午後1時10分・図書室 《妹》
「あ、お兄ちゃん」
本を借りて図書室を出ると、エリちゃんの横にはお兄ちゃんがいた。二年生の教室はすぐ上の階だけど、学校ではあまり顔を合わせないから珍しい。
「何かあったの?」
「違う違う、購買にパン買いに行くとこ。降りてきたら川崎さんに呼び止められてさ」
そう言う手には財布が握られている。本当に偶然みたいだった。
「明菜はもう帰りか?」
「うん。お兄ちゃんはまだかかるの?」
「ああ。たまには部活に顔出そうと思ってね」
「そうなんだ」
「あれ? 泉先輩って部活されてたんですか?」
「幽霊だけど、情報処理部にね。中学の時と同じで……ほら、菊地良介って知ってるでしょ?」
「ナンパ好きの先輩ですね」
「そうそう」
即答したエリちゃんにお兄ちゃんが噴き出す。
私もエリちゃんも、菊地さんには中学の時に数え切れないくらいデートに誘われたことがあった。どこまで本気かわからないけれど、担任の先生も口説こうとしたことがあるから中学では有名な人だった。
「あいつに連れられてさ。相変わらず、やってることといえばゲームだけどね」
お兄ちゃんは苦笑しながら腕時計に視線を落とす。
「帰りは夕方になるけど、晩御飯は鍋の材料が揃ってるから、どっか寄るなら遅くならないようにな」
「うん、わかった」
「じゃあ。川崎さんも寒いから気をつけて」
「ありがとうございます」
笑いかけたお兄ちゃんに、エリちゃんが少し遅れて頭を下げた。
「菊地さんによろしくね」
「喜びそうだから伝えないでおく」
背中に声をかけると、お兄ちゃんは片手を軽く掲げて答えた。足早に階段を降りていき、すぐに見えなくなる。
ふと振り返ると、珍しく少しぼうっとした感じのエリちゃんがぽつりとつぶやいた。
「……そういえば、泉先輩って彼女いるの?」
「え? いないと思うよ」
昔は近所のお姉さんが好きだったみたいだけど、その人に恋人ができてからはそぶりも見せなくなってしまった。それに最近も帰りは遅いけど、誰かと付き合っているようには見えない。
そこまで考えてから、質問の意味に気がつく。
「……エリちゃんが?」
覗き込むと、頬がちょっと赤く見えた。
「べ、別に変な意味じゃなくて、ちょっとした興味よ。だってほら優しいし、マメだし、結構カッコいいでしょ。だから彼女いるのかなって……」
「ふぅん」
思わず綻んでしまう口元を抑えながら見つめる。
「あ、あとほら、料理美味しいし」
「うん、それはね」
思わずため息とともに頷く。最近はあまり作らなくなったけど、お兄ちゃんの料理はとても美味しかった。私も最近お母さんから習ってるけど、それでもお兄ちゃんにはまだまだかなわないと思う。
「エリちゃんは料理できないし、結婚したら楽……いたっ」
カバンで殴られた。
「だからそうじゃないってば。私の理想は高いの」
「ふーん」
そっぽを向いてしまったエリちゃんの表情はもう元に戻っていた。本当にそうじゃないのかもしれないけど、さっきのお返しにじーっと見つめてみる。
「あら、そういうこと?」
しつこい視線の意味に気がついたのか、顔を戻したエリちゃんがふふんと鼻で笑った。
「さっき、誰か探してたでしょ」
「……な、なんのこと?」
図星をさされて思わず胸を手で押さえてしまう。
「動揺した動揺した」
エリちゃんの口元が再びいじわるモードに切り替わる。
「ち、ちがうもん」
必死に首を振って否定するけど、エリちゃん相手ではむだな努力だった。
「『正信お兄ちゃん』、は剣道場だって」
わかっていたのに、その名前にどきっとなる。顔を見られたくなくてすぐに横を向いた。
「やめてよその呼び方」
小さく非難すると、エリちゃんは気にした様子もなくぽんと肩に手を置く。
「さ、行こっか」
そして弾むような声で言って、歩き出した。
「……もう」
返事を待つこともなく、エリちゃんは階段を下りていく。今度は私が追いかける番だった。
「……ねぇ、どこ行くの?」
下駄箱まで来たと思ったら、エリちゃんは靴箱を無視してまた目の前の階段を上って行ってしまった。
隣に並んで顔を覗き込むと、すました顔で正面を見ている。
「ねぇ、エリちゃん?」
尋ねると、エリちゃんは表情を変えずに言った。
「帰る前にちょっと保健室に寄りたくなって」
嘘だ。
すぐにわかったけれど、立ち止まることもできずに後をついていく。
(どうしよう……)
一歩ごとに頭の中がぐるぐるとまわっていく。心は迷っているのに、足がどんどん校舎を進んでいく。
渡り廊下を通り、三年生の教室がある校舎に入り、階段を一階まで下りてロビーを通り抜ける。保健室のある体育棟に足を踏み入れる頃には、脈がとても速くなっているのがわかった。
薄暗い廊下を進むと、向こうの方から賑やかな声が聞こえてきた。心臓のドキドキが大きくなるのと同時に、もやもやしたものが広がるのがわかる。
角を曲がると、廊下の先に女の子たちが見えた。今日はさすがに三人だけだけど、皆、大きなガラス窓越しに目の前の部屋――剣道場を覗いている。
彼女たちの後ろまで来たところでエリちゃんが振り返り、ぽんと肩を叩いた。
「すぐ済むから、ここで待っててね」
言い置いて向かいの保健室に入っていく。閉められたドアを見つめたまま、私は動けなかった。
「……やっぱりカッコいいよねー」
「ほんとほんと」
聞きたくないのに、すぐ後ろの女の子たちの声が耳に入ってくる。
「あっ! 月代先輩だ!」
跳ねるような声に、思わず振り返りそうになった。
心を落ち着けようと深呼吸をして、振り向かないように体を硬くする。それでも声は耳に届く。
「ユッコは先輩にチョコあげるんでしょ」
「もっちろん。スズは? 渡会先輩にあげるの?」
「え、えっ? わ、わたしはどうしようかなー」
「もー、そんなこと言ってると取られちゃうよ!」
狭い廊下に声が反響して、まるで覆いかぶさってくるようだ。耳をふさいで座り込みたい気分になる。
(…………)
胸の奥のもやもやは少しずつ頭の中にも流れてきて、なんだかとても嫌な気分だった。それを押しとどめようと、コートの胸元を握りしめる。
「ユッコはもちろん手作りでしょ」
「アッタリマエでしょ。私がいつもお菓子作ってるのは、この日のためでもあるんだから。私の愛がたっぷりつまったあまーいチョコ。月代先輩喜んでくれるかしら……」
うっとりとした声音に、胸の奥がざわざわする。
(センパイは、甘いチョコなんて食べないもん!)
声が漏れないように口をキッと引き結び、心の中で叫ぶ。もちろん聞こえていない女の子たちは、そのまま喋り続けている。
黒くて、重くて、頭の中がかすむようにもわっとした感じ。自分がとても悪い人になったような、そんな気分になる。最近よく感じるようになったこの気持ちが、とても嫌だった。
(だから来たくなかったのに……)
心の中でつぶやく。でも、来たいと、会いたいと思っている自分が心の中にいるのを知っている。だから、迷ってしまう。
(はぁ……やだな)
肩を落としてため息をつく。こんな自分が嫌いになりそうだった。
「ね、渡会先輩こっち来るよ」
「えっ、どっ、どうしよう」
動揺した声のすぐあとで、ゴロゴロと大きな音が鳴った。剣道場に通じる引き戸が開いたのだ。
「おーい君たち。見学は構わないけど、練習に集中できないから少し静かにしてくれるかなぁ」
彼女たちの言葉もはっきりと聞こえていたのだろう。少し照れた声が廊下に響く。
「はーい」
「ごめんなさーい」
ちらりと視線の端で彼女たちを見ると、一番背の低い女の子以外の二人は悪びれた様子もなさそうだった。たぶんその小さい子が『スズ』さんなのだろう。すぐ近くに現れた渡会先輩に、真っ赤になってうつむいている。
ガラガラとまた音を立てて戸がしまると、女の子がふぅと息をつくのが聞こえた。
「ねぇ、もう今日は帰ろうよ……」
「えー、私もっと見てたいよー」
「あ、でもほら。ユッコだってチョコ作るんでしょ。早く帰らなきゃ」
「まあそうだけどさ……」
しぶしぶといった声で言いながら一人が歩き出し、残りの二人も後に続く。三人の話し声が遠くに消えたので振り返ると、廊下の途中にある戸が開かれた。
「あれ、もう帰ったのか。強く言い過ぎたかな」
再び顔を出した渡会先輩が、バツが悪そうに短く刈った頭をかいている。
「……あ。やあ、明菜ちゃん」
「こ、こんにちは。渡会先輩」
自然と挨拶をしたつもりなのに、なんだかぎこちない笑みになってしまったような気がする。
「そんな怯えなくても……」
先輩は少し傷ついたように苦笑いする。
「来てくれるの久しぶりだね。正信呼ぼうか?」
「い、いえっ。いいですっ!」
言いながら道場に体を戻した先輩に、慌てて断りの言葉を伝える。思ったよりも大きくなってしまった声に、もう一度顔を出した先輩が驚いた表情を浮かべていた。
「……どうしたの?」
「いえ、あの……。今日は、友達についてきただけで、すぐ帰るので」
だんだん声がしぼんでいく。
「そっか。うん、わかった」
渡会先輩は少し考えるようにしてから頷くと、道場の中に戻って行った。ゴロゴロと重い車輪の音が響き、戸がしまる。
ため息をひとつついてから、ガラス窓の方へと視線を向ける。道場の中央では、廊下のやりとりなど全く聞こえていないかのように竹刀をふるっている姿がある。
すらりと背が高くて、肩幅があって、髪は耳にかぶらないように切り揃えていて、振り上げた腕は少し長い。後ろ姿だけで、それが月代先輩だとわかる。
振り下ろした手が腰に戻され、体が軽く横を向く。横顔が見えた途端、心臓が大きく脈打った。
窓の中には渡会先輩が現れて、二人で言葉を交わしている。私は胸を押さえて後ろに下がった。廊下は暗いから、隅の方にいればきっと中からは見えないだろう。
案の定、こちらを振り向いた月代先輩はガラス窓を左から右まで眺め、それからすぐに顔を戻した。
もう一度、息をつく。
もし、目が合ったとしたら。
自分はどうするのだろう。
何も無かったかのように会釈でもするのか、それとも頭が真っ白になって何もできないのか。
(……わかんない)
たぶん、逃げだしてしまう気がする。現に、ここ数ヶ月はずっとそうだった。学年が違うし、中学の時と違って部活も一緒ではないから、会おうと思わなければ難しいことはないのだ。
「お待たせー」
背後でドアが開き、明るい声が廊下に響いた。気分を切り替えるように息をつき、振り返る。
「もー、遅いよエリちゃん。ここ寒いんだからね」
「ごめんごめん。帰りに一杯おごるからさ」
エリちゃんが軽い口調で返し、先に立って歩き出す。その後ろを追おうとして、一歩目を踏み出したところで振り返る。
ガラス窓の向こう、道場の中央で再び竹刀を振り始めた背中は、ずいぶんと遠くに見えた。