第1話 おやすみを言える人
廊下の空気が冷たかった。
冬が近い、というだけではない。目の前に立つ女性——侯爵夫人マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルトの声そのものが、壁の石材よりなお冷えていた。
「エレオノーラ。昨晩もユリウスが泣いていたそうですね」
「はい。少しお熱がありましたので、そばに——」
「あなたがそばにいるから泣くのです」
言葉を遮られた。慣れている、と思う自分がいて、少しだけ胸の奥が軋んだ。
マルガレーテは亡き先妻アデリーナの母だ。孫であるユリウスの養育に強い執着を持っている。そして私を——息子の後妻として嫁いできた伯爵家出身の娘を、最初の一日から認めていない。
「あの子の養育は、今後わたくしが引き受けます。部屋も移しましょう。あなたはもう関わらなくて結構」
廊下に反響するその声を、使用人たちが聞いていた。誰も目を合わせない。
私は黙って頭を下げた。
反論する意味がないからではない。反論が通る場所ではないからだ。
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部屋に戻って、扉を閉めた。
深く息を吐く。それから、枕元の引き出しを開けた。
革表紙のノートを取り出す。
前世の私は小児科の看護師だった。子どもの体温を測り、食事量を記録し、夜泣きのパターンと投薬の時間を照らし合わせる——そういう仕事を十年以上続けて、そのまま過労で死んだ。
このノートには、ユリウスの半年分の記録がある。
体温、食事量、排泄、睡眠時間、夜泣きの回数と持続時間、投与された薬の名前と量。
ページを捲る。ここ二週間、夜泣きの回数が増えている。微熱が三日以上続いている。そして、二週間前に侍医が処方を変えた。
この薬は、合っていない。
四歳の子どもの体重に対して量が多い。前世の知識がなければ気づかなかったかもしれないが、症状の出方が典型的すぎる。侍医に進言したことはある。「継母風情が口を出すな」と、マルガレーテ経由で却下された。
ノートを閉じて、旅行鞄に入れた。
着替えは最低限でいい。ユリウスの服を三日分、私の服を二日分。それから、このノートと、筆記具と、帝国通貨を少々。
鞄の底に手を入れて、もうひとつ確認する。三日前にヘルムートから届いた手紙。文面は短い——「深夜二時、裏口に」。
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午後になって、私は書斎に入った。
公爵邸の書斎は広い。ディートリヒ様——旦那様の机は窓際にある。三ヶ月、お戻りになっていない。北部領の視察だと聞いた。それ以上のことは知らない。使用人たちは「冷血公爵」と陰で呼んでいる。妻と子を置いて三ヶ月も領地を回る男、というわけだ。
私が使うのは窓際の机ではない。隅の小さな文机だ。
引き出しから便箋を出し、書き始めた。
『自主退去申告書』。
帝国法において、公爵家に嫁いだ者が自らの意思で家を離れる場合、退去の事由と日時、立ち去り先を明記した書面に魔力封蝋を施し、原本を邸内に残置すれば、手続きとしては成立する。離婚とは異なる。婚姻関係を解消するものではなく、あくまで「居住地を移す」届け出だ。
ただし——ここが肝心なのだが——但し書きを一行、加えた。
『なお、本退去に際し、養育中の被後見児ユリウス・フォン・ヴァイスフェルトの健康管理記録を携行する。当該記録は退去者本人の作成物であり、公爵家の財産目録には含まれない』。
この一文があれば、少なくとも——。
考えるのは後にしよう。
封蝋の小瓶を火にかけ、赤い蝋を便箋の折り目に垂らした。右手の薬指に嵌めた細い銀の指輪——婚姻指輪から、わずかに魔力を通す。蝋が淡く光り、固まった。
署名。日付。
紙を机の上に置いた。
これでいい。
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深夜二時。
公爵邸の裏口は、厨房の脇にある。この時間、厨房番の使用人は仮眠に入っている。鍵は内側の掛け金だけで、外錠はかからない。半年住んでいれば、それくらいは分かる。
ユリウスを毛布ごと抱き上げた。四歳の体は思ったより軽い。熱は少し下がっていた。それでも額に触れると、まだぬるい。
廊下を歩く。自分の足音だけが聞こえる。
裏口の掛け金を外し、扉を押し開けた。
冷たい夜気が頬を打った。十月の末だ。冬の手前の、いちばん空気が澄む時期。
石畳の先に、馬車が一台停まっていた。御者は顔を隠している。ヘルムートが手配してくれた人だろう。名前は聞いていない。
馬車に乗り込む。扉が閉まると、外の音がひとつ遠くなった。
御者台から低い声が聞こえた。「行き先は聞いております」。馬車が揺れ始めた。
窓の外を見た。公爵邸の灯りが、ゆっくりと小さくなっていく。
あの屋敷で過ごした半年間を思い出す、ということはしなかった。思い出すのは今じゃない。
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腕の中でユリウスが身じろぎした。毛布の隙間から小さな手が出て、私の襟元を掴む。
「……まま」
寝ぼけた声だった。
私はこの子の母ではない。継母で、血の繋がりもなくて、あの家で唯一私に許された役割は「ユリウスのそばにいること」だった。
その役割すら取り上げると言われたから、私はこの子を連れて出た。
身勝手だと思う。
でも——この子の薬が合っていないことを、あの屋敷の誰も気にしていなかった。微熱が続いていることを、夜泣きが増えていることを、記録している人間は私しかいなかった。
だから、連れて出た。
「おやすみ、ユリウス」
小さな頭を撫でると、握っていた襟元の力が少しだけ緩んだ。
馬車は北へ向かっている。
行き先はリンデンバートという村だ。帝国北部の山間にある、今はもう誰も訪れない廃れた温泉村。
誰も来ない場所だ。
誰も、来ない場所がいい。
窓の外に、星がいくつか見えた。雲が薄い。明日は晴れるかもしれない。ユリウスの寝息が、馬車の振動に溶けて静かに響いていた。




