サウンドエンジニア
彼女には何もなかった。特別な才能も、努力する才能も。働く意欲もなかったからお金もなかった。壮絶な過去もなく平凡だった。溢れ返る人の波に呑まれたら消えてしまうような人だった。彼女はサウンドエンジニアになりたかった。
中学二年生の時、生まれてはじめて音楽をイヤフォンで聴いたのだった。いいイヤフォンだった。エティモティックのER-4Sだった。友達から『これで音楽聴いてみ』と、借りたのだ。三連キノコのようなイヤーピースを耳の奥まで突っ込んで、大して痛くないことにまず感動した。
驚きに見開いた目には、目の前の公園の風景は映っていなくて、音楽が絵になって見えていた。
それは彼女の知らない洋楽ロックの曲で、柔らかさの中に強烈な激しさが突き刺さっていた。ありふれた日常の音がすべて遮られて、見たこともない景色が目の前に出現した。ドラムが彼女の背中を痺れるように揺らし、ベースが頭のてっぺんからお尻までを這い回った。ハイハット・シンバルが耳元を心地よくくすぐり、左右からギターの音が入って来ると、グランドキャニオンの上空を彼女は飛んでいた。優しく甘い男性のボーカルが、彼女だけに囁くように歌い、時に鋭いハイトーンで空のさらなる上まで連れて行ってくれた。
それから彼女は親にねだり、自分のエティモティックER-4Sを約四萬円で買ってもらった。スマートフォンでは満足しきれなくなり、親にねだって10万円のポータブルミュージックプレーヤーも買ってもらった。社会人になってお金を自分の好きなように使えるようになると、アパートの部屋に大きなスピーカーを置き、一生の間にオーディオに二千万円以上を注ぎ込んだ。
彼女はサウンドに恋していた。CDを買ったら歌詞よりも解説よりも何よりもまずサウンドエンジニアの名前をチェックした。有名無名問わず色んなサウンドエンジニアの名前を覚え、それぞれの音作りの個性を覚えた。中でもアルジェル・ゴッドプーアという有名なサウンドエンジニアのファンになり、いつか自分もこんな夢みたいな刺激的なサウンドを作ってみたいと思うようになった。
彼女の夢はサウンドエンジニアになることだった。彼女は平凡な会社員になった。でも彼女の夢は、ずっとサウンドエンジニアになることだった。会社で事務の仕事をしながら、頭の中ではマイクの立て方や楽器のチューニングのことを考え、卓の前に座ってミキシング作業をしていた。妄想の中で華やかなミュージシャンたちと冗談を飛ばし合いながら、小さくて大きな箱の中に音の世界を作っていた。計算を間違えすぎて会社をクビになったのでトラック運転手に転職した。
彼女はサウンドエンジニアになりたかった。しかし努力はまったくしなかった。パソコンのDAWソフトを買ってみたけど使い方がわからず放り出した。マルチトラックレコーダーを買ってみたけど楽器が弾けなかった。専門学校に進学したいと親に話したらやめろと言われてあっさり普通の大学に進学した。けれど心の中ではいつも自分はサウンドエンジニアだと思っていた。
結婚出来ず、音響機器に囲まれて迎えた87歳の時に、ワンルームの部屋で倒れた。ちょうどそこへアメゾンで購入した新型ポータブルミュージックプレーヤーを届けに来た宅急便のお兄さんが見つけて救急車を呼んだ。
白い病院のベッドの上で、彼女は自分の名前もわからなくなっていた。なんとなく若かった頃の記憶は蘇るが、そこに出て来る人たちが誰だったかも憶えていない。あの人たちは誰だっけ。自分はどこの誰で、お昼ごはんは食べたっけ? 彼女の世界には白い靄がかかっていた。それでも彼女はひとつだけ、どうしても憶えていることがあった。
「右のギターの音を3デシベル上げてちょうだい」
彼女は医師に向かい、言った。
「イマドキのひとはこんなヌルい音じゃ満足しないわよ」
それが最期の言葉だった。