第6話 迷走少女
ふかふかのベッドで目が覚めて、ヒメルは横になったまま天井を見上げた。
ここはどこだろう。兵舎でないことは確かだ。こんなに寝心地の良いベッドのわけない。
半身を起こしてまわりを見やり、ハインロット大佐の実家であることを思い出した。
(そうだ。私、司令官に付いて来ちゃったんだっけ……)
今頃基地はどうなっているだろう。兵舎で騒ぎになっていないだろうか。同室の子は、心配しているかもしれない。
そんなことを考えながら身支度をした。とは言っても下着くらいしか替えを持ってきていないし、私服もないのでまた昨日と同じ迷彩服に袖を通した。
一階に降りて何となくキッチンをのぞくと、料理長がすでに朝食の準備を始めていて、香ばしいパンの焼ける匂いが鼻孔をくすぐる。
「おう、ヒメルか……」
「おはようございます」
こちらの気配に気付いた料理長が振り返って言うが、そのあと漏れた大きなあくびは、片手で隠しきれないほどの大きさだった。
「あー眠ぃー」
だるそうに冷蔵庫に向かう料理長が這うような声を上げる。
「昨日は夜遅かったんですか?」
その姿を目で追いながらそう尋ねると、料理長は卵を取り出しながら答えた。
「まあな。あいつのお陰で全然眠れなかった」
「あいつ?」
「ツルギだよ。いきなりオレの部屋に入ってきてどうしよーどうしよーって騒ぎやがって。結局朝までいたんだぜあいつ」
憎らしげに言う料理長に、ヒメルは首を傾げた。
「どうしよう? 何かあったんですか?」
「知らねぇよ! 何か分かんねえけど、副官を怒らせたとか何とか言ってたぞ」
「副官を怒らせた?」
そんなことは今までだって幾度となくあった。でも司令官はまったく意に介していなかったのに、急にどうしたのだろう。
それぐらい本気で怒らせてしまったって事なんだろうか。
(昨日の夜に何かあったのかな……?)
「ったく、何でオレがあいつらの痴話喧嘩に付き合わされなきゃなんねえんだよ」
文句を言いながらも慣れた手付きで料理長は卵を割っていく。
「あ、あの料理長、何か手伝いましょうか?」
「ああッ? おう、そうだなあ……。そこのボールの中の野菜を皿に盛り付けてくれよ」
「はい、わかりました」
ヒメルは言われたとおり、新鮮なレタスやトマトを一人分ずつ皿に盛り付けた。
調理台の隅に置かれたコーヒーメーカーからは、煎れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。
まさに清々しい朝の始まりといった感じだ。
「──でも、何だかんだ言いながら朝まで付き合うなんて、料理長は司令官に優しいんですね」
「べっ、別に優しくねぇ。あいつが強引なだけだ」
そうは言いながらも照れているのか、見てすぐ分かるくらい料理長の耳は赤い。
(……照れてる料理長、なんか可愛いな)
思わず含み笑いをしてしまう。会えばいつも人の事をからかってばかりいる料理長の、意外な一面を見た気がした。
「料理長は以前からこのお宅に住んでいるんですよね? 司令官とはご親戚か何かですか?」
よそ様の事情と知りつつも、ヒメルは気になって尋ねた。すると料理長は特に気を悪くする様子もなく口を開いた。
「まあ親戚と言えば親戚かな。確かオレの婆ちゃんの婆ちゃんがハインロット家の当主といとこ同士とか何とか──」
「ほぼ他人ですねそれ」
ヒメルは思わず突っ込んでしまった。親戚と言えども血縁関係があるかどうかも怪しいところだ。
「とにかく、あいつはオレにとっちゃあ妹みたいなもんだ。じゃなかったらあんなワガママ娘、このオレが相手にするわけねえだろ」
(このオレがって、そんなこと言われても知らないし……。料理長って、どうも俺様王様な所があるんだよね……)
勿体ない。それさえなければ、すらりとした長身にプラチナブロンドのイケメンなんて物件としてはかなりハイグレードなんだけど……。
それはさておき、司令官と副官の喧嘩の件が気になる。
一体昨日の夜に何があったんだろう。
朝食の準備が整うと、ヒメルは料理長に言われてみんなを呼びに行った。
しかしユリス氏とヘルミナさんはもう出かけるらしく、男性陣の部屋をのぞくとシュウしかいない。司令官の部屋をノックしたら中から朝食はいらないという声が返ってきた。
仕方なくキッチンに戻ろうと階段を降りると、副官がテラスから室内に入って来るところだった。
「あっ、副官! 朝食できてますよ!」
「ああ……」
そう答えると副官は、ダイニングに用意されたコーヒーを一杯だけ飲むと、他の者が集まるのも待たずにさっさと居なくなってしまった。
どことなく副官の様子もおかしい。
やっぱり何かあったんだ。
「──で? なんでそれを僕に聞くわけ?」
立てた竹箒の柄の先に両手を乗せ、更にその上にあごを乗せた格好で、シュウはじとっとした目をこちらに投げた。
朝食の後、ユリス氏自慢のローズガーデンの真ん中で彼を発見したヒメルは、その場で昨夜の出来事について尋ねたのだ。
どうやら彼は、ジェイス料理長の『働かざる者食うべからず』の方針により庭掃除を命じられているらしく、竹箒片手に庭を気怠げにフラフラしていた。
「だってシュウ君、副官と同じ部屋だったでしょ? 何があったのか知ってるかなと思って」
「知らないよ。ってゆーか勝手にシュウ君なんて馴れ馴れしく呼ばないでよね」
「ええ? ダメ? じゃあ……シュウ様!」
「バカにしてんの?」
「してないよ」
「してるでしょ絶対。普通、人のこと様付けで呼ぶ奴なんている?」
「ヘルミナさんは料理長のことジェイス様って呼んでるよ?」
「…………もういい」
抵抗する気も失せたのか、がっくりと肩を落としてシュウは溜め息を漏らした。
「とにかく僕は何も知らないからね。昨日は自分でもびっくりするくらい爆睡しちゃって、朝まで全然起きなかったんだから!」
「副官に何か変わった様子はなかった?」
「別に。まあ、ちょっと機嫌は悪かったかな。あとは知らない。朝もしばらく部屋にいなかったし。話しもしてない」
「そう……」
どうやら本当に何も知らないらしい。
ヒメルは諦めてローズガーデンを後にすると、屋敷の中に戻った。
こうなったら直接司令官に聞いてみよう。
きっと司令官は、副官と喧嘩したことを気にして落ち込んでいるに違いない。ここはひとつ、人生の先輩として相談に乗って差し上げなくては。
そう思い立つと、ヒメルは司令官の部屋に向かった。
コン、コン、とドアをノックすると、「はーい」と中から司令官の声が返ってきた。
どういう訳か声はそれほど落ち込んではいない。
「セイジョウです」
そう言って部屋のドアを開けると、そこはまるで古着のフリーマーケットのような状態だった。
床一面に洋服が並べられていたのだ。
「どっ、どうしたんですか? 衣替えですか?」
「ヒメル、良い所に来たね。いま丁度ヒメルの着られそうな服を見繕ってるところなんだ!」
「ええッ? 私のですか?」
ヒメルは驚きながらも部屋の中に入ってドアを閉めた。
司令官の部屋は飾り気もなくこざっぱりとしていて、家具もシンプルなデザインの物しかない。女の子の部屋と言われても疑ってしまうくらい、殺風景な部屋だった。
しかし今は、クローゼットは開け放たれ、その中に収まっていただろう大量の衣服が部屋中に広げられていた。
「ほら、あたしとヒメル、背格好がほぼ同じでしょ? だからあたしの服なら着られると思うんだ」
ベッドの上に腰かけてそう言いながら、司令官はフリルとレースがたっぷりついたワンピースを広げて見せた。
「これなんかどう? なんならあげるよ。あたし、こうゆうの趣味じゃないし」
「でも……」
「気にしなくていいよ。その迷彩服しか持ってきてないんでしょ?」
「ええ、まあ……」
ヒメルは納得のいかないような曖昧な返事を返した。
司令官が手にした洋服があまりにもロリータ趣味だったということもあるが、落ち込んでいるだろうと思っていた彼女が、落ち込むどころか楽しそうに服を選んでいたからだ。
「でも、私だけそんな……。副官だって──」
「ああ、たぶん心配しなくても大丈夫だよ。何とかなってるみたいだよ?」
そう言えば今朝はすでに迷彩服は着ていなかった。どこで調達したんだろう。
(やっぱりプロの殺し屋だから、痕跡を消すためにもいつまでも同じ格好ではいないんだろうな……)
なんて事を考えていたら、司令官はポツリととんでもないことを言った。
「……実はあたし、昨日の夜スノウの部屋に夜這いしちゃったんだよね」
「はぁ、よばい……えッ? よっ夜這いッ!?」
ヒメルは声を上擦らせた。
『スノウ』と言うのは確か副官の本名だったはず。雪の様だと思っていた彼がまさか本当に雪という名前だったとは驚いたが、ぴったりな名前だ。まあ本名かどうかは分からないけど。
「なんかあたし、無意識にやってたみたいであんまり憶えてないんだけど……。でも思いっきり嫌がられちゃって……」
無意識で夜這いってかなり問題がある気がするが……。それは別として、これだけの美少女に迫られても拒否できるなんて、さすがは副官。並の自制心ではない。
「で、そのあと一晩中考えて反省したの。やり方が間違ってたと思って」
その反省会に料理長は付き合わされたという訳か。
「確かにいきなり夜這いっていうのはマズイですもんね。もっと順序を経て──」
「あたし、少し色気が足りなかったわ」
「──……はい?」
ヒメルはあっけにとられて目を見開いた。
「もっとムーディーな雰囲気で大人の色気を出すべきだった。そうすればスノウだってグラッと来たはず」
「……そう、ゆー、ことです?」
自信満々に断言する司令官に、ヒメルは控え目にだが異を唱えた。
しかし司令官にはまったく届く様子がない。
「それでね、大人の魅力をアピールするような服がないかと思って探してたんだ。そしたらヒメルのことも思い出したから、ついでに探してたの」
私の事はあくまでもついでなんですね司令官。
ヒメルは少し寂しくなった。
しかし、気に掛けてもらっただけでもありがたいのに、それ以上言っては贅沢だ。
まさか司令官の副官に対する信頼が、そこまで恋愛感情になっているとは思わなかった。つまり二人は相思相愛というわけだ。
難関と言われる昇任試験を突破し、兵長から伍長に昇任して早三年。上官の意図を解し、最大限努力するのが下士官の勤めだ。
「分かりました! お任せ下さい司令官! このヒメル・セイジョウ。及ばずながら大人の女の一人としてお役に立って差し上げましょう!」
こうして、迷走し始めた少女たちによる『司令官夜這い大作戦』は実行に移された──。