老いぼれた宰相に「この婚約は破棄してはならぬ」と言われるけど、知ったこっちゃないし変な祠も破壊する王太子の話。
王太子殿下は、いつだって人の話を聞かなかった。
「いいか、婚約は破棄する」
「王太子殿下、どうかお考え直しください」
「ふん、老いぼれた宰相の戯言よ。私は新しい時代を切り開くのだ」
「いけませぬ、いけませぬ。決してこの婚約を破棄してはなりません。国の伝統を、民の安寧を、聖女の幸せを――殿下は守らねばなりません」
「貴様のごとく古びた慣習、私が断ち切ってくれよう。我が覇道は、夜明けの荒野を突き進むぞ」
すがるような宰相を言葉通り切るように払い捨てた。王太子殿下の気持ちは、石碑のように少しも揺るがない。
対して私の気持ちは水面だ。小石をいくつも投げ込まれ、あちらこちらで波紋が生まれて広がっていく。ひとつ消えても、また新しい石が投げ込まれると、体に不安と震えが走った。
けれど、ひとつだけ安堵もあった。
もう、がんばらなくてもいいのだ。
「いいな? 契約通り、君の聖女としての役目も終わりだ。しかし今日まで聖女としての仕事ぶり、修練に関しては王太子として報いさせてもらう。望みの報酬を言ってみろ」
聖女になるため、わたしはずっと長く辛い修行を積んできた。聖女に課せられた思い務めを果たしてきた。身も心も限界だった。見合った報酬はなんだろうか。自分のすり切れた両手を見つめる。
祈祷による治癒は、聖女にできる神の御業とされているが、才能のないわたしには、どれだけ努力してもままならなかった。
それでも、国民の、王家の、そして王太子殿下の期待に応えようと、わたしは死に物狂いで今日まで訓練してきた。そんな日々から解放される。そう思うと、ぽっかりと胸が開く。明日からは、もう辛い思いをする必要もない。がんばらなくていい。十分だった。
「……いえ、報酬なんて、そんな」
「慎ましさは美徳であるが、王族として相応の対価は与えねばならない」
「申し訳ありません」
「ふん、どうせ地方にでも移り住んで退屈に過ごすのだろう。困らぬよう取り計らってやる」
「……ありがとうございます」
「私もささやかだがこれまでの君には感謝しているのだ。これからも続く私の偉功に、君もわずかながら貢献していると思ってくれていい。片田舎まで届け聞くその武勇も、民の平穏な暮らしも、私からの報酬だな」
王太子殿下は、もうわたしの顔も見ていなかった。退屈で、地味で、聖女の修行ばかりで女としての魅力も欠片とない。興味がなくて当然だった。婚約破棄のことだって。
わたしにはこうなることがわかっていた。だから王太子殿下と初めて会った日、「考え直すべきです」と申したのだ。
もう十年近く前のことだった。
わたしは偶然にも治癒の才能を見つけられ、城に連れてこられていた。王国では、治癒の力は何百万人にひとり、百年にひとり現れるとされる治癒の力を持つ人間を聖女とするしきたりがあった。
そうは言っても古いしきたり、風習みたいなもので、治癒の才能を持つ人間が見つかることは本当に希なことらしく、聖女がいない時代も多かった。ここ十数年も聖女は不在で、絶対に必要というわけでもない。
だからわたしに治癒の力があるとわかっても、城の人たちはわたしを聖女にするかどうかもめていた。
ひとつに、わたしは素性もわからぬ孤児院の子供だった。今までの聖女は貴族の生まれか、少なくともそれ相応の両親がいるものばかりだったらしい。きっとわたしような子供は、もし治癒の力があっても城の人たちに見つからず、そのままの人生を過ごしていたのだろう。
わたしの治癒の力が見つかったのも本当に偶然だった。きっと孤児の子供に治癒の力があるなんて、みんな考えたこともなかったに違いない。
治癒の力があるからといって、こんな子供を聖女にするなんて反対だという意見が出るのもわかる。わたしは勝手に連れてこられて、またあの人たちの都合で追い返されようとしていた。
「早く帰らせろ!」
隣の部屋から大きな声がして、びくりとわたしの体が震えた。怒鳴り声を聞くとそのまま震えが止まらなくなることもあったけれど、それが子供のものだったから、驚いただけで済んだ。
自分と変わらないくらいの子供の声だと思った。どうしてこんなところに子供がいるのか。城のことなんてまるで知らないわたしにはわからなかった。もしかして、わたしと同じように治癒の力のある子供だろうか。だとしたら、わたしではなくその子を聖女にするべきだ。
「お待ちください」
「ええいっ、離せ。――おいっ、聖女とやらはここにいるのか!」
大人の声と、また先ほどの子供の声。それからわたしのいる部屋のドアが乱暴に開かれた。
突然ことに戸惑ったが、それよりも子供の出で立ちに驚く。歳は同じくらいに見えたが、その外見は全くもってわたしのような子供ではなかった。
「王太子殿下、勝手はなりませぬ。向こうでおとなしくお待ちいただくようにと」
「お前が聖女か。……いや、まだ正式にではないそうだったな。聖女候補?」
子供は背丈もわたしとほとんど変わらないのに、大人の言葉を無視して、見たことのない綺麗な服を着飾って、なによりも堂々としていた。
全然、わたしと違った。
王太子殿下? この人は、この国の王子なのか。違うはずだ。なにからなにまで違う。
「おい、どうした。質問に答えられないのか? 聖女候補だろ?」
「……わ、わかりません」
「わからない? なんだ、聖女というのは自覚というものがないのか。私は生まれたときから王としての、この国を統べ、民を導くものとしての自覚と、なによりそれを実現するための才を持っているぞ」
「…………どのような才なのですか?」
今にして思えば、なんと恐れ多く不敬なことであった。しかし子供だったわたしは、純粋にどんな才能を持っていれば、そんなことができて、そんな堂々とできるのかが知りたかった。
「覚悟だよ」
子供らしからぬ答えに、わたしはきょとんと呆けることしかできなかった。
「いいか、今大人たちはお前を聖女として認めるかどうかでもめている。通例として、この国では聖女が現れれば、王太子の誰かと婚約することになっているが、国王の子は今のところひとりだけ……つまり俺ひとりということになる」
「殿下、そのような話をこのものにするのは」
「ええい、うるさいぞ。あっちへいけ! ――それでな、もめているのは、つまり俺の婚約者という、貴族たちからすれば見え透いた権力の座を、お前のような平民の、それも親もわからぬような小娘にやってなるものかということだ」
「……はぁ」
「どうした、なにか言いたいことがあるなら聞くぞ?」
わたしは首を横に振った。
「実にくだらないと思わないか。国のしきたりだかなんだか知らないが、最後に聖女と王子の婚約が結ばれたのはもう百年近く前のこと。そんなものを今更。そんなくだらないことで、治癒の才能があるものにあるべき地位を与えないというのは。第一、やつらの権力争いなどなんの価値もないというのに」
「……わたしは、地位なんて別に」
「聖女の存在は、国を照らす。国民の心のよりどころとなる。俺が王として国を統べれば、そんなものに頼る必要も直ぐなくなるとは思うが、聖女は必要だ。大半の貴族連中よりもよっぽどな」
難しい話が続いて、よくわからなかった。ただわかったのは。
「……わたしと、あなたが婚約する?」
「違うぞ、聖女候補。俺が言いたいのは、お前は婚約とは関係なく聖女に――いや、そうか。よし、婚約しよう。俺とお前のような小娘が婚約するのであれば、お前はもう誰がなんと言おうと聖女だ」
「王太子殿下っ、いったいなにをおかしなことをおっしゃっているのですか!?」
「ははははっ、よろこべ! これで無駄な会議も終わりだ」
高笑いする子供と顔を青くする大人たちがおかしく、わたしはここに来て初めて――もしかしたら、生まれてから初めて、笑ってしまった。
「お前も俺の妙案が気に入ったか! 急な婚約で思うところもあるだろうが、安心しろ。俺は間違いなくお前を幸せにしてみせる。近いうち王になる男の約束だ」
「……約束」
そうして王太子殿下は誰の反対も、誰の話も聞かずに、国王相手に聖女の必要性を説いて、わたしとの婚約を誓ってしまった。
王太子殿下の意志は硬く、また逆らえるものもいなかった。しかし、わたしの場合は違う。王太子殿下を説得できないのであればと、わたしに嫌がらせをして、城から逃げ出させようと仕向けるものたちがいた。
そんなことがなくても、治癒の力を鍛えるための訓練は過酷なもので、幼いわたしにはその初歩の初歩ですら逃げ出したくなるようなものだった。
「どうした、聖女になるのは辛いか? ……そうだろうな、才に選ばれるというのはときに足枷のようなものだ。使命を背負い、苦難に立ち向かわねばなるまい」
あのときの子供――王太子殿下と再会したのは、数日経ってからだった。
わたしが孤児院生まれだからなのか、貴族の婚約とはそういうものなのかわからないが、婚約者といっても、王太子殿下と会う機会は限られているようだった。
この日もあとあと思えば、王太子殿下が見張りをかいくぐって無理矢理わたしの部屋に忍び込んできただけだった。
「どうも、俺の見立てよりも辛そうだな。すまない、孤児院育ちと聞いていたからな。多少の厳しい修行とやらも、それと比べれば城で暮らせるのであれば差し引きで耐えられるものかと思っていた」
「……修行も辛いですが、ここの人たちは……わたしを嫌っています」
「妬まれるのも選ばれたものの宿命だ。しかし、まだ荷が重いか」
王太子殿下は、しばらく考えてから、そうだな、と手を叩いた。
「祠を建てよう」
「……祠?」
「これも、古いしきたりだ。本来であれば、聖女が見つかれば祠を建て、敬っていた。実際のところは、聖女を排出した貴族の家が、自分たちの権力を示すために使っていたのだろうが……聖女としての誓いを立て、その神聖さを認めるためのものだ」
「…………神聖さ」
聖女の存在は、治癒の力以外では証明できない。自分にある治癒の力が神聖だと思ったことはないが、少なくとも祠に証明や神聖の意味があるとは思えなかった。
「なにごとも、形からはいる必要もある」
王太子殿下は、どこからか持ってきた石材を自ら積み上げて、もちろんそれは本来祠と呼ばれるものにくらべればだいぶ慎ましやかなものではあるが――祠をつくった。城の庭の端、わたしの部屋から直ぐ近くの手入れもされないような隅の隅だった。
「ここなら、誰にも見つからないだろう」
王太子殿下の満足そうな表情に、わたしもよくわからずうなずいた。
「もう一度誓う。俺は聖女の――お前の味方で、お前の婚約者だ。しばらくは敵も苦難も多いだろうが、いつでも頼ってほしい」
王太子殿下はそう言って、しばらくわたしを見ていた。
「それから、なにか辛いことがあれば、この祠の前で祈るといい。気ぐらいは晴れるだろう」
手作りの祠になんの意味があるのかやはりわからなかったけれど、わたしは黙って祈るまねをしてみた。王太子殿下には「しきたりによれば、言葉に出した方が効果があると聞くぞ」とも言われていたが、口にするのは恥ずかしかった。
それから、わたしは毎日こっそりと祠で祈るようになった。
口に出して願いを言うことはなかったけれど、王太子殿下の言葉通り祠の前で黙って祈っていると気持ちが楽になる。
ただいつでも頼れと言った王太子殿下と顔を合わせる機会はそれからも多くはなかった。早くとも十日に一度ほど、数ヶ月に一度というときもある。
辛いことは毎日あるのに、そんな相手にいつ頼ればいいのか。
しかし、わたしのような人間をかまう時間がないのは当然だ。なにより、実際にもわたしの心労は減っていった。
「場違いな小娘と思ったが……なるほど、見込みはあるようだのう」
わたしが聖女と言うことに、最初に大きく反対していた宰相が態度を変え始めた。
きっかけは、偶然知った宰相の腰痛を治癒したことだ。それから私の日々の鍛錬を宰相が認めて、周囲からの扱いもだいぶよくなった。
初めはわたしを得体の知れない子供と恐れていた侍女たちや、城で働く衛士たちも、だんだんと私を受け入れていってくれた。
治癒の力も順調に鍛えられていた。わたしは、聖女になれているのだろうか。
そんな生活がまた一変したのは、数ヶ月前だった。
偶然にも城で王太子殿下を見つけた。自分の部屋と城内にある教会を往き来するだけのわたしが、王太子殿下を見かけるのは本当に珍しいことで、今でも王太子殿下と話せるのは月に一度あるかどうかだった。
子供だった王太子殿下は、すっかりと青年になっていた。気品のある綺麗な顔に、まるでつくりもののようだと感じてしまう。歳だけはわたしも同じように重ねているけれど、会ったころから変わらずにわたしと王太子殿下はなにからなにまで違うままだった。
「王太子殿下、待ってください。わたくしのお話を聞いていましたか?」
「公爵令嬢殿。申し訳ないが、耳から耳へと抜けていってしまいました」
「もう、またですか」
横を歩いていた女性がなにか言って、王太子殿下はそれに返し、また女性が答えて笑っていた。
かつかつと音を立てて、二人はどこかへ移動していく。わたしは見つからないように隠れて、二人の背を見送った。
一緒にいた女性は、公爵令嬢と呼ばれていた。若い女性で――つまり、王太子殿下や私とさほど歳も変わらないように見えて、なにより綺麗な人だった。
王太子殿下と並んでもなんの違和感もなかった。
わたしはその夜も祠で祈った。最近はずいぶんと慣れてきていた聖女としての鍛錬の疲れが、今日はいつもより重かった。
だから次の日、合間の時間にまた城内を出歩いてしまった。王太子殿下を偶然見つけると、横には昨日の女性がいた。なにか話していた。
「なんの話だったかな? 公爵令嬢殿、申し訳ないが、王太子としてやるべきことが立て込んでおりましてね」
王太子殿下がなにかを言いながら笑っていた。公爵令嬢もだ。冗談を言いあうほど親しい仲なのだろうか。
わたしがこの前に王太子殿下と話したのは、いつだったろうか。二人はいつものように一緒なのだろうか。
考えないようにした。わたしにはわたしのやるべきことがある。聖女として、はやく一人前になる必要があった。国のため、民のため、王太子殿下のため。
毎日また、辛く苦しい修練を積む。
今まで耐えてきたのだから、これからも同じはずだ。国のため、民のため、王太子殿下のため。
王太子殿下は、わたしを聖女にするため婚約した。
だから、わたしは聖女にならなくてはならない。
もしそうでなければ、王太子殿下はもっとわたしなんかではなく、公爵令嬢のように綺麗でふさわしい相手と婚約できていたのだ。
わたしは聖女にならなくてはならない。
そうでなくては、婚約の意味がないのだ。
婚約がなければ、私は聖女にはなれなかった。わたしが聖女にならなければ、婚約はなかった。
国のため、民のため、王太子殿下のため。
「……なりたくないです。聖女になんて……婚約なんて……もう……嫌……」
ある晩に、ついに祠の前で声を出して泣いてしまった。
こんなことは初めてだった。
それから数日後に、王太子殿下は婚約破棄を決めてしまった。
祠の前で初めて声に出して願ったことがまさか叶ってしまうなんて。いや、王太子殿下の気が変わったのは偶然で、本当の理由が公爵令嬢なのだろうとも察しがついたけれど、わたしはそう思った。
だから王太子殿下の婚約破棄にも、なにも言えなかった。
代わりに宰相が反対してくれた。最初は、一番わたしを認めていなかった宰相が、王太子殿下に考え直すよう言ってくれる。
けれど、王太子殿下は誰の話も聞かない。わたしがなにか言ったところで、王太子殿下は一度決めた事を変えるなんてしなかっただろう。
「あとのことは近日中に手配する。あとは部屋で自由に過ごせ」
王太子殿下はそう言って、部屋を出て行こうとした。宰相が止めても、脚は止まらない。
「……待って、ください」
「どうした?」
脚は止まったが、王太子殿下は振り返らなかった。元婚約者への情けとしては寛大なものだろうか。もう少しだけ、王太子殿下と一緒にいたい。そう思っても、わたしから出てくる言葉はほとんどなかった。しぼりだして、
「あの祠は……誓いの祠は、どうなされるのですか」
と、どうでもいいことを言ってしまった。王太子殿下は、もう祠のことなんて覚えていないだろう。しかし、以外にも王太子殿下は覚えていた。
「祠? ……あれはもう必要ないだろう。ふん、最初から古いしきたりで、意味なんてなかったのだからな。さっさと壊すべきだ」
「壊す……」
「ああ。よし、今から壊して、綺麗に清算しよう。これですべて終わりだ」
後悔する。もし口に出さなければ、祠はわたしがここから追い出されたあとも残ったかも知れない。王太子殿下がいつか、これを見つけてわたしを思い出すことがあったかも知れない。そんな未練がましいことを思うのも、また聖女として間違っているだろう。
もういい。わたしは聖女でなくなる。婚約者でもない。
王太子殿下はどこからか鈍器を持ち出すと、そのまま本当に祠へと向かった。
「……最後に、もう一度祈っていいでしょうか?」
わたしはお別れを告げようと思った。祠と、王太子殿下に。
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「……私も最後だからな」
驚いたことに、王太子殿下もわたしの横に並んで、膝をついて祈ってくれる。良い思い出だ。これからの生活について、願うべきだろうか。王太子殿下が言っていたように、きっとよいようにしてくれるのだろう。それならば、生活についてはもう考えなくてもよいか。
王太子殿下のことを祈ろうと決める。
王太子殿下のこれからを。
頭がくらりとした。祠がなにか光ったような気がした。
脳裏に、王太子殿下の姿が浮かんだ。
顔を見ると今よりだいぶ成長しているようだった。公務用の部屋でひとり書類を片付けているようだった。ノックの音がして、「宰相か、入れ」と王太子殿下が言う。
部屋に入ってきたのは、わたしの知っている宰相ではなかった。記憶の片隅にあった宰相の息子と顔が一致する。なにかがあったのか。そもそもこの光景はなんなのか。
宰相は――わたしに取っては宰相の息子であるが――、苦々しい顔で王太子殿下に言う。「王太子殿下、そろそろお考えは変わりましたか」「執務中だ」「けっこうなことですが、こちらも重要事項になります」眉間にしわを寄せる王太子殿下に、宰相はなおも食い下がる。
「婚姻なさってください。王太子殿下には世継ぎが必要です」
「婚約破棄したばかりだ。直ぐに次など考えられんよ」
「もう五年も前のことです」
婚約破棄から五年。
これは未来の王太子殿下の姿なのか。
「それほど後悔なされているのらば、なぜ破棄されたのですか」
「……王は孤独だ」
「はぁ、話を聞いてくだらない」
「そうだな。話も聞かずにした婚約だった。私と……王太子殿下の婚約、受け入れてもらえるとばかり思っていた。誰より幸せにできる自信も覚悟もあった」
「……それとこれとは別じゃないですか? 婚約を申し込むのに話も聞かないのは……さすがに……」
「まさか、泣かれるほどとはな。聖女にも無理矢理させてしまった」
「次は希望者を募って、そこから王太子殿下には婚約者を選んでいただきますので」
「……王は孤独だ」
「またその状態に……加えて申しますが、陛下は存命で王妃様とも仲むつまじくあられます」
五年とは思えないほど老け込み、疲れた王太子殿下の表情がわたしの脳裏に残したまま、気づけば意識が戻っていた。
祠の前で、わたしは祈り姿でいる。今見た――浮かんだものはいったい。
「な、なぜ結婚しない!」
急に、隣で祈っていた王太子殿下が声を上げた。
「なぜとは……それは、王太子殿下が婚約破棄を……」
「違う! 君が田舎に移り住んだあとの話だ! どう見てもあの酒場の若店主は君のことを好いていたし、大工の息子だって、町医者に至ってはあんな情熱的な告白までしていたぞ!」
「だ、誰ですかその人たちは……知りません……」
「なっ……そ、そうか。いや、すまない、白昼夢でも見ていたらしい」
王太子殿下は人の話を聞かないばかりか、突拍子もないことを話すことも多い。
しかし、もしかすると。
「……王太子殿下は、わたしの将来を祈ってくださったのでしょうか?」
「そうだな。……元婚約者としての手向けというやつだ。これかももしなにかあれば連絡を寄こせ。いつでも話を聞いてやろう」
「王太子殿下は人の話なんて――」
聞かないではないですか、と笑って別れようと思っていた。
けれども、もし先ほどの脳裏に浮かんだことが本当に五年先のことだったのなら。王太子殿下もわたしと同じように祈って、五年先のわたしを見ていたのなら。
そして、はたと気づく。
王太子殿下はいつだって人の話を聞かない。
けれど、それはわたしにもそうだったろうか。
「……王太子殿下、もしかしてわたしの話を聞いてくださるのですか?」
「当然だ。いつも言っているだろう」
わたしは、王太子殿下になにを話してきただろうか。いや、話していない。大事なことはなにも、思いの丈はなにも。
「……本当に申し訳ありません。遅くなってしまいました。もう手遅れかもしれませんが、聞いてもらえませんか」
「ああ、聞こう。君の話ならな。……しかし、やっとだな。君がこの祠の前で気持ちを打ち明けてから、いつ直接言われるのかと」
「祠の前?」
「数日前、この祠の前で……いや、このことはもういい」
「王太子殿下! お願いです、教えてください」
数日前の祠。思い当たることはひとつだ。しかしあれは、わたしひとりが胸の苦しみから逃れようとして思いにもないことを口にしてしまった夜。
「この祠は、君がなにか悩みや不満を抱えたときに、それを聞くためにつくった。直接聞こうとすると、遠慮があるだろうと思ったからな。自然と聞き出すために」
「……聞くためとは、王太子殿下はどのようにしてそれを」
「実は、この祠の裏には人が隠れられる空間がある。毎夜ではないが、なるべく君が祈りにくるときは隠れていたんだが」
「で、では、あの夜のことをっ」
思い悩んだ気持ちを、弱い心を王太子殿下に聞かれていたというのか。
多忙な身の上の王太子殿下が、夜な夜なこのような場所に隠れていたと言うことも大変驚愕の事実ではあるが。しかも、あれから十年近く。
「……王太子殿下、あれは違うのです!」
「しかしな、ほとんど黙祷では意味がなかったな」
「それは、その、余程でなければ声をだすことは、周囲に人がいないとしても照れもあります。ではなくて、あの夜の祈りは――」
「そうか、ではやはりあの願いは余程の強い願いと」
「で、ですから、違うのです! あれはわたしが勝手に――、ではなくて、わたしは」
「わかった。わかった。落ち着け、話は聞くと言っているだろ」
「いいえ、これは直ぐに訂正が必要なことです。ですが……その……」
言葉に出そうとして、急に怖じけづいた。
今更、わたしが本当の気持ちを言葉にして、なんになろうというのか。聖女が嫌だと、婚約が嫌だと、あの言葉が嘘であったと伝えて、なんになるというのか。
「大丈夫だ。君の話はどんなものだって聞く。……たしかに、私はあまり人の話を聞かない方だが、君の言葉は別だ」
「……そ、それは」
「……まあ、なんだ。今となっては迷惑だろうが、私は聖女とは関係なしに君のことがどうも気に入っていたらしくてな。一目惚れというやつだったかもしれんが。いや、まあ忘れてくれ」
「……わたしは王太子殿下と違って、ちゃんと聞いていますし、忘れません」
「待て、だから私も君の話は――」
「わたしもっ、わたしもです! 王太子殿下のことを気に入って……一目惚れではなかったですが、その婚約は、本当は嫌ではなく、聖女のことも――」
そこまで言って、口を塞がれてしまった。
やはり王太子殿下は人の話を聞かないじゃないか、なんて野暮なことは、王太子殿下の唇に顔を火照らすわたしも思わなかった。
「一目惚れではなかったか……」
「は、初恋ではありますよ?」
「すまない、野暮なことを……」
「いいんです。わたしもきっと野暮なことを言います。あの美人の公爵令嬢殿のこととか」
「……公爵令嬢?」
これからは、少しくらい余計なこともお互い口にしていこう。王太子殿下はきっと聞いてくれるから。
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