午後2時30分・喫茶店 《妹》
「それで、チョコはあげるの?」
急な質問に、思わず飲んでいたレモンティーを噴き出しそうになってしまった。
「……な、なんのこと?」
カップをテーブルに戻して顔を上げると、エリちゃんはしれっとした顔でミルクティーに口をつけている。
「別に隠さなくったって」
「別に隠してるわけじゃ……」
言いながら声が小さくなるのが自分でもわかる。
「だってさ、月代先輩のこと好きなんでしょ?」
「それは……」
好き、だと思う。でもその好きは、エリちゃんの言うような「好き」なのかがわからなかった。
すがるようにカップを両手で持ち上げると、レモンティーに映った自分の顔も悩んでいる。
「わかんないよ……」
漏れたため息に顔が歪む。
黒いもやもやはまだ少し心の中に残っていた。昔も今も想いは変わらないはずなのに、それを言葉にすることができなくなってしまった。どう表現すればいいのかがわからない。
好きってなんだろう。そんなことを思ってしまう。
「何がわかんないのよ」
エリちゃんは語気を強める。
「だって……」
「だっても何も無いの。去年だって『受験勉強があるから作らない』なんて言ってたのに、結局あげたんでしょ」
「それはそうだけど……」
思い出すとちょっと顔が熱くなる。
「あの時、宣言を破って渡したのはどうして?」
「それは先輩がチョコを食べてたから……」
晩御飯ができて呼びに行った時のことだ。慌てて隠したみたいだったけれど、可愛くラッピングされた箱が机の上に置いてあったのでわかってしまった。
「あのね、そーいうのを嫉妬って言うのよ?」
「しっと?」
思いがけない言葉に思わずエリちゃんの顔を見つめてしまう。エリちゃんは眉をひそめて見返してきたかと思うと、しばらくして大きくため息をついた。
「まったく。本当に自分でわかってないのね」
「え、うん……」
嫉妬なんて言葉、テレビドラマの中でしか聞いたことが無かった。それが自分に起きているなんて言われても信じられない。
「さっき図書室の前で私が泉先輩のことをいいなって言った時、どう思った?」
「どうって、エリちゃんがお兄ちゃんを好きになったなら、応援しようって思ったよ。将来エリちゃんをお姉さんって呼ぶのかなとか……いたっ」
おでこを指で弾かれた。
「考えすぎよ」
エリちゃんはちょっとだけ頬を赤くしながら、ミルクティーをゆっくりと飲む。
「それで、さっき保健室の前ではどう思ってたの?」
「え……」
「今日は少なかったけど、月代先輩目当ての女の子が騒いでたでしょ」
「うん……」
はっきりと思い返すよりも早く、心の中に黒いもやもやが広がってくる。女の子の黄色い声や言葉を思い出そうとすると、とても嫌な感じだ。
「顔がこわばってる」
指摘する声に我に返ると、エリちゃんがほんの少しだけ目を細めてこちらを見ていた。そんなつもりもないけれど、両頬をつねって表情を戻そうとする。
「今、明菜の心の中に広がってるのが嫉妬よ」
「そうなの?」
エリちゃんが頷いた。
黒いもやもやを初めて意識したのは、去年のバレンタインだ。月代先輩がチョコを食べていたのを見たら心が苦しくなって、このままじゃいけないと思って、それでご飯を食べ終わってすぐにチョコを買いに行ったのだ。
「明菜の心の中ではね、とっくに二人への『好き』が違うものになってるの。泉先輩へは兄としての『好き』。だから先輩が他の女の人を見ていても落ち着いていられるし、他の女の子からの好意だって気にならないんでしょ」
言われてみると、お兄ちゃんが近所のお姉さんを好きなのは昔から知っていたけど、何も感じはしなかった。
「でも、月代先輩への『好き』はそれとは違う。他の人に取られたくないとか、私を見て欲しいとか、そういう種類の『好き』よ」
「……そう、なのかな」
まっすぐ見つめてくるエリちゃんから逃げるように視線を落とす。両手のひらで包んだカップは、まだ温かい。
「そりゃね、私だってずっと友達やってるんだから気持ちはわかるわよ」
エリちゃんの声のトーンが少し下がる。
「明菜はね、きっと、今までの関係が変わるのが怖いんだと思う」
(そうなの?)
問いかけても、レモンティーに映った自分は答えを返してくれない。
「ずっと兄妹のように育ってきて、そばにいるのが当たり前だったから。それがとても心地よかったから、そこから動きたくないって気持ちはわかる」
穏やかに、諭すように、エリちゃんは続ける。
「でもね、私たちはもう高校生なの。泉先輩と、明菜と、月代先輩の三人で肩を寄せ合って暮らしていた頃とは違う。今はご両親も帰ってきてるし、友達も増えたし、自分の道を歩き出してる。もう、いつまでも小さい頃のままってわけにはいかないのよ」
エリちゃんの言葉が重く響く。
もちろんそんなことはわかっている。
初めは、月代先輩はただのお隣のお兄ちゃんだった。それが先輩のご両親が亡くなって、近所に住んでいた叔父さんに引き取られた。けれど叔父さんは独り身で仕事も忙しかったから、お父さんが申し出て私やお兄ちゃんと一緒に過ごすことが多くなった。
そしてお父さんとお母さんが仕事で遠くへ行くことになり、お兄ちゃんと月代先輩との三人で暮らし始めた。それは二年くらいの間だったけど、私にはもっと長かった気がする。
お父さんたちが帰ってきて、みんなでまた暮らすようになって、そしてあっというまに時間が過ぎていった。
(私は、お兄ちゃんたちが好き)
心の中でつぶやくと、胸の奥がほわっと温かくなる。それはずっと昔から変わらない大切な気持ちだ。
『お兄ちゃん』と、『月代先輩』。
いつからそう呼び分けるようになってしまったかはわからない。でも、二人とも心の中で呼びかける時は「お兄ちゃん」だ。ずっと昔から後ろにくっついて遊んで、いつも一緒にいた二人。自慢の二人のお兄ちゃんたち。
――明菜。お前はお兄ちゃんが守ってやるからな。
自分の辛さや寂しさなんて絶対に見せずに、笑顔でそう言うのが武明お兄ちゃん。
(私は、そんな武明お兄ちゃんが好き)
顔を思い浮かべながらだとちょっと恥ずかしいけど、それは素直な気持ち。今はお父さんもお母さんも家にいるし、私も大きくなったからいつも一緒ではないけれど、それでも、感謝してもしたりない。
隣に住んでいる『正信お兄ちゃん』は、ほとんど笑わなくてもの静かだけど、優しいのは同じ。武明お兄ちゃんがいないときは必ず一緒にいてくれたし、迷子になった私を必死になって探しに来てくれたのはいつも正信お兄ちゃんだった。
最近はあまり顔を見ていないから、さっきの後ろ姿を思い浮かべる。
(私は、正信お兄ちゃんが……)
言葉を続けようとして、いつかの光景が脳裏をよぎる。
――よかった、見つけた。
一人っきりで見知らぬ土地をさまよって、夜を過ごして、そして全てに絶望してしまったあの時。せめてもう一度会いたいと願った瞬間に現れた顔。汗びっしょりで、息を激しく乱して、顔を砂で汚して。それでも今までに見たことのないくらいの笑顔で、言ってくれた言葉。
――もう、寂しくないからな。
(……私は、正信お兄ちゃんが、好き)
あの笑顔を思い出した瞬間、鼓動が早くなった。
胸を押さえる。制服の上からでもわかるくらいに、心臓がドクドクと脈打っている。手のひらよりも制服ごしの体の方が熱い。体中が浮き上がるような不思議な感覚に、思わず目を見開く。
エリちゃんが驚き、そして何か言おうと口を開いて、口元でにっこりと笑みをつくる。いつもの意地悪な笑い方じゃない、とても嬉しそうな、満足そうな微笑みだ。
「さ、じゃあ買い物に行きましょ」
言うや否や残っていたミルクティーを飲み干して、エリちゃんは立ち上がる。さっとポケットからとりだしたコンパクトミラーを私へと突きつける。
映った顔に一瞬、これは誰だろうと疑ってしまう。
「チョコ、作るわよね」
意地悪そうなエリちゃんの声が聞こえる。
小さな鏡の中には、耳まで真っ赤な私がいた。