閾値
2025年4月3日 9:30 北京
張は北京に居た。相変わらず中央軍事委員会は、上海と北京の通信を認めていなかったからだ。
おまけに1日に3回は、北京市内で居場所を変更しているらしかった。
中央軍事委員会は、本土の空軍基地を攻撃されたことへの報復として、北朝鮮に押し付けていた在日米軍基地およびグアムに対する弾道弾攻撃を実行することを命じていた。
それだけならば、北京から連絡士官を寄越せば事足りる話だったが、張にも中央軍事員会に用があったのだ。
既に想定外の損害が出ている。軍だけで無く特に、宇宙空間の資産を利用した通信サービスがブラックアウトしたため、位置情報サービスや衛星電話が一切使用出来なくなるなど、民間にも影響が出ていた。
戦況は中央軍事委員会が当初思い描いていたような、楽観的な展開からは程遠く、張は委員会から詰問され続けた。
張は知らなかったが、戦略支援部隊の誰かが先走って、グアム沖の海戦の戦況がはっきりしない段階で「ニミッツ撃沈」というフェイクニュースをCG付で流したらしかった。
当初は世界に衝撃を与え、欧米と日台の親中・親露派を歓喜させたが、精緻なCGにもかかわらず、民間によるOSINT活動の結果、画像はCGであることがあっさり証明された。
逆に中国が手塩にかけて建造してきた機動艦隊が、壊滅したらしいことが徐々に明らかになりつつあり、中国はこの件で面子を潰され恰好だった。
第3次台湾海峡危機の屈辱を晴らしたと、中国民間レベルでの歓喜の輪は広まりつつあったが、追いかけるように誤報であるとの情報も広まりつつあった。
張はこの件における顛末の説明までも求められた。
(知らないよ。そんなこと)
というのが張の本音だったが、もちろん口に出さなかった。
委員のうち数人は顔色が青ざめていた。実際の戦況がどんなものか、その顔を見れば分かる。しばらく詰問されたが、張は大人しく適当に釈明を続けた。
肝心の国家主席は、割と不満そうでも無いように見える。
一通り委員に喋らせておいてから、張はようやく発言の機会を得た。
「軍は党と人民の期待に応えるため、一層の努力を致します。さらなる犠牲も覚悟しています。予定通りに台湾本島への上陸は行いますが・・・。」
やや言葉を濁す。
「上陸をより確実に行うために、金門島、馬祖島、澎湖島の3つの島を、早期に制圧する必要があります。
・・このためにも金門島他の地下陣地に対して、化学兵器を使用することをご許可願います。
また万一、化学兵器が隣接する泉州等の市街地に漏れる事態に備え、沿岸部に居住する人民の一時避難を命じて頂きたいのです。」
会議室がさすがにざわつく。化学兵器の使用が米軍に知られたら、事態のエスカレーションをコントロール出来なくなる危険があった。
国家主席が口を開いた。そういえば、彼自身の言葉を直接聞くのは、久しぶりな気がした。
「よろしいでしょう。ただし、迅速、確実に勝利を実現してください。化学兵器の使用は、住民の避難完了を待つ必要はありません。」
化学兵器使用は石中将からの要請だった。中央軍事委員会に化学兵器使用に許可を得るために、わざわざ張は北京にやってきたのだ。それが張の本音だった。
そうでなければ、今更意味の無い中央軍事委員会の小言を聞くために、北京に出向いたりしない。
ただ、張にはあっさりと化学兵器使用の許可が下りた割には、相変わらず胡から要請のあった、空軍の戦力移動の要請だけが却下されたのが不可解に思われた。
時間が惜しかったので、北京からヘリで移動しながら指揮と連絡を続けている。
「石中将。貴官の要請は通ったぞ。責任は私がとるから、遠慮なくやるといい。」
秘匿回線を切った張は、ヘリの爆音の中でため息をついた。
(これで戦争犯罪者だ。最悪の場合に、西側に亡命することも難しくなったな。)
張は日本国内での破壊活動をさほど活発に命じていなかった。
浜名湖橋の破壊だけが、殆ど唯一の戦果と言える程だったが、張の目論見では実力行使はその程度で十分だったのだ。
その代わりに、参謀本部3部時代のかつての部下達は、フェイクニュースやデマを日本のネット空間に大量に投下していた。
具体的には、
・日本の空港に多数の爆弾が仕掛けられている
・日本近海に中国の潜水艦が、水中発射式の対空ミサイルを搭載して進入しており、日本着陸しようとする民間機も、巻き添えで攻撃される危険がある。
・中国側の潜水艦が日本のあらゆる航路に機雷を散布したため、船舶の航行も危険。
・新幹線、在来線、主要な幹線道路は浜名胡橋に続いて爆破される危険がある。
というような内容だった。浜名湖橋が破壊され、東名高速は通行不能になっているという現実が、これらの情報にある程度の信ぴょう性を与えていた。
日本側のサイバー戦部隊をはじめ、民間有志もこの欺瞞情報の火消しに努力したが、いわゆる「逆張り」の人間達は、大喜びで中国側の意図通りに情報を拡散していった。
こうなってしまっては、主要な航空、鉄道、運送業者が情報の混乱が落ち着き、安全を確信できるまでは運航を差し控える判断を下してしまったのも無理は無い。
最初に大手1社が判断を表明すると、あらゆる規模の業者が追随した。
政府は自衛隊と警察の爆発物対策部隊を総動員し、首都圏の交通インフラから優先して安全確認を進めていたが、どの程度の時間が必要になるのか見当もつかない。
そう、張はハイブリッド戦により、現実には浜名湖橋を破壊しただけで、日本経済の動脈を停止させることに成功してしまったのだ。
無論、時間の経過と共に効果は急激に薄れるだろう。
だが、長征作戦の初動において、日本の物流と民間人の心理を大混乱に陥れることにより、日本の市民生活を突然の物資欠乏に叩き落とし、日本の世論を動揺させるには十分だった。
一方で弾道弾攻撃を含め、日本本土に対する軍事施設以外のインフラ攻撃計画には張は消極的だった。
別に人道的な考えからではない。
直接攻撃を行うことで民間人に犠牲者が多発すると、おそらく日本人はかえって肚が座って、積極的に反撃して来ると考えていたからだ。
沖縄の現状は伝わらないように工作しつつ、犠牲は米軍と自衛隊周辺に留め、日本人の「生活」が苦しくなるように仕向ければ、日本のマスコミは喜んで「生活苦」を叫んでくれるだろう。
中国の人民も、日本国民も生活が苦しくなれば、政府を支持しなくなるのは同じなのだ。
張が意図して引き起こした市民生活の混乱は、消費税とやらが数十%も上昇したかのような、不満と不安を日本人の間に引き起こすはずだ。
上手くいけば、「生活を守るため」政府と米軍に、停戦を促す世論を形成すらできるかもしれない。
だが、沖縄で民間人の犠牲者が多数発生している現実が伝われば、日本の世論は逆に激昂して、中国に対して強硬な物になりかねない。
しかし、今のところ日本のマスコミは、中国の期待通りに動いてくれているようだ。
爆撃や弾道弾攻撃が収まっても、現場へ駆けつけようとするTV局はあまり居ない。
自衛隊の緊急展開を批判していたようなマスコミも、本当に実戦が始まったら姿をくらましていた。
現場に赴く取材班の人命を最優先にせざるを得ないから、当然ではあったが。
このため大手TV局のチャンネルでは、開戦直後の那覇空港の被害を最後に、沖縄の現状は断片的にしか報道されていない。
代わりに大都市の、生鮮品の商品棚が空になったスーパーやコンビニの風景ばかり流していた。
だが、外国のマスコミやフリーランスのジャーナリストまでは制御できない。世界中の戦場を巡ってきた彼等は、全世界に沖縄の現状を報道するだろう。
それに民間人がネット空間に投稿する動画も制御不可能だ。
張はかつての部下達が、そうなる前に可能な限り、日本の世論を混乱させることに期待をかけていた。
(だが、それにしても・・・。)
ヘリの中で張は思う。
(日本の政治家は意外に早く、中国本土への攻撃を決断してきたな。
もっとためらうものだと予想していたが。
自分ですら意外だったのだから、日本の政治家を舐め切っている中央軍事員会のお歴々にとっては、いじめられっ子に殴られたような不快感だろうな。
日本の政治家は「話し合い」を求めることも、いつものように「慎重に事態を見極める」こともしなかった。自分が北京に呼び出されて、八つ当たりされるわけだ。)
張は戦争のエスカレートを招きかねない、米軍による中国本土の航空基地への攻撃が、あっさりと実行されたことについて考えていた。
それに対する中国側の報復攻撃の対象は当然、今は抑制している沖縄以外の日本本土ということになる。
それ故、米軍といえど、さすがに日本に対して何の相談も無く攻撃を実行すれば、日米関係に悪影響が生じるはずだ。
だが、だからと言って米側が相談したところで、日本政府はいつものように迅速な決断ができないか、慎重な態度を示して時間を無駄にする。・・・そのはずだった。
だが、実際には即座に実行された敵の中国本土への反撃によって、中国側の航空作戦が大きく狂わされる展開になっている。
日本自身の「反撃能力」の整備は未だ途上にあったものの、米軍による中国本土の軍事施設に対する反撃に、日本政府はあっさりと同意したらしかった。
つまり、弱腰のはずの日本政府は、日本本土への更なる報復攻撃への覚悟をも固めていたことになる。
張は知らなかったが、彼の疑問に対する回答は、実は1週間前には出ていた。
自衛隊に対する緊急展開が決定された時、中国の侵攻が現実になった場合の日本と世界経済および、
国民生活に及ぶ影響についてのレポートが、国家安全保障会議メンバーに提出されていた。
経済産業省が主導して作成したものだった。
そのレポートによれば、戦争の規模、期間、展開のケースによって、影響の度合いは様々だった。
共通しているのは、事態が長期化すればするほど、当然ながら世界規模のサプライチェーン、日本の輸出入への影響も長期かつ、深刻化するという結論が出ていたことだった。
当然ながら事態の長期化に比例して、日本の経済活動と国民生活に対する影響も、長期かつ深刻なものになっていくだろうと予測されていた。
レポートの概略と数字を眺めた出席者達は青ざめた。そしてその内容は、与党の重鎮達にも伝わったのだ。
事態の抑止、平和的解決に失敗した時点で、首相の引責辞任、内閣総辞職という事態は避けられないだろう。
だが彼等は、さらにこのレポートの、最悪パターンのシナリオが現実となった場合を想像したのだ。(その後での総選挙で果たして我々は勝てるだろうか?)
口に出しはしなかったが与党の政治家達は、要は自分の議席の心配をしていたのだ。
首相の巻き添えは御免こうむる。
そのためには、本当に戦争になった場合には、一刻も早く国民が納得する形で終わらせる必要がある。
しかし、初動で中途半端な対応をしてしまえば、早期解決の可能性は遠のいていくだろう。
つまり一言で言うなら、自衛隊と米軍に「自分の議席を守るため、さっさと勝ってくれ」ということだった。
このため、米軍がダークイーグルやトマホークを持ち込んで、日本本土から中国本土への反撃案の説明と同意を求めてきた時、日本の側の主な政治家の回答は既に決まっていたのだ。
彼らの決断が万一裏目に出て、被害が拡大した場合の責任は、首相と防衛大臣に押し付ければ良い。
上海の司令部に戻った張は、指揮所のモニター見回した。
モニターの一部が、CNNのニュースを映している。アメリカは衛星を利用したサービスから中国を次々と締め出していたが、ニュースの視聴は放置していた。
中国側にとっては都合の悪い情報だらけで、人民の視聴は厳禁になっていたが、軍もその内容をモニターしている。
ちょうど沖縄に入っていたクルーが撮影した映像を流していた。
一瞬だけ、張はその内容に目をやる。
破壊されたマンションと、民間人も混じっての救助活動。誤爆されたシェルターと、路上に並べられた犠牲者。悲嘆にくれる遺族。
それで充分だった。
(まずいな。報道が速い。こんなものをこの調子で流されては本当にまずい。
これを見た日本人は、事態を「他人事」とは考えなくなってしまうだろう。連中の意識が閾値を超えて、結束と戦意が生まれてしまうじゃないか。
一度連中の戦意に火が付くと厄介だ。
かつて米軍がやったように、無差別攻撃と飢餓作戦を遠慮なく行いでもしない限り、屈服させられない。そしてそんな方法は・・わが国には核兵器の使用しか無い。)




