10年後の入学式
2035年4月9日 07:00 東京
暖かな春の朝だった。
今年52歳の八木真紀子には、今日から中学生になる娘がいる。
これから晴れの入学式を迎えるというわけで、今朝の彼女はいつもより早めに起きて、入学式の準備を進めていた。
とはいっても、娘は身支度は自分で整えていたから真紀子の追加タスクは自分自身の準備と、いつもより少し豪華な朝食を作るくらいだ。
台所で朝食を作る手を動かしながら、彼女はある思いにとらわれつつあった。
(あれから10年もたってしまった。)
過去1か月、彼女はテレビもネットも出来るだけ見ないようにしている。
その期間はどうしても、10年前に起きた大事件についての特番や情報に触れることになるからだ。
彼女にとってそれは大きな苦痛を伴うことなのだった。
10年前の事件では多くの犠牲者が生じており、真紀子はその犠牲の一部に間接的とは言え責任を負う形になってしまっていたのだ。故に、極力思い出さないようにしていた。だが。
朝食を食べ始めるなり、娘に心配される。
「どうしたの?お母さん?元気無いよ?」
「え?ああ、そうかしら?」
「まあ、仕方ないよね。この時期暗くなっちゃうのはお互い様だし。私は小さかったから、あんまり覚えてないけど」
「気を使わせてごめんね。ご飯どう?」
「うん!おいしいよ!」
娘は明るく答えると好物のベーコンエッグに手を付ける。
朝食を食べ終えると娘が提案をしてきた。
「ね!入学式が終わったら、ファミレスでお昼にしない?」
「あら、ファミレスでいいの?お祝いで、もう少しお高い所でもいいわよ?」
「え!そうなの!?どこがいいかなあ?ちょっと考えとくね。ごちそうさま!」
真紀子は食器を片づけてダイニングを出ていく娘の姿を見送る。
真紀子の娘、里奈は養子で血のつながりは無い。
ちょうど10年前に起きた事件、いや戦争で真紀子の本当の娘である花は亡くなっていた。当時はまだ2歳だった里奈は、同じく両親を含めた家族全員を失っている。(寝たきりだった高齢の家族がまだ生存していたが直後に施設で亡くなった)
双方の10周忌を先日終えたばかりだ。
朝食の洗い物を終え、着替えと化粧のために自室に戻った真紀子は本棚を開ける。
彼女達母子には、つらい記憶に繋がる本が多数入っており里奈の目には入らないように工夫していた。
里奈はまだ2歳だったはずなのに、潜在意識レベルで戦争の記憶を覚えているからだ。
本棚から一冊を手に取った。
「写真で見る 沖縄・台湾侵攻」
あの戦争の原因と経過について、一時期真紀子は熱心に研究したことがあった。
なぜ花が死ぬことになり、また罪を犯すことになったのか知りたかったからだ。
そう、彼女にとっての本当の娘、花は単純な犠牲者では無い。敵の侵攻に加担する行為を働いた末に死亡してしまっていた。
なぜそのようなことになったのか?その顛末について真紀子は何冊も本を読んだりインターネットで調べもした。
ある程度理解はしたつもりだが、結局どれほど調べたところで彼女の娘が生き返ることは無いし、犯してしまった罪も消えはしなかった。
むしろ調べれば調べるほど、花と彼女が所属していた組織を非難する論調を目にすることになり、真紀子はある時期からは調べることが耐え難い苦痛となって止めている。
それからは自分に出来る償い。すなわち花のせいで家族を失った里奈を守り育てることに集中する人生だった。
それでも考えてしまう。
花がまだ生きていれば今年で29歳。もしかしたら孫が生まれていたかもしれない。
本棚の上には写真立てがある。18歳の花と41歳の自分が並んで、笑顔で映っていた。
11年前のこの時期、真紀子は花の大学入学に伴う引っ越しの手伝いに沖縄に訪れていた。その時に撮ったものだった。
真紀子は写真を見つめて思う。
どうして花だったのだろう。あの時どうすれば花の行動を止めて死なせずに済んだだろう。
何故、あんな戦争が起きてしまったのだろう。
今日は里奈の晴れの入学式なのに、そんなことばかり考えてしまう自分が嫌だった。
窓の外を見つめる。
青空と遅咲きの桜が見えた。多くの人にとっては晴々とした気分を誘うに違いない景色。10年前までは真紀子にとってもそうだった。だが、今は悲しい記憶を呼び起こす景色になっている。
考えないようにと思っても、彼女の意識は舞い散る桜に誘われるように、10年前の戦争の記憶を呼び起こしていく。
その戦争は日本では一般的に「沖縄・台湾侵攻」。中国では「台湾・沖縄解放戦争」と呼ばれている。