午後0時35分・1年5組教室 《妹》
「あーきな、帰ろっ」
「わぁっ」
目の前に急に現れた顔に思わず大きな声が出た。
それが友達のエリちゃんだとわかるのと同時に、教室のざわめきが耳に入ってくる。
「『わぁっ』……て、なぁにぼうっとしちゃって」
机の前にしゃがんで顔だけを出していたエリちゃんが、呆れたように笑った。
「だって、いきなり顔だすんだもん……」
唇をとがらせると、エリちゃんは「ほっ」と勢いのあるかけ声とともに立ち上がる。
「なに言ってんのよ。さっきから呼んでるのに反応しなかったのはどこの誰?」
腰に手を当てて言う顔は呆れた表情のままだ。
そんなにぼうっとしていたのだろうかと黒板の上の時計を見ると、お昼休みになってから五分がたっていた。
お弁当を出そうと机の脇にかけたカバンに手を伸ばして、はたと気づく。
「……あ、今日って半日授業だっけ」
今日から三日間は三年生が学年末テストなので、二年生と一年生の授業も半日で終わりだった。
「だから帰ろって言ってるんでしょーが」
エリちゃんが左手にさげたカバンを持ち上げる。
「授業の最後にHRも一緒にやって挨拶までしたのに、全部おぼえてないでしょ」
「う……うん」
エリちゃんの言葉に教室を見回せば、もう半分くらいは帰ってしまっているようだった。ごめんなさい先生、と心の中でつぶやく。
ちょっと考え事をしていただけのつもりなのに、随分と時間がたってしまっていたみたいだった。ちょっと恥ずかしい。
「ごめんごめん、今片付けるね」
慌てて教科書とノートをカバンにしまい、席を立つ。まだ残っている友達に挨拶をして廊下に出る。
ロッカーを開けてマフラーを取り出したところで、反対側からエリちゃんが顔を寄せてきた。
「……それで、何か考え事?」
にんまりとしている口元を見れば、何を考えているのかはすぐに想像がついた。
「べ・つ・に」
一語一語を強調して、でもできるだけ小さな声で返す。
「またまたぁ」
エリちゃんの声は聞こえないフリをしてマフラーを巻く。コートに袖を通して、ボタンを一つずつ留めていく。
「今年は、月代先輩にチョコあげるのよね?」
ボタンの穴が一個あまった。エリちゃんには悟られないように、もう一度ボタンを留め直す。
「……なんのこと?」
「あのね、バレンタイン前日に悩むことなんて他に無いでしょうが」
「……ちがうもん」
否定の言葉を口にする。もちろんチョコのことを悩んでいるのだけど、精一杯の強がりだった。
「昔は『お兄ちゃんたち大好き』って堂々と二人に渡してたのに。いつからこんな強情になったのかしらねー」
わざとらしい声に睨むと、エリちゃんは顔を明後日の方向に向けた。
「そんなの小さい頃の話でしょ」
ロッカーの鍵をしめ、そのままため息をひとつ。
幼稚園の頃に感じていた『好き』は今でも変わらない。でも、今は『好き』という言葉にもバレンタインのチョコにも、特別な意味があることを知っている。高校生にもなって、昔と同じようにはできなかった。
「義理チョコも友チョコもあるし、家族にチョコをあげるだけでしょ。そんなに気にすること無いと思うけど」
「そういうわけにはいかないの」
「意味なんて気にしなくても、泉先輩も月代先輩も喜んでくれると思うわよ?」
エリちゃんが唇を尖らせる。
お兄ちゃんが喜ぶのはわかる。それも満面の笑みだ。では、月代先輩はどんな顔をするだろう。どう思うだろう。それが想像できなくて、怖かった。
「それじゃ、私がチョコあげようかな。月代先輩に」
「……えっ」
思わず振り向くと、エリちゃんはいたずらっぽく目を細めていた。やられた、と思う間もなくその口元が笑みを作る。
「わっかりやすい反応」
「やめてよそういうの」
非難の声とともにカバンをぶつけようとすると、エリちゃんはわざとらしく大きく一歩飛びのいた。
「すぐムキになるんだから」
「そんなことっ……」
言い返そうとして、おかしそうに笑う顔に言葉を止める。このままじゃ思うつぼだ。
深呼吸を一回。
心を落ち着けて、話題を切り替える。
「……そうだ、図書室寄っていい?」
「どうぞ仰せのままに」
まだいじわるモードのままのエリちゃんを無視して廊下を歩き始める。すぐに、エリちゃんの「やれやれね」という大きな声が聞こえた。
《登場人物メモ》
泉 明菜・・・主役。
川崎 恵利・・・明菜の親友。