午後6時00分・泉家 《兄》
玄関の鍵を開けると、家の中は真っ暗だった。
「あれ……明菜?」
呼びかけながら電気をつけ、靴を脱ぐ。脇に小さなローファーがあるから、帰ってはいるらしい。
廊下を覗き込むと、キッチンの明かりが漏れていた。しかし廊下の突き当たり、居間から続くベランダの向こうには隣のマンションの明かりが見え、カーテンが閉められていないのがわかる。
「明菜?」
キッチンを覗くと誰もいなかった。しかしシンクに冷やしてあるボウルを見て、何をしていたのかはわかる。冷蔵庫を開けると、かわいらしくラッピングされた箱がひとつだけ入っていた。今日は両親が不在で、朝はこんなものは無かった。答えは簡単だ、明菜がバレンタインのチョコを作ったのだろう。
「一つ……か」
毎年作っていた時は義理チョコがたくさんだったのに、今年は一個だけ。ラッピングの気合の入れ方を見ても、その意味するところはわかる。
「そっか……」
帰り道でも色々と考えていたが、余計な心配だったようだ。
キッチンからでて居間のカーテンをしめ、電気を点ける。部屋が明るくなると、ソファで明菜が寝ているのがわかった。エプロンもしたままだ。チョコ作りに疲れたのだろうか。
隣に腰掛け、寝顔を見下ろす。
「お前も大きくなったんだなぁ」
寝顔のかわいさは幼稚園の頃から変わらず、異論どころか強調するまでも無いが、それは確かに大人になりつつある女の子の顔だった。もう、無邪気に後を付いて来ていた昔とは違うのだ。
「ん……」
明菜が小さく声を漏らす。起こしてしまったかと一瞬身構えてから、その表情が苦しそうなことに気がついた。よく見れば額には汗をかいている。手をあてれば、驚くほどに熱かった。帰ってきたばかりで自分の手は冷えているとは思うが、それにしても異常な高さだろう。
「体温計は……と」
ソファから腰を上げ、対面式キッチンのカウンター下にしまってある薬箱を引っ張り出す。
「あれ……お兄ちゃん?」
体温計を取って戻ると、明菜がトロンとした目でこちらを見上げてきた。有無を言わさず体温を測り、一瞬で現れた数字に思わず目を疑った。
表示は三十八度二分、高熱だ。
「そうか……キッチンは寒いもんな」
居間には暖房があるが、奥まっているキッチンまで届くわけが無い。チョコを溶かすのは湯煎だろうが、足下からの冷えは避けようがない。長時間いたら風邪をひいてしまうのも無理はなかった。
「どうしたの?」
寝ぼけ眼の妹を抱き上げ、ベッドへと連れて行く。
「明菜、今日はもう寝てな。後でお粥作るから」
「ん、ありがとう……お兄ちゃん」
むにゃむにゃと舌足らずに返す妹に切ない気持ちを抱きつつ、ゆっくりとベッドに寝かせてやる。
「着替えは自分でしろよ」
「うん」
エプロンを外してパジャマを横におき、暖房をつけてドアを閉める。
「明日は学校は休みだな……」
担任は昨年お世話になった数学教師だから話もしやすい。チョコを渡す相手も隣の家だ。
「バレンタインは前に進む日、か」
思わずつぶやくと、色々な思い出が頭の中を巡る。
最初の記憶は泣いていた姿。幼児なのだから当然なのだが、小さくてすぐに泣く妹を自分が守ってやらなければと幼心に誓い、今まで過ごしてきた。
そういえば、最後に明菜の泣き顔を見たのはいつだったろう。目を瞑ってしばらく昔に思いを馳せ、もう自分の役目が終わっていたことに気がつく。
まぶたを持ち上げると、妙に晴れ晴れとしていた。
大げさだが、娘が嫁に行く朝の父親の心境はこんな感じなのかもしれない。
果たして自分は、本当に明菜が嫁に行く時は大丈夫なのだろうか。自嘲の笑みが浮かぶ。なんだか、今から一抹の不安を抱かずにはいられなかった。