溶接棒を買いに行くお話
◆1
「すみません、高鳥さん、これって何て読むんでしょうか?」
「ちょっと待ってねー。えーと『じくつきといし』だね。軸付きの砥石。包丁とかを砥ぐあの砥石よ」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
伝票を打ち込みながら、私、黒川恋子は、心の中で首をかしげた。いったい何に使うんだろう、これ。
私が今月から働き始めた西山工業所は、小さな町工場だ。プラスチック製品やゴムパッキンなど、小さいながらにニッチな製品を幅広く作っている。事務職員のお仕事として伝票処理なんて一般的なものだけど、流れてくる品名は、まったく一般的ではなかった。
以前、先輩職員の高鳥さんに相談したときには「慣れよ慣れ。私だってコンバム?だとかインシュロック?だとか、どんな形かも知らないで打ち込んでるんだもん」といった回答をもらっている。どうやらあまり考えず、機械的に入力するのがコツらしい。
その日も私は、ひたすら伝票と製品の在庫チェックに追われていた。やっとのことでお昼御飯までたどり着き、冷めかけのお茶をゆっくりとすすっていると、下田さんが事務所にやってきた。
下田さんは60手前の男性だ。年齢の割に頭髪が元気で、しゃべり方もダンディーだ。古株のメンバーの中でも特に器用で、ちょっとしたものなら何でも自分で作ってしまう。工場内の何でも屋さんといった立ち位置だ。
作るだけなら他にも作れる人はいるが、下田のすごいところは几帳面さだ。仕上げの丁寧さならだれにも負けない。一番最近では、郵便受けが壊れかけていたので相談したら、まるっと新しいものを作ってくれた。
普段は工作室にこもっていることが多く、こんな時間に事務所に顔を出すのは珍しい。
「あら下田さん、どうしました?」
「いやあ、溶接棒を切らしちゃってさ。ちょっと買ってきてくれないかな」
「ようせつ、ぼう、ですか?」
日本語としては理解できたが、何に使うのか(おそらく溶接だろうけど)、どんなものなのか、想像もできなかった。
「ええと、そのー」
「ああ、ごめん、もしかして忙しいのかな」
「いえ、そうじゃなくて。買いに行ってあげたいんですけど、私、ようせつぼうっていうのがどんなものかわからないんです。すみません」
「知らないの? 隣のパン屋の裏に、自販機があるんだけど」
「え、自販機、ですか……? 初めて聞きました」
ますますわからなくなった。自動販売機で売っていると言われて、缶コーヒーの横に鉄の棒が並んでいるのを想像してみたが、いまいちイメージがわかない。
「ちょうどいいじゃない。これも経験ってことで、行ってきなさいよ」
そう言ったのは、先輩の高鳥さんだった。高鳥さんは、ソリティアの画面から目を離さずに、ちゃちゃっと下田さんと話をまとめてしまった。
「じゃよろしくね、溶接棒3本ほど。お金は後で渡すから」
「あ、はい」
新人である私に選択肢はない。結局、午後一番でお使いに出かけることになった。
◆2
隣のパン屋さんは、どうも定期的にころころとテナントが入れ替わっているらしい。一つ前はラーメン屋で、その前は焼き肉屋。いろいろ変わるけれど、大抵が料理屋だ。ランチタイムを過ぎた今も、いい匂いが漂ってきている。
今はおなかがいっぱいだけど、これがお昼前だったらと考えると、ぞっとする。パンならまだ買って帰れるからいいが、焼き肉だったらと思うと。
そんなことを考えながら歩いていると、すぐにパン屋さんについた。言われた通り駐車場の端を見ると、確かにいくつかの自動販売機が並んでいた。二つは飲料用の普通のものだが、一番右に、薄汚れた見慣れぬ自販機がある。
その自動販売機は通常のものより一回り大きく、妙な威圧感があった。ラベル部分には、いくつもの金属棒の写真が並んでいる。どれもただの鉄の棒に見えるが、きっとこれが溶接棒なのだろう。わかりやすい商品名はついておらず、BとかGとかアルファベットと数字が並んでいるだけだ。
それぞれ微妙に太かったり長さに差があったりするのだが、それがどれほどの意味を持つのか、私にはさっぱりわからなかった。
下田さんのくれたメモを確認して、商品を探す。
「えーと、アーク溶接棒を、3本。Zの……、44、っと」
お目当ての製品は、左から二番目だ。ボタンは黒く薄汚れている。きっと、そこそこ買う人が多い人気商品なのだろう。こんな鉄棒のどこが人気ポイントかなんてわからないが、とにかくこれで間違いはないはずだ。
1本200円を、3本ほど。しわのある千円札を苦労して突っ込むと、『Z-44』と書かれたボタンを軽く押す。
ガラン、グアン、とけっこうな音とともに、一本の金属棒が落ちてきた。
「へえ、思ってたより細長いけど、けっこうずっしりしてるんだ」
実物を手にしてわかったのだが、ラベルにあった写真は、どうやらかなり縮小されているようだ。確かにこの長さの見本をすべて実物大にしてしまうと、枠に入りきらないだろう。
何となく黒っぽい色を想像していたのだが、出てきた棒は、鈍い銀色に光っていた。表面はざらざらしていて、まるでポッキーのように、片方の先が細くなっている。
どう持つのが正解なのかわからないけれど、なんとなくで細い端っこを手に持ち、ぷらぷらと揺らしてみた。
子供のころ、祖父母のうちでやった花火を思い出した。スーパーで売っていた、いろんな種類が詰めあわされているやつだ。あの花火たちもこんな形で、持ち手の部分は細く、先が太かった。そして先っぽに紙がついている。
「先っぽの紙は、手でちぎるのが正しいやりかたなんだぜ」
兄がしたり顔で話していた作法だ。
私はメモの通りに3本の溶接棒を購入して、会社に戻った。領収書を出してお金をもらうと、休憩室に行く。
煙草を吸いながら待っていた下田さんに、溶接棒を渡す。ありがとうと言われ、その日のお使いはおしまいだ。
◆3
次の週のことだ。
朝、私は妙な胸騒ぎで目を覚ました。時計を見ると6時23分。セットしている時間までは、あと7分あった。なんだ、もう少し眠れるじゃないか。そんなことを考えた直後、私のベッドは激しく揺れた。
ベッドだけではない。部屋ごと、いや、アパートごと、強く横に揺さぶられているのだ。
――地震だ。そう思うまで、少しだけ時間がかかった。それは、私の知っている地震とは少し違っていた。揺れの強さもそうなのだが、なかなか揺れが止まらないのだ。ゆうに1分以上は揺れていた気がする。
私は不安の中、意外に冷静に次のことを考えていた。
「大丈夫、まず落ち着こう。倒れてくるものは、ないよね。ライトが落ちてきたら、布団でガード。家は木造じゃないから、きっと平気。つぶれない。でも、もし天井が落ちてきたら……、うう、あきらめるしかないかなあ」
揺れが完全におさまるのを待たずに、ライトがふっと消えた。ついで、携帯電話から不快なアラーム音が聞こえてきた。緊急地震速報だ。
「もう、今来ても意味ないじゃない」
と言いつつも情報は欲しい。ネットで確認するが、まだしっかりとした情報はなかった。
テレビを見ると、電源ランプ自体が消えている。念のため電灯のスイッチも触ったが、反応はなかった。やはり先ほど停電したのだろう。
私はとりあえず、カーテンを開けて朝日を入れると、部屋の中を確認することにした。本棚とテーブルの上はしっちゃかめっちゃかになってしまったが、幸いにも家具で倒れたものはない。食器類も無事だった。
動きやすい服装に着替えると、靴を履いて、外に出てみた。
「あら黒川さん、大丈夫? わたし初めてよ、こんな地震」
「おはようございます。私のとこは大丈夫でした、ちょっと停電してるくらい」
「うちもさっきから停電してるのよ。水は使える? 確認しといたほうがいいわよ。本当に困ったわねえ」
声をかけてきたのは、隣に住むおばさんだ。近所の人たちも、ぞろぞろと家を出てきて、情報交換をしている。
たしかにひどい地震ではあったが、家の中が多少散らかったこと以外に被害らしい被害はない。安心したのもつかの間、私の頭は別のことでいっぱいになった。
「どうしよう。会社、やっぱり行かなきゃだめかなあ」
会社に一度電話してみたが、朝早過ぎたせいか、つながらない。時間いっぱい悩んだけれど、私はあきらめて会社に行ってみることにした。
道すがら気づいたのは、私の思っていた以上に、被害がひどいということだ。
住宅街の古めの木造家屋は複数つぶれており、道路までがれきがあふれ出していた。柱に亀裂が走っているマンションもあった。よく見ると中の鉄筋が飛び出しかけており、慌ててその場を離れた。
歩くほどに、被害がひどくなっている気がする。もしかして震源はこっちのほうなのだろうか。会社がつぶれてなければいいけど。
いつもの倍近くの時間をかけて歩き、ようやく会社にたどり着く。私の心配なんて気にもせず、会社はいつも通りどっしりと構えていた。
「おう、おはよう黒川。よく来れたなあ」
「おはようございます。時間はかかりましたけど、歩きだったし、大丈夫でしたよ」
元気に声をかけてきたのは、長山部長だ。
「そうか。黒川の家はむこうだったろ? よかったな、震源は新田のほうらしいぞ」
新田というのは会社のすぐ隣の地域で、私の家とは逆方向だ。なるほど、震源地にこんなに近いなら、このあたりの被害の大きさも頷ける。
「会社はどうだったんですか?」
「見たところ建物はなんともないな。やっぱり工場だしな、普通の家より強いんじゃないか。その代わり中はぐちゃぐちゃで、片付ける気もしないくらいだがなあ」
「もしかして、積んであった製品とか、倒れちゃったんですか?」
「ああ。もう全部横倒しになってて、ひどいもんだな」
「それは、困りましたね」
「しかたないさ、今日は生産はストップだ。手分けして一つ一つ片付けよう」
そうして片づけをしていると、一人のおじさんが事務所にやってきた。
「こんちわー、ちょっと頼みがあるとばってん、今よかかい?」
長山部長がすぐに出てきて、対応する。
「はいはい、どうしました?」
「いやー、裏ん木が倒れて庭をふさいでしもうたんやけど、ノコを貸してもらえんやろうか?」
「あー、それはお困りでしょう。すぐ持ってきますわ」
うちの工場の周りは、普通の住宅も多い。さすがに普段はこんな用事のお客さんは来ないけれど。
「こんな非常時だ、困ったときはお互い様。また何か頼みに来る人がいたら、俺を呼んでくれよ」
「はい、わかりました」
返事はしたものの、私は、こんなときに工場を訪ねてくる人なんてそうそういないだろうと思っていた。けれど、そこは地域密着の会社だけある。ちょくちょくご近所さんがやってきたのだ。
「ちょっとガレージの屋根がはずれちゃってさあ」
「下田さん、見てもらえますか?」
「水をわけてくださる? うちは断水してて」
「はい、飲料用にはできませんけど、それでいいなら」
「ブロック塀が倒れちまったんだよ。危ないからどかしたいんだけど、何かできないかな」
「辻田君、ちょっと若い子連れて、手伝ってやって」
そんなこんなしていると、下田さんが戻ってきた。
「お帰りなさい。ガレージの屋根でしたっけ、大丈夫でした?」
「だめだね。途中で割れてたから、溶接で止めないと危ないよ」
「じゃあ道具を取りに戻ったんですね」
ところが下田さんは困った顔で言った。
「むりむり、今は停電してるからね。それに、どっちにしろコードが届かないから、手の出しようがないなあ」
無理な理由はよくわからなかったけれど、とにかく手の出しようがないというのはわかった。下田さんがどうしようもないなら、本当に無理なのだろう。
「そうなんですか、残念ですね。せっかくまた溶接棒を買ってきてあげようと思ったのに」
何の気なしに、困った下田さんをフォローするつもりで言ったその言葉に、下田さんが反応した。
「あ、そうだ。ちょっと待てよ、たしか――。 黒川さん、ちょっと俺、裏のパン屋まで行ってくるわ」
「それなら私も手伝います。エコバッグ持っていきますね」
その時の私は、下田さんが昼食の買い出しに行くのだろうと思ったのだ。みんな忙しそうに片づけをしているし、そろそろお昼だ。おなかも空いてきたころだ。焼き立てパンの差し入れは、きっと喜ぶだろう。
――でも、こんな時に、パン屋さんも普通にやっているのかなあ。
首を傾げつつ、ずんずん歩いていく下田さんの後ろを、慌ててついていった。
◆4
パン屋さんのドアは開いていた。あくまでもドアが開いていただけで、店としてはとても営業できる状態でないのは、一目でわかった。棚は倒れ、床にはまだガラスが散らばったままだった。
「ごめんくださーい」
「あー、すみませーん、うちは本日お休みでーす!」
店の奥からは、おばさんの声がした。きっと奥で片づけ中なのだろう。
「いえー、違いますー、自動販売機のカギを貸してほしくてー」
「はいー? 自販機のー?」
カギ? パンを買いに来たのではなかったのだろうか。私の頭の中で、大きなはてなマークがぐるぐる回っていた。
おばさんも意味が分からなかったようで、ばたばた足音を立てて、奥からでてきた。
「自販機のカギって、その駐車場の横にあるやつですか?」
「ええ、そこの自販機です。『災害支援型自販機』って書いてあるでしょ。管理キーがあれば、中を開けられるんですが。ここで管理していないかなと思って」
「そんなものあったかしら」
「店長ー、あれじゃないですか。時々自販機の補充に来る人が、確認してるやつ」
「あ、そういえば。ちょっと待ってくださいね」
もう一人の店員に助けてもらい、おばさんはレジの後ろにあったキーボックスを開けた。『自動販売機』とタグのついたカギは、すぐにみつかった。
「ありがとうございます、一緒に来て、開けてもらっていいですか?」
「ええ、いいですよ」
向かったのは、先日使った溶接棒の自販機だ。おばさんは自動販売機の手前にある鍵穴にカギを差し込み、ガチャガチャと回す。そのままレバーを引くと、ゆっくりと自動販売機のドアが開いた。
機械類と鉄棒などが並んでおり、その下にはガスボンベらしきものまであった。
下田さんは「おう、これこれ」と言いながら、溶接棒を数本私に手渡した。私はわけもわからず、持ってきたエコバッグにそれらを突っ込む。
自販機の下には台車も収納されており、下田さんは二つのガスボンベを台車に載せた。
「じゃ、ありがとうございます、じゃこれお借りします。ほら、行くよ」
私はあわてて追いかけながら、声をかける。
「下田さん下田さん、待ってください。間違ってませんか? これ、こないだの棒じゃないですよ」
Zのなんたらだっけ? 名前はよく覚えていないけれど、花火の真似をしたので、形や色は覚えていた。下田さんに渡された溶接棒は、こないだ買った溶接棒と少し違っていたのだ。
「あー、いいのいいの。今回はガスだから」
「ガス?」
「見てればわかるって」
下田さんは工作室からいくつかの道具を出してきて、ガスボンベと一緒に台車に載せた。そのまま、近所の家に向かう。
「ここ、さっき話していたガレージの壊れた家ですか?」
「そうだよ、ほら、ここ見てごらん」
下田さんが手で触ると、確かに屋根部分がぐらぐらと大きく揺れた。
「ここと向こうで何とかつながってるから落ちないけど、次に揺れたら危ないからね。今のうちに留めておかないと」
下田さんは家のご主人を呼ぶと、手早く説明を終わらせて、屋根を支えてもらう。会社から持ってきた謎の器具を手早くセットすると、マスクをかぶる。
「あんまり火花を見つめちゃだめだよ。じゃ、溶接棒ちょうだい」
下田さんがさっとバルブを操作すると、ノズルの先から白っぽい光が噴き出した。
溶接棒に火を近づけると、色も音も本当に花火みたいだった。いや、花火よりもきれいだった。
もっと見ていたいと思っていたら、下田さんはあっという間に溶接を終わらせてしまった。
「ありがとうございます、本当に助かりました」
「いえいえ、困ったときはお互い様ですから」
お互い様かあ。そんな一言で終わらせるなんて、かっこいいなあ。
帰り道、私は下田さんに言った。
「すごいですね、あんなにあっさり直しちゃうなんて。かっこよかったです」
「いつもやってるからね、大したことないよ」
「溶接棒って、あんなふうに使うんですね」
下田さんは恥ずかしそうに笑った。
「災害支援型自販機って、なかなか役に立つよな」
それが照れ隠しからのセリフなのは、ばればれだった。
災害支援型自動販売機は、確かに頼りになる。でも、使う人間がいないと、意味がないのだ。自動販売機も、下田さんも、どっちもかっこいい。
「私も習ってみようかなあ、溶接」
「いいんじゃない? 最初はアークからかな、教えてあげるよ」
「ありがとうございます。じゃあまずは工場に戻って、つぶれた製品を片付けてからですね」
片づけのことを思うと憂鬱だが、空を見上げると、抜けるような春の青空が広がっていた。