第10話 いっしょ
リンデンバートに戻って、三日が経った。
王都から馬車で二日半。ユリウスは行きよりも元気で、馬車の窓から外を指差しては「やま」「かわ」「とり」と叫んでいた。言葉が増えた。ひと月前は二語文がやっとだったのに、今は三語繋がることもある。
村に着いたとき、ハンナが走ってきた。
「ユリウス、おかえり」
「ハンナ、ただいま」
二人が手を繋いで石畳を走っていくのを見て、ゲルハルトが「ずいぶん逞しくなったな」と呟いた。
日常が戻った。
朝、ユリウスの体温を測る。ノートに記録する。朝食を作る。湯溜まりを巡回する。午後は湯治に来た人の症状を聞いて、合う湯を案内する。夕方はノートを広げて記録を整理する。
来訪者が増えていた。週に三組か四組。リーフェンタール伯爵領からだけでなく、もう少し遠くの村や、街道沿いの宿場町からも人が来るようになった。「リンデンバートの湯がいいらしい」という噂が、少しずつ広がっている。
苔に覆われていた「リンデンバート温泉郷」の看板を、ゲルハルトが磨いた。苔を落としたら、下から丁寧な彫り文字が出てきた。
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聴聞会から五日後の昼、郵便使いが来た。
厚手の封筒。表に「エレオノーラ・フォン・ヴァイスフェルト」。裏に、双頭の鷲と天秤の紋章。
二度目の封書だ。
前回は、この紋章を見て手が冷えた。今回は冷えなかった。ただ、心臓が少しだけ速く打った。
離れの中で封を切った。ユリウスは外でハンナと遊んでいる。笑い声が窓から聞こえる。
裁定書を広げた。
『本件後見権移管申請について、以下の通り裁定する』。
一つ目。ユリウス・フォン・ヴァイスフェルトの後見権移管申請を却下する。申請者の主張する「不適切な養育環境」は、提出された健康管理記録、リーフェンタール伯爵の実地所見書、および証人証言により、事実と認められない。
二つ目。ヴァイスフェルト公爵家の帳簿について、当主の申し立てに基づき、王家監査院による会計監査を実施する。
三つ目。会計監査の期間中、グリューネヴァルト侯爵夫人マルガレーテに対し、ヴァイスフェルト公爵家の家政への関与を禁止する仮処分を命じる。
裁定書を机に置いた。
手は震えなかった。目頭が、熱かった。
半年前、あの廊下で頭を下げたときから始まった。ノートをカバンに入れた夜。封蝋を押した午後。裏口の掛け金を外した深夜。馬車の中で「おやすみ」と言ったあの夜から、ここまで来た。
全部、記録してきた。
その記録が、この裁定書になった。
涙は出なかった。代わりに、深く息を吸った。冬の空気と硫黄の匂いが胸に入ってきて、吐き出したとき、体の中の何かが軽くなった。
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ゲルハルトの家を訪ねた。
裁定書を見せた。ゲルハルトは眼鏡をかけて、一行ずつ読んだ。
「却下、か」
「はい」
「会計監査も出た」
「はい」
ゲルハルトが裁定書を返した。それから、腕を組んだ。
「あんたのおかげで、この村にまた人が来るようになった」
「ゲルハルトさんが助けてくださったからです」
「俺は突っ立ってただけだ」
「突っ立って、帝国法を暗唱しました」
ゲルハルトが鼻を鳴らした。笑い顔が、少しだけ板についてきた。
「礼を言うのは俺の方だ。この村は三十年かけて枯れかけてた。湯は出とるのに、誰も使い方を知らんかった。あんたが来て、変わった」
窓の外を見た。白い湯気がいくつも立ち昇っている。苔を落とした看板が、冬の日差しの中で少しだけ光っていた。
「ここに来てよかった」
そう言ったとき、自分の声が思ったより穏やかだったことに驚いた。
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夕方、馬車の音がした。
一台。荷物が多い。
村の入り口に出ると、幌つきの馬車が止まっていた。荷台に木箱がいくつか積まれている。旅行用の荷物ではない。もっと長く滞在するための量だ。
馬車から降りたのは、ディートリヒだった。
旅装ではなかった。黒い上着に、革の長靴。飾りのない、普段着。北部領を回っていた三ヶ月の間にずっと着ていたであろう、くたびれた上着。
「……旦那様」
「ああ」
ディートリヒは馬車の荷台を振り返り、木箱をひとつ下ろした。
「しばらくここにいる」
短い言葉だった。いつも通りの。
「お部屋は、ゲルハルトさんのところに——」
「離れでいい」
少し間があった。
ディートリヒが私を見た。無表情ではなかった。かといって笑っているわけでもなかった。何と呼べばいいのか分からない顔だ。疲れているようにも、安堵しているようにも見える。
「離れは寝台がふたつありますが、ユリウスと——」
「三つ目を持ってきた」
木箱の中身は、折り畳みの簡易寝台だった。
この人は、寝台を馬車に積んで来たのだ。
何か言おうとしたが、その前にユリウスが走ってきた。
「パパ!」
迷いのない足取りだった。ディートリヒの膝にぶつかり、手を掴んだ。
「パパ、おゆみせる!」
湯溜まりのことだ。
ユリウスがディートリヒの手を引いて歩き出した。ディートリヒは引かれるまま、大きな歩幅を小さな歩幅に合わせて歩いていく。
その後ろ姿を見ていた。
大きな手と小さな手が繋がっている。冬の夕暮れの光の中で、白い湯気が二人の影を柔らかく包んでいた。
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翌朝。
竈に火を入れた。
パンの生地を伸ばして、火加減を見ながら焼く。焦げないように、ときどき裏返す。前世で料理が得意だったわけではないけれど、竈の扱いにはこの二ヶ月で慣れた。
焼き上がったパンを皿に載せた。焦げていない。きつね色の、ちょうどいい焼き加減だ。
鍋にはおかゆが煮えている。根菜と卵のおかゆ。この村に来た日から何度も作った味。
机に皿を三つ並べた。椅子を三つ。
ユリウスの椅子は低い。木箱を裏返して台にしてある。
寝台の方から足音がした。ディートリヒが起きてきた。髪に寝癖がある。聴聞会のときの正装とは別人のようだ。
「おはようございます」
「ああ」
ディートリヒが椅子に座った。机の上のパンを見た。
「焦げてない」
「私が焼きましたから」
ディートリヒの口元が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかもしれない。見間違いかもしれない。
ユリウスが寝台から降りてきた。寝間着のまま、裸足で、髪がぼさぼさだ。この子はいつもこうだ。
椅子に座って、机の上を見回した。パンと、おかゆと、三つの皿。
「いっしょ」
ユリウスが言った。
私を見て、ディートリヒを見て、もう一度言った。
「いっしょ、たべる」
パンをちぎって、ユリウスの皿に置いた。おかゆをよそった。ディートリヒの皿にもパンを一切れ。
三人で食べた。
特別な言葉はなかった。ユリウスが「おいしい」と言い、私が「よかった」と返し、ディートリヒが黙ってパンを噛んでいた。
窓の外に、湯気が白く立ち昇っていた。
十二月の半ば。冬の真ん中だ。けれど、窓から差し込む光が、少しだけ白くなった気がする。日が長くなるのはまだ先だけれど、光の色が変わり始めている。冬至を越えれば、あとは春に向かうだけだ。
ユリウスがおかゆの匙を止めて、窓の外を見た。
「まま、けむり」
「湯気だよ。お湯が温かいから、白い湯気が出るの」
「あったかい?」
「あったかいよ」
ユリウスが頷いて、おかゆの残りを食べた。
ディートリヒが空になった皿を机に置いた。
「……悪くない」
パンの感想なのか、おかゆの感想なのか、それとも別の何かの感想なのか、分からなかった。聞き返さなかった。
悪くない。それで十分だった。
窓の外の湯気が、朝の光に透けて光っていた。
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