で白く揺れていた。


十二月の下旬。リンデンバートの冬は深い。朝の気温が零を下回る日が増えて、離れの窓枠に薄い氷が張るようになった。それでも湯溜まりからは変わらず湯気が立ち昇っている。凍てつく空気の中で、白い柱が何本も立つ光景は、この村に来た頃よりずっと好きになった。


「まま、さむい」


寝台の上でユリウスが毛布にくるまっている。鼻の頭が赤い。


「もう少ししたら暖かくなるよ。竈に火を入れるからね」


竈の前にしゃがんで、火口に薪を組む。火打ち石を打つ。三度目で火がついた。最初の頃は五回も六回もかかったのに、ずいぶん上達したものだ。


隣の寝台——折り畳みの簡易寝台に、ディートリヒの姿はなかった。毛布が畳まれている。あの人は朝が早い。まだ暗いうちに起きて外に出る。何をしているのかは知らないが、ゲルハルトの家の方から斧の音が聞こえることがある。薪を割っているのかもしれない。


竈が温まってきた。鍋に水を張り、穀物と干した根菜を入れる。卵は昨日ハンナが持ってきてくれた。最近は村の外から鶏卵を買い付ける行商人がリンデンバートまで来るようになって、以前ほど卵に困らなくなった。


おかゆが煮える匂いが離れに広がった頃、戸が開いた。


冷たい外気と一緒に、ディートリヒが入ってきた。頬が赤い。手に薪を三本抱えている。


「薪」


「ありがとうございます。竈の横に置いてください」


ディートリヒが薪を下ろした。それだけの動作なのに、この人がやるとやけに大掛かりに見える。長身のせいだろう。離れの天井が低いから、少し屈まなければならない。


ユリウスが毛布から顔を出した。


「パパ、さむい?」


「寒い」


「パパも、もうふ」


「いらん」


「さむいのに?」


「寒くても、いらん」


短いやり取りだった。ユリウスが納得していない顔をしたが、おかゆの匂いに気を取られて寝台から降りてきた。


三人分の皿を並べる。パンは昨日焼いた残りを温め直した。おかゆをよそい、卵を落としたものをユリウスの前に置く。


「いただきます」


ユリウスが手を合わせた。これはハンナに教わった仕草だ。ハンナの家ではそうするらしい。ディートリヒは手を合わせなかったが、ユリウスがやるのを見て、少しだけ間を置いてからおかゆに匙を入れた。


---


食後、ユリウスがハンナと遊びに出た後、離れの中を片づけていた。


机の上にノートが三冊並んでいる。一冊目はユリウスの健康記録。二冊目は湯治の症例記録。三冊目は、先月から書き始めた湯溜まりの体系化ノートだ。ゲルハルトに頼まれた仕事を、少しずつ進めている。


ディートリヒが椅子に座って、湯治ノートを見ていた。頼んだわけではない。机に置いてあったものを、勝手に開いている。あの人は断りなく人のものを読む癖がある。


「……症例が二十を超えたか」


「二十三件です。今週もう一件増えるかもしれません。街道沿いの宿場町から、肩の痛みが取れないという女性が来る予定です」


ディートリヒはノートを閉じた。


「王都に報告を出す。湯治場としての正式な認可を取るには、監査院ではなく内務卿の管轄だ。ゲルハルトに相談する」


事務的な口調だった。この人はいつもそうだ。感想を言わない。評価もしない。次に何をするかだけを言う。


「旦那様」


「なんだ」


「少し、お聞きしたいことがあります」


ディートリヒの目がこちらに向いた。


聞かなければならないことがある。聴聞会が終わり、裁定が出て、日常が落ち着いた今だから聞ける。


「マルガレーテ様のことです」


ディートリヒの表情が変わらなかった。変わらないということは、予想していたのかもしれない。


「私はずっと——マルガレーテ様がアデリーナさんのお母様だと思っていました。公爵邸で、周囲の方もそのように言っていましたし、マルガレーテ様ご自身もユリウスを『私の孫』とおっしゃっていました」


ディートリヒは何も言わなかった。


「でも聴聞会のとき、旦那様がマルガレーテ様を『母上』と呼ばれましたね。マルガレーテ様がアデリーナさんのお母様であり、旦那様のお母様でもあるなら——」


言葉を切った。その先を口にするのは躊躇われた。


ディートリヒが息を吐いた。深い息だった。


「違う」


短く言った。


「アデリーナは、母上の実の娘ではない」


椅子の背に体を預けて、天井を見た。低い天井の木目を見つめたまま、続けた。


「母上はグリューネヴァルト侯爵家の長女だ。父上——先代公爵に嫁いだ。俺が生まれた。それが公爵家とグリューネヴァルトの繋がりだ」


「では、アデリーナさんは——」


「ブリュンネ男爵家の娘だ。母上が選んだ。おとなしくて、母上の言うことを聞く娘を探して、自分の手元で育てて、俺の妻にした」


手元で育てた。


その言葉の意味を、少しだけ考えた。


「マルガレーテ様がアデリーナさんを引き取って、育てた……」


「ああ。アデリーナが七つの頃からだ。母上のそばで育ち、母上を『お母様』と呼んだ。実質的な養女だ。ただし、正式な養子縁組はしていない。グリューネヴァルト家の名は与えていない。あくまでブリュンネ男爵家の令嬢として嫁がせた」


正式な養子縁組をしなかった理由。それは——同じ家の兄妹にしてしまうと、婚姻が成立しなくなるからだ。


「母上は賢い人だ。法を知っている。だから縁組はしなかった。名目上は他家の令嬢、実態は母上が育てた娘。そうすれば、嫁いだ先でも母上の意向が通る」


ディートリヒの声は淡々としていた。母親についてこれほど多くの言葉を口にするのを、初めて聞いた。


「アデリーナは、優しい人だった。母上の言うことを素直に聞いた。俺のことも——たぶん嫌ってはいなかった。ただ、母上が決めたことに逆らえない人だった。何も」


最後の一語が、少しだけ重かった。


「ユリウスが生まれて、アデリーナは体を壊した。産後の肥立ちが悪く、半年で亡くなった。母上はそれを——自分が嫁がせた娘を失ったことを、ずっと悔いているのだと思う。だからユリウスに執着している。アデリーナが遺した子だから」


窓の外で、斧の音がした。ゲルハルトが薪を割っている。


「母上があんたを敵視するのは、あんたが母上の計画の外にいるからだ。俺の後妻は、母上が選ぶはずだった。グリューネヴァルト侯爵家に近い家から、また母上の言うことを聞く娘を見つけて。ところがヘルムートの紹介で、伯爵家の——母上の知らない女が来た」


伯爵家の、母上の知らない女。


それが私だ。


「マルガレーテ様にとって、私は——」


「制御できない存在だ。だから排除しようとした。養育権を取り上げ、退去に追い込み、法的に後見権を奪う。全部、手続きを使って」


手続きには手続きで。


あの夕暮れにディートリヒが言った言葉が、ここに繋がった。


「母上は悪い人間ではない——と言い切るほど、俺は甘くない。だが、ただの悪人でもない。あの人は、自分のやり方でしか人と繋がれないだけだ。管理し、掌握し、計画の中に置く。それ以外の方法を知らない」


ディートリヒが天井から視線を下ろした。私を見た。


「あんたは違った」


声が変わった。淡々としたままだったが、少しだけ——ほんの少しだけ、柔らかかった。


「記録をつけて、ノートに書いて、自分の足で動いた。俺の条件を聞いて、揃えろと言ったら本当に揃えた。母上のやり方とは違う。命令ではなく、証拠で戦った」


返す言葉を探した。見つからなかった。


「それだけだ」


ディートリヒが立ち上がった。


「ゲルハルトのところに行く。内務卿への書面を相談する」


離れを出ていこうとして、戸口で足を止めた。


「——エレオノーラ」


名前を呼ばれた。


この人に名前で呼ばれたのは、初めてだった。公爵邸では「奥方」、この村に来てからも「あんた」。名前を口にしたことは、一度もなかった。


振り返ったディートリヒの顔は、いつも通りの無表情だった。


「おかゆは、明日も頼む」


それだけ言って、出ていった。


戸が閉まった。


椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。


名前を呼ばれた。


おかゆを頼まれた。


それだけのことだ。それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと温かくて、その温かさの正体が分からなくて、ノートを開いた。


ユリウスの今朝の体温を書き込む。三十六度四分。平熱。食欲良好。朝食完食。


ペンを止めた。


記録の余白に、何か書きたくなった。今の気持ちを。でも、看護記録に書くことではない。


ノートを閉じて、窓の外を見た。


湯気が白く立ち昇っている。その向こうに、ゲルハルトの家に向かうディートリヒの背中が見えた。大きな歩幅で、背筋を伸ばして歩いている。


——エレオノーラ。


頭の中で、もう一度あの声が響いた。


竈の火がぱちりと鳴って、我に返った。洗い物をしなければ。


立ち上がって、皿を三枚重ねた。


三枚。朝はいつも三枚。ひと月前は二枚だった。二枚が三枚になっただけで、洗い物の時間が少しだけ長くなった。その少しだけ長い時間が、不思議と嫌ではなかった。


外で、ユリウスの笑い声が聞こえた。ハンナと追いかけっこをしているのだろう。


皿を洗いながら、思った。


この人たちのことを、もっと知りたい。マルガレーテのことも。アデリーナのことも。この村のことも。


知って、記録して、この手で確かめて。


そうやって、ここで生きていこう。


窓の外の湯気が、冬の朝日に透けて光っていた。

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