表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
継母ですが悪役令嬢扱いされたので、義息子を連れて夜逃げすることにした  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第1話 おやすみを言える人

廊下の空気が冷たかった。


冬が近い、というだけではない。目の前に立つ女性——侯爵夫人マルガレーテ・フォン・グリューネヴァルトの声そのものが、壁の石材よりなお冷えていた。


「エレオノーラ。昨晩もユリウスが泣いていたそうですね」


「はい。少しお熱がありましたので、そばに——」


「あなたがそばにいるから泣くのです」


言葉を遮られた。慣れている、と思う自分がいて、少しだけ胸の奥が軋んだ。


マルガレーテは亡き先妻アデリーナの母だ。孫であるユリウスの養育に強い執着を持っている。そして私を——息子の後妻として嫁いできた伯爵家出身の娘を、最初の一日から認めていない。


「あの子の養育は、今後わたくしが引き受けます。部屋も移しましょう。あなたはもう関わらなくて結構」


廊下に反響するその声を、使用人たちが聞いていた。誰も目を合わせない。


私は黙って頭を下げた。


反論する意味がないからではない。反論が通る場所ではないからだ。


---


部屋に戻って、扉を閉めた。


深く息を吐く。それから、枕元の引き出しを開けた。


革表紙のノートを取り出す。


前世の私は小児科の看護師だった。子どもの体温を測り、食事量を記録し、夜泣きのパターンと投薬の時間を照らし合わせる——そういう仕事を十年以上続けて、そのまま過労で死んだ。


このノートには、ユリウスの半年分の記録がある。


体温、食事量、排泄、睡眠時間、夜泣きの回数と持続時間、投与された薬の名前と量。


ページを捲る。ここ二週間、夜泣きの回数が増えている。微熱が三日以上続いている。そして、二週間前に侍医が処方を変えた。


この薬は、合っていない。


四歳の子どもの体重に対して量が多い。前世の知識がなければ気づかなかったかもしれないが、症状の出方が典型的すぎる。侍医に進言したことはある。「継母風情が口を出すな」と、マルガレーテ経由で却下された。


ノートを閉じて、旅行鞄に入れた。


着替えは最低限でいい。ユリウスの服を三日分、私の服を二日分。それから、このノートと、筆記具と、帝国通貨を少々。


鞄の底に手を入れて、もうひとつ確認する。三日前にヘルムートから届いた手紙。文面は短い——「深夜二時、裏口に」。


---


午後になって、私は書斎に入った。


公爵邸の書斎は広い。ディートリヒ様——旦那様の机は窓際にある。三ヶ月、お戻りになっていない。北部領の視察だと聞いた。それ以上のことは知らない。使用人たちは「冷血公爵」と陰で呼んでいる。妻と子を置いて三ヶ月も領地を回る男、というわけだ。


私が使うのは窓際の机ではない。隅の小さな文机だ。


引き出しから便箋を出し、書き始めた。


『自主退去申告書』。


帝国法において、公爵家に嫁いだ者が自らの意思で家を離れる場合、退去の事由と日時、立ち去り先を明記した書面に魔力封蝋を施し、原本を邸内に残置すれば、手続きとしては成立する。離婚とは異なる。婚姻関係を解消するものではなく、あくまで「居住地を移す」届け出だ。


ただし——ここが肝心なのだが——但し書きを一行、加えた。


『なお、本退去に際し、養育中の被後見児ユリウス・フォン・ヴァイスフェルトの健康管理記録を携行する。当該記録は退去者本人の作成物であり、公爵家の財産目録には含まれない』。


この一文があれば、少なくとも——。


考えるのは後にしよう。


封蝋の小瓶を火にかけ、赤い蝋を便箋の折り目に垂らした。右手の薬指に嵌めた細い銀の指輪——婚姻指輪から、わずかに魔力を通す。蝋が淡く光り、固まった。


署名。日付。


紙を机の上に置いた。


これでいい。


---


深夜二時。


公爵邸の裏口は、厨房の脇にある。この時間、厨房番の使用人は仮眠に入っている。鍵は内側の掛け金だけで、外錠はかからない。半年住んでいれば、それくらいは分かる。


ユリウスを毛布ごと抱き上げた。四歳の体は思ったより軽い。熱は少し下がっていた。それでも額に触れると、まだぬるい。


廊下を歩く。自分の足音だけが聞こえる。


裏口の掛け金を外し、扉を押し開けた。


冷たい夜気が頬を打った。十月の末だ。冬の手前の、いちばん空気が澄む時期。


石畳の先に、馬車が一台停まっていた。御者は顔を隠している。ヘルムートが手配してくれた人だろう。名前は聞いていない。


馬車に乗り込む。扉が閉まると、外の音がひとつ遠くなった。


御者台から低い声が聞こえた。「行き先は聞いております」。馬車が揺れ始めた。


窓の外を見た。公爵邸の灯りが、ゆっくりと小さくなっていく。


あの屋敷で過ごした半年間を思い出す、ということはしなかった。思い出すのは今じゃない。


---


腕の中でユリウスが身じろぎした。毛布の隙間から小さな手が出て、私の襟元を掴む。


「……まま」


寝ぼけた声だった。


私はこの子の母ではない。継母で、血の繋がりもなくて、あの家で唯一私に許された役割は「ユリウスのそばにいること」だった。


その役割すら取り上げると言われたから、私はこの子を連れて出た。


身勝手だと思う。


でも——この子の薬が合っていないことを、あの屋敷の誰も気にしていなかった。微熱が続いていることを、夜泣きが増えていることを、記録している人間は私しかいなかった。


だから、連れて出た。


「おやすみ、ユリウス」


小さな頭を撫でると、握っていた襟元の力が少しだけ緩んだ。


馬車は北へ向かっている。


行き先はリンデンバートという村だ。帝国北部の山間にある、今はもう誰も訪れない廃れた温泉村。


誰も来ない場所だ。


誰も、来ない場所がいい。


窓の外に、星がいくつか見えた。雲が薄い。明日は晴れるかもしれない。ユリウスの寝息が、馬車の振動に溶けて静かに響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
マルガレータは誰の母? アデリアの母と有るけど、侯爵夫人マルガレータである。 では女侯爵アデリアなのか? 「息子」の後妻エレオノーラが気に入らないともある 兄と妹の婚姻ぽくなるのでちょっとキモイ
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ