十
少女は生まれた時にはこんな惨めな思いをするような姿ではなかった。どちらかと言えば可愛いほうだった。
お喋りが得意なわけではなく、大人しかったから友達は多くはなかったが、それなりの人付き合いはできていた。
ある日、一緒に遊んでいる男子が、木の根に躓いて転び、膝を擦りむいた。膝からは真っ赤な血が滲んでいて、その少年は目に涙をためていた。
「大丈夫⁉︎」
少女は少年に駆け寄り傷を見た。怪我を負っていない自分にまで痛みが伝わるような気分だった。
「これ、この葉っぱを傷口に当てて、そうすれば痛みも楽になるよ」
そばに生えていた薬草を水で軽く洗い、血の滲む膝に優しく当てた。
少年は膝の痛みに歯を食いしばる。
しばらくして痛みが引いたのか、少年の表情が少しずつ和らいでいく。少年は立ち上がった。
「ありがとう、もう大丈夫」
「よかった」
元気を取り戻したその少年を見て少女も安堵した。
「それにしても凄いね」
「え?」
「痛くなくなった、本当に凄いよ!」
「え、あ……そ、そうかな」
少女にとっては自分が聞いたことを実践しただけにすぎない。だからこそ『凄い』というのはすぐには理解できなかった。
ただその言葉がくすぐったくて、それでも悪い気分はしなかった。
「うん! なんで分かるの?」
「昔、お母さんに教えて貰ったから」
「他には、他にはどんなのがあるの?」
少年は興奮気味に尋ねた。
「え、えっと、私もそんなに詳しいわけじゃなくて、あと知ってるのは、願いを叶えてくれる花とか」
「花が願いを叶えてくれるの? どんなことも?」
「本当かどうか分からないけどね。ドラゴンが現れてキレイな女の人を連れて行っちゃうの。その代わりにその花を置いてくんだって」
「え〜怖い!」
「それと他にも森の中には気を付けたほうがいいのもあるって」
「気を付けたほうがいいもの?」
「うん、強い毒を持ってて、体が呪われちゃうんだって」
「うえぇ」
「だから森では気をつけなくちゃって」
「へぇ~知らなかった!」
先ほどまで泣きそうな顔をしていた少年は明るい笑顔になっていた。
目を輝かせて、キラキラとした瞳からは憧れのようなものを感じた。
その顔を見て、少女もつられて嬉しくなった。それと同時にこのような考えが湧いてきた。
(もっと勉強しよう。詳しいのは凄いことなんだ)
それから少女は植物への関心が増し、様々な物に触れるようになった。それは十歳になる前のことだった。
それからしばらく、植物について詳しく調べた。食用や薬用、音を奏でたり、踊るように動く物もあれば、毒を持ったものまで。
常に植物ばかりに気を取られていて、周りの子供たちからは変わり者に思われ、多少距離を置かれるようになった。
それでも気にしなかった。楽しかったから。
───しかし、不幸は突然に訪れた。
「ふん、ふん、ふ~ん」
鼻歌を歌い、脇には図鑑を挟んで、いつものように森を歩き回る。
森は植物の宝庫だ。図鑑と照らし合わせながら眺める。
「あ、これは触っちゃだめなやつだ。えぇっと……」
図鑑に載っている説明を詳しく読むと、主な症状として肌荒れと記載されている。
肌に付着した細菌が無尽蔵に数を増やし、毛穴の中で活動することにより肌の炎症を促す。
命への支障はないものの、細菌の繁殖速度が医療技術を置き去りにするため、現在ではその症状を緩和する手立てがない。
素手では決して触ってはいけないと書かれている。
「うわ……解説を読むだけでも顔がムズムズしちゃう。離れておこっと」
そのまま森の奥へと入ってった。
「おっと」
木が増えていくに従って、地面から顔を出している根も増え足場も悪くなっていく。
「これはなんだろう、初めて見る」
そこにある一輪の花は決して綺麗と言えるものではなかった。みすぼらしく、色もくすんでいた。
近づいて花を摘み取ろうとした時、少女の体から光が漏れる。
「え、何……!」
漏れた光は花に吸収されていく。それだけではない。
「イヤッ!」
慌てて花から離れる。
「爪が、割れてる」
光が吸収されると同時に爪が一つ割れた。
花は奪った光を吸って輝き始めた。
「不思議な花……」
───ガサガサ。
見惚れていたら視界の端に、何か大きな動物の影が見えた。
瞬間的に首がそちらに向いた。
「ッ!」
心臓が大きく跳ね上がる、
大慌てで躓いて四つん這いになりながら、木の陰に隠れた。体から枝が生えている大きな獣がゆっくりと歩いている。
(あれはジュモクグマ……⁉︎ ど、どうしよう……。気付かれる前に逃げなきゃ……!)
しかしその慎重な考えは、イタズラに合うように霧散する。
「痛ッ!」
冷静さを欠くその足は、容易く木の根に引っかかる。
盛大に転ぶとともに声を漏らして、音も立ててしまう。
とすれば、野生の生き物が気付かないはずがない。
ジュモクグマは少女に向かって歩みを進め始めた。
「に、逃げなきゃ!」
後ろを振り返ることすらできない。
体の全てを冷や汗が包み込む。
痛む膝さえ気にする余裕はない。
まるで悪夢に追いかけられているようで、足が思うように動かない。
近づいて来ているのかどうかなど、分からなくてもいい。とにかく逃げる。
再度転ぶ、転んでしまう。
それこそが不幸の入り口。
転んだ先はあの花だ。
しかし今はそんなことを知る由もない。余裕もない。
立ち上がりながら走る。
森から抜けるために。
幸いにもジュモクグマは途中で追うのを止めていたため、襲われることはなかった。
しかしその翌日。
眠りから目を覚まして異変に気付く。
「かゆい……」
体を起こし鏡を覗く。
「これだ……ポツポツができてる」
頬に小さなニキビが一つ、ぷっくりと自己主張をしていた。
(まあ、すぐ治るでしょ)
何を考えることなく、少しだけ丁寧に顔を洗うとその日は早く眠ることにした。
その日はそれで終わった。
───だが、
翌日、翌々日には倍、そのまた倍と額に顎に鼻に瞼に唇と、その忌まわしい呪いは数を増やし、領地を広げ赤く染めていった。
「どんどん増えてる……かゆい……痛い……」
日に日に悪化する症状。
それはかゆみ、痛みという単純な苦痛だけではない。
かゆみによる集中力の低下。
その痛みによる目覚めが引き起こす慢性的な睡眠不足。
頭は常に霧がかかったようにぼやけて。
些細なことでも腹が立つ。
世の中すべてが暗く見えてくる。
もちろん何もしないわけではない。
いつもよりも時間を掛けて念入りに顔を洗う。
親に相談し、医者に罹る。
薬を飲み、塗る。
神にさえ縋る。
嫌いな自分の数だけ神を探す。
しかし、そのことごとくが症状を緩和させる一手にはならなかった。
やがてそれは黒、青紫に変色し、入れ墨のように広範囲に刻まれていった。
そこで不意に思い出す。ジュモクグマから逃げた日のことを。
当日は慌てていたため、翌日は安堵のためすっかり忘れていたことを思い出す。
(まさか……あの花に……)
顔が次第に変わっていく。
「ちょっと! 何してるの⁉」
夜中寝ていると、物音がして台所を覗いた母親。
それは衝撃の瞬間。
娘が包丁を手に取って、その鋭い刃を自らの顔に当てようとしている瞬間だった。
慌ててその手を掴み抑える。
「放してよお母さん! この皮膚全部剥ぎ取るんだから! そうすればこのかゆみも痛みもきっと治るんだから!」
「馬鹿を言うのをやめなさい! 治るわけないでしょ! お父さん起きて! お父さん!」
寝室から現れた父親が娘を押さえつける。
力のない少女は抵抗することさえ許されない。
「う……うぅ……もう……いやぁ」
少女の涙がその頬に染みる。
顔が変わるに連れて、周りも変わっていく。
初めの頃は気を使って、誰もその顔には触れなかった。
しかしあからさまに視線が避けている。
日に日に化物に変わっていく顔を見られなくなっていく。
本人も見せたくなくなっていく。フードを深く被るようになり、顔を見られないように下を向き、背は丸まっていく。
そうして、誰も、少女自身も、元の顔など忘れてしまったころ。
少年が遠くで転び、膝から血を出している姿を見た。
少女は咄嗟に駆け寄る。
「だ、大丈夫……? これこの草を傷口に当てたら楽になるよ」
そう言って少年の膝に触れようとした瞬間。
「やめろ!」
「痛っ!」
その手が振り落とされ、手に持っていた植物を落としてしまう。
「どうしたの……? 酷い怪我だよ……」
少年は膝から血を流しながら、歯を食いしばりながら立ち上がる。
「触るな! 気持ち悪いんだよ! この魔女!」
「ッ!」
その顔をにらみながら怒鳴りつけると、走って消え去ってしまった。
その言葉はさながら総攻撃の合図だった。
今まで距離を取るだけだった周りは、それを切っ掛けにあからさまな敵意を隠すことがなくなる。
罵声を浴びせられ、足を掛けられ、石を投げられる。
その姿を誰も憐れむことはない。
なぜならそれは魔女退治という行為だから。
善行だから。
楽しいから。
人というものは単純だ。
自分より強そうな化け物には恐れおののき逃げ出すが、自分より弱そうな化け物は徹底的に叩きのめす。
(どうして、どうして……? 私が何をしたというの? もうイヤ、誰も私を見ないでほしい)
少女は魔女になった。
魔女は孤独になっていった。
その心がすがれる先は植物だけだった。
魔女は人前に出ることがなくなり、家と森を行き来するだけの生活になった。
食事は親が部屋の前に置いてくれる。
それを一人部屋に持ち込んで、胃袋に流し込むだけだ。
食べ終えたら親に顔を見られないように片付ける。
親の顔ももうしばらくは見ていない。
魔女も見られたくなかったが、親も娘の顔を避けていた。
もはや何をしていてもいいから、顔を見せないでほしいとでも言うように。
その無言の圧力にこたえるように今日も森に出向く。
その日は少し森の様子が違った。
魔女が森に行くと見慣れぬ華やかな少女の姿があった。
華やかな恰好、そして彩り豊かな花たちさえ霞む美しい容姿。
しゃがみ込み花に手を伸ばしている。
「っ! ダメ!」
魔女は少女に駆け寄り突き飛ばした。少女は小さな悲鳴を上げて倒れた。
「な、なにをするのです!」
「その花に触っちゃダメ! 私みたいになりたいの⁉」
魔女はフードの下を見せて叫んだ。
少女の視線が顔に突き刺さる。
耐え切れず視線を逸らした。
「……醜いでしょう。こうなりたくないなら無闇に触らないほうがいいよ」
フードをかぶり直し、踵を返し醜い自分を遠ざけようとする。
「あの! ありがとうございます」
その言葉に足が瞬間止まる。
だが再び足を運びだすと、
「お、お待ちください! お礼を……お礼をさせてください」
少女は呼び止めた。
「いらない」
「そんな、何かさせてください」
「……私の顔を治してくれるとでも言うの? お医者さんにもできないんだよ。それとも私の代わりに神頼みでもしてくれる?」
「……」
魔女は少女を置き去りにその場を後にした。
翌日。
「やはりここに来れば会えると思いました」
同じ場所に同じ少女が立っていた。
「どうして……? お礼ならいらないって言ったでしょ」
「はい。なので個人的なお願いをしに参りました」
「……何?」
「あなたとお友達になりたいのです」
少女はこともなげに言った。
「……何それ、同情のつもり?」
「そんなつもりは微塵もありません。あなたと仲良くなりたいのです」
「……」
少女は改めて挨拶をした。
「私はバーバラと申します。あなたは?」
「……バーバラ……バーバラ? まさか……バーバラ姫様⁉」
「いかにも、私は姫のバーバラでございます」
「どうして護衛も付けずに……?」
「堅苦しいですから。たまには自由になりたい時もあります」
「……申し訳ありません。無礼な口をきいてしまっていました」
「そうかしこまらないでください」
「しかし……」
「あなたは今日から私のお友達、ですから」
「そんな強引な……」
「さぁお名前をお聞かせください」
「……スピルです」
「スピル……素敵なお名前ですね」
「……やはり私なんかが友達になど」
「いいえ。もう決めましたので」
(……押しが強い)
断られることなど頭の中に欠片も思い描かない。純粋な好意。愛に満たされて育ったバーバラにとってはそれは特別なことではない。
(そうだよね、こんなに綺麗なんだもの)
「……分かりました。私なんかでよければ」
スピルも例外ではなかった。淀みのない瞳に見つめられると叶えたくなってしまう。
「本当ですか。ありがとうございます!」
そして、この花咲く笑顔。
(ああ、一度見てしまえば誰だって親切になってしまう。次もまた見たくなってしまう。だから愛されてるんだろうな)
それからバーバラはスピルに会いにくるようになり、ある日スピルを城へと招待した。
もちろんスピルは断った。三度断った。しかしバーバラの落ち込んだ表情に心を痛め、罪悪感を抱き、考えが揺らぎ、少しだけならと了承した。
そしてバーバラが笑顔を咲かせる。今までにないほどに。
(バーバラ様の親切はとどまることを知らない)
招待されて城へ。
(しかし、それはきっと愛されているから)
遊びに誘われては隣を歩く。
(愛されるのはその美しさから)
「チャティ。ごきげんよう」
「バーバラ様、また抜け出してきたのですか? お城の人たちにとやかく言われてしまいますよ? 俺は大歓迎ですけど」
「私のことを思ってくれているのはわかりますが、皆は心配しすぎなのですよ」
「ところで、そちらの方は……?」
「私のお友達のスピルです」
「バーバラ様の……! どうも初めま……っ! ……し、てチャティ……だ」
明るい店内ではどれほどにフードを被っていたとしても、その顔を隠しきることなどできるわけがない。チャティの視線が物語っている。
それでもスピルはフードを深くかぶりなおして「……どうも」と小さくつぶやいた。
「……スピルは少し、その、恥ずかしがり屋なのでその……」
「ま、まぁその……ところでお茶を飲みに来たのでしょう? 淹れてきますよ」
「ええ、いただきます。スピルも一緒に」
「……わ、私は……遠慮しておきます」
スピルは喫茶店を出た。
「スピル? もうしわけありませんチャティ。お茶はまた今度に」
「あ、え、ええ……またいらしてください……」
また別の日。
バーバラの誘う場所には人目が必ずある。
そして並んで歩けば必ず二人を比べる声が聞こえる。
「スピルもたまには明るい服で着飾ってみてはいかがですか?」
そう言って薦める服は鮮やかな装飾を施された可愛らしい服。
薄汚れた灰色の服をいつも纏っているスピル。
美しい服は美しい者に着られたいように見えるから。
「私は……いいです」
「……そうですか。ではこちらは……」
「私には本当に似合いませんから……」
スピルには伝わっている。
バーバラの親切は善意で満たされている。皮肉や嘲笑の意味を持っていることは絶対にありえないと。
たとえ悪戯心があっても自分に近寄るような存在はいない。神にさえ見捨てられたこの姿なのだから。
今のスピルにとってバーバラの優しさは神が跪くほどだった。
だからこそ辛かった。
(バーバラ様はこんな私にもお優しい。パッと花開くような笑顔が可愛らしい。美しい……綺麗、綺レイ、キ麗……キレイ……)
少女の隙間に魔が差し込まれる。
(もしもその姿を失ったら……)
魔女の頭に浮かぶ考え。
(もしも私にそれがあったなら……)
わかっている。
それを実行することは許されない。
何をすべきで何をしないべきか。
わかっているというのに、止められない。
頭の中が言い訳に埋め尽くされて動き続ける。
心の中に潜む飢えた獣が、目の前の肉を食らえを囁き続ける。
「今日はどのようなお話を聞かせてくれるのですか?」
「実は、バーバラ様にお願いがございまして……大丈夫です。すぐに終わりますから」