川神様の渇き
今回は、日本の原風景、田舎の「川」と、土着の信仰をネタにした、じっとりした民俗学ホラーだ。
都会での生活に疲れ果てた僕は、数年ぶりに、山奥にある故郷の村へと帰ってきた。
この村は、時間が止まったような場所だ。村の中央を、一本の、美しい川が流れている。村の生命線であり、同時に、畏怖の対象でもある、その川。
村には、古い風習が、今も、色濃く残っていた。
年に一度、夏の終わりに、川の氾濫を防ぎ、恵みをもたらしてくれる「川神様」に、捧げ物をする祭り。
僕が子供の頃は、獲れた魚や、山の幸を、捧げていた。だが、いつからか、村の長老の提案で、精巧な木彫りの人形を、川に流すようになった。
「川神様も、時代の流れと共に、より美しいものを、お望みじゃ」
長老は、そう言って、厳かに、笑う。
僕が帰郷したその年は、観測史上、最悪の干ばつに見舞われていた。
周囲の村の川は、ことごとく干上がっているというのに、不思議なことに、この村の川だけは、かろうじて、その流れを保っていた。
だが、その水位は、日に日に、下がっていく。
「川神様が、お怒りじゃ……」
「今年の人形では、お気に召さなかったのやもしれん……」
村人たちの間に、不穏な空気が、流れ始める。
長老は、村人全員を、神社の前に集め、重々しく、口を開いた。
「このままでは、村は、川と共に、干からびてしまう。今年の祭りの捧げ物は、これまでで、最も、価値のあるものにせねば、ならん」
その言葉に、僕は、言いようのない、胸騒ぎを覚えた。
僕は、村の小さな資料館に、何時間も、閉じこもった。この村の、古い歴史を、片っ端から、調べ直すために。
そして、埃をかぶった、古い文献の、その片隅に、僕は、その記述を、見つけてしまった。
『――古来、川神様への捧げ物は、人身御供をもって、執り行う。選ばれし者は、神の器となり、その身を、川へと還す。川は、その新しい生命を得て、再び、村に、恵みをもたらす――』
僕の、全身の血が、凍りついた。
捧げ物は、人形なんかじゃなかった。生きた、人間だったのだ。
その時、ふと、ある疑問が、頭をよぎった。
村の長老。彼は、僕が生まれる、ずっと前から、この村にいる。だが、誰も、長老がどこで生まれ、どうやって、この村に来たのか、知らない。彼は、ある日、ふらり、と、この村に現れ、いつの間にか、長老になっていたのだ。
まさか。
僕は、資料館を飛び出し、川辺に立つ、長老の家へと、走った。
長老は、一人、縁側で、静かに、川面を、眺めていた。
「……気づいたかね、都会の若者よ」
僕の気配に、長老は、振り返らずに、言った。その声は、水が流れるような、奇妙な響きを持っていた。
「捧げ物は、人形では、意味がない。川神様は、もっと、生きた、生命力に溢れた『器』を、欲しておられる」
「あなた、一体、何者なんだ……!」
「わしは、わしだよ。五十年前、この村が、川神様に捧げた、捧げ物さ」
長老は、ゆっくりと、こちらを、振り返った。
その顔は、皺だらけの、ただの老人の顔。だが、その瞳の奥は、人間のものではなかった。それは、何千年も、この地を流れ続けてきた、川そのものの、冷たく、底なしの、闇を湛えていた。
「わしの、この『器』も、もう、百年近く使っておる。そろそろ、限界じゃ。わしが、この人の形を保てなくなれば、川も、渇いてしまう。だから、新しい器が、必要なのさ」
長老の身体が、ぐにゃり、と、陽炎のように、歪み始める。
その人型の輪郭の内側で、水でできた、不定形の「何か」が、蠢いているのが、見えた。
「今年の捧げ物は、特別でなければ、ならぬ。お前さんのように、若く、生命力に満ちた、極上の器がな」
長老の姿をした「何か」が、ぬるり、と、僕に向かって、その手を、伸ばしてきた。
一番身近な、優しいはずの存在。結局それが一番、怖い。