第1話 夜明けと共に
スノウは見たこともない豪華な部屋の中にいた。
床は一面に大理石が敷かれ、高い天井には丁寧に描き込まれた天井画が見える。
壁には大きな金の額縁に収められた肖像画がいくつも飾られていて、その反対側の壁はほとんどの面積が窓だ。
まだ陽が高い時間のようだが、天井から床まで届くほどの長いレースのカーテンが、差し込む日差しを柔らかな光に変えている。
調度品も上等な品が置かれ、その一つ一つに施された細かい装飾に、一目で高価なものだということが分かる。
どう考えても自分とは縁のない空間なのだが、不思議と疑問は湧いてこない。
それどころか勝手知ったる場所とばかりに部屋の奥に置かれた長椅子に近付いて行って、そこに腰掛けた女性に向かって尋ねた。
「どうかした? そんな真剣な顔をして……」
そう少し笑みを漏らしながら優しく尋ねても、女性は黙ったまま背筋をぴんと伸ばして、じっと正面を見つめている。
そんな姿もいとおしくて、スノウは女性の足元に膝を付いた。
女性は燃えるような緋色の髪を結い上げ、何枚ものレースを重ねた白いドレスを纏っている。
「……セーラ?」
名を呼ぶと、やっと女性の瞳はスノウを写した。
真っ直ぐにこちらを見下ろす瞳は髪と同じ緋色で、その決意を固めたようなただならぬ眼差しにスノウは訝った。
「レイ。わたくしは決めました──」
「決めた? 何を?」
「わたくしは、魔女として生きる事をやめます」
それは、衝撃的な告白──。
だがスノウはすぐに否定はしなかった。
膝の上に置かれた女性の細い手を取り、自分の力強い手で包み込む。
「それがどういうことなのか、分かって言ってる?」
「分かっています! わたくしには、未来永劫ルディアを見張っていなければならないという大切な使命がある! それは分かっているのです!」
女性は強くスノウの手を握り返しながら答えるが、その手は細かく震えている。
「セーラ……俺は、使命の事を言ってるんじゃないよ。魔女をやめるということは、人間として生きるということでしょう? 人間は、いつか死ぬんだよ?」
諭すように語り掛けると、女性の目にわっと涙が溢れた。
「ええ、そうよ! 人間の寿命なんてあっと言う間! すぐに死んでしまうわ! 私たちのような魂の入れ替えもできない! それはとても恐ろしいことだわ。でも、わたくしにとってはあなたのいない時間を生きる事の方が怖い!」
「──セーラ」
「いくら絆を与えても、あなたはいつか死んでしまうのでしょう?」
女性の瞳から溢れた涙が、ぱたぱたとスノウの手の甲を濡らす。
「レイ、わたくしは怖いのです! この世でたった一人だと言うことが……。わたくしの命は永遠でも、あなたはいつかいなくなってしまうと言うことが──!」
堪らずスノウは女性を強く抱き締めた。これ以上、その顔を悲しみの涙に濡らしたくなかった。
自分にはどうすることもできない事だ。それは分かっていた。だからこそせめて、その涙を拭ってやりたい。
彼女の悲しみや不安を、少しでも消し去ってあげたい。
「……お願いよレイ。どうか、わたくしに選ばせてほしい。老いることのない永遠の生よりも、あなたと共に老いて迎える死を──」
女性はスノウの腕の中で頬を擦り寄せながらすすり泣くように言う。
「終焉の魔女セシリアとしてではなく、セーラというひとりの人間として、あなたと共に生きたい……」
生きて、老いて。
共に死にたい──。
その願いは自分も同じだった。
決して離れたくない。
例えこの命を全うし、生まれ変わったとしても。
再び彼女と出会い、そして愛したい。
何度別れても、何度出会っても──……
ふと目を覚ますと、車は長い暗闇のトンネルを抜け、地上に顔を出そうとしていた。
「あ、起きましたか? もう間も無く海底トンネルを抜けますよ」
運転席の方から聞き慣れない女性の声がする。
見るとそこには、波打つ様な黒髪に褐色の肌をした女性がハンドルを握っていた。
(……誰だ?)
スノウは訳が分からずまわりを見やる。
隣の座席には司令官が無防備な顔で頬杖を付いて眠っていた。
相変わらず共和国軍の迷彩服を纏った姿には多少のミスマッチさを感じずにはいられないが、小さな身体を更に小さくして静かな寝息を立てる少女の顔を見ただけで、スノウは不思議と安心できた。
(……そうだ。ここは車の中だった)
自分の更に後ろの座席を振り返れば、ヒメルとシュウがやはり座ったまま眠っていた。
シュウは腕を組んだ格好で、ヒメルなどは完全に首があさっての方向に折れ曲がっている。
(やれやれ……)
スノウは正面に向いて座席に座り直した。
妙にリアルな夢を見ていたせいか、何だか身体がふわふわする。何故自分がここでこうして座っているのか、その理由がすぐには頭に浮かばなかった。
それに、あの夢はなんだったのだろう。
(──セーラ、魔女セシリア。あれは、あの魔女が生きていた時の姿か……)
緋色の髪に、緋色の瞳をした妙齢の女性。
彼女は自分をレイと呼んでいた。
そして自分はあの時、間違いなく『レイ』だった。
彼の気持ちが流れるように自分の中に入ってきて、彼がどれだけ魔女セシリアを愛していたのか。どれだけ自分の無力さを感じていたのか。
痛いほどよく分かった──。
「おっ、やっと起きたな」
斜め前の助手席から顔を出したのはガンデルク基地の料理長、ジェイスだった。
その顔を見て、スノウの頭の中にやっとこれまでの経緯が浮かんできた。
「……まずは、どこへ逃げましょうか?」
スノウがそう尋ねると、司令官はつかの間胸を撫で下ろしたように息を吐いたが、すぐにキラキラしたとびきりの笑顔を見せた。
東の空はうっすら白み始めていて、鳥のさえずりが微かに聞こえる。
もうすぐ夜明けだ。
しかし夜が明ければ、状況は更に悪い。間違っても笑っていられるような状況ではない。
だがスノウは、少女のこの笑顔を見ただけで、この手を取った価値があると思ってしまった。
(──いや、そんな悠長なことを考えている場合ではない)
「どうしようか。あなたと一緒だったらどこでもいいんだけど……」
小首を傾げながら司令官は言った。
「そう言われても、私たちだけではなく司令官も一緒ということになると、できる事にも限りが──」
「あたしは何でもするよ! 野宿だって平気だよ、軍人だもん!」
少女が必死な表情で言い募る。
彼女だって野外での行動を基本とする陸軍の軍人だ。それなりに訓練も積んでいるだろう。
だがそれとこれとは別だ。
「もちろんそれぐらいは覚悟していただかなくてはなりません。しかし、“逃げる”という事は想像以上に神経をすり減らすものなのです」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「……誰か、擁護してくれる人物を頼った方がいい。でなければ足もない今の状況では移動もままならない──」
「足ならあるじゃないですか! ここまで乗ってきた軍用車がッ!」
不意にヒメルが少し離れた場所から言った。
あいつめ、聞いてないふりをしてしっかりこちらの会話に聞き耳を立てているらしい。
「そうだよ。あれで逃げればいいでしょ?」
何か問題でもあるのかとでも言うように、司令官もヒメルの言葉にうなずく。
「できればあの車はここで乗り捨てて行った方がいいでしょう。軍の車両は街では目立ち過ぎます」
「……そっか、確かにそうだね」
司令官はしょんぼりと俯いた。
「ところでセイジョウ、まさかお前、ついてくるつもりじゃないだろうな?」
先ほどまでシュウと二人で黒ずくめとトーマを縛り上げる作業をしていたはずのヒメルに向かってスノウは問うた。
「えっ、やっぱりだめですか?」
「当たり前だ!」
完全に脱力してしまいそうな所を何とか踏ん張って言い返す。
冗談じゃない。司令官一人でも懸念しているというのに、これ以上のお荷物はいくらなんでも抱えきれない。
「だいたいお前は関係がないだろ!」
「そんなことないですよ! 私だって司令官をお守りする使命があります! それに、私はあなたの部下ですッ!」
こんなところでそんな矜持もち出さなくていい。
スノウは頭を抱えた。
「──スノウ」
突然、シュウが音も無くこちらに近付いてスノウの背中に立った。何かを感じ取ったのか小声で耳打ちする。
「気を付けて。何かが近付いてくる!」
「──!?」
身体が強張る。またトーマの仲間だろうか。それとも、
「軍の捜索隊か?」
「わかんない。たぶん二人──」
そう言って、シュウは海岸沿いに連なる堤防の上を睨んだ。同じくスノウも鋭い視線を向ける。
数秒遅れて異変に気付いた司令官とヒメルも、二人の男の視線の先を息を殺して見つめた。
「おっ、いたいた! ──ったく探したぜ、ウチのお姫さまはよぉ……」
そこに現れたのは紛れもなく、ガンデルク基地の料理長。
「ジェイス!!」
そう叫んだ司令官は、嬉々とした表情で料理長の足元に駆け寄った。
「こっちだヘルミナ。急いでクルマを回してくれ!」
ジェイスは後ろを振り返りながら誰かに向かって声を張り上げた。
ここからではその誰かの姿は確認できないが、シュウの言ったとおりもう一人いるようだ。
「来るの遅いよ〜! ぐーすか寝てたんでしょ〜?」
「ばっか言ってんじゃねー! こっちは夜通し探してたんだぞ!? お前こそケータイの電源ぐらい入れとけっ!」
「あれ? そう言えばあたし、ケータイどこやったっけ……?」
「オレが知るかッ!!」
(……そもそもちゃんと携帯してたためし無いだろ……)
堤防の上と下とで言い合うジェイスと司令官を交互に見ながらスノウは思った。
二人が親戚で一緒に暮らしている事は聞いているが、実際に会話している所は初めて見る。
「何で料理長が? もしかして二人はお知り合いなんですか?」
怪訝そうにヒメルが尋ねてきたが、そんなことをこちらに聞かれても詳しい事情は何も知らない。そうらしいな、と相槌を打つことしか出来なかった。
先程まで張り詰めた気配を放っていたシュウが、背中の愛刀から手を離して警戒を解いているところを見ると、とりあえず他に危険は無いようだ。
「まさかとは思ったが、やっさんの予想が的中したな。それにしても、たまたまヘルミナが来てる時で良かったぜ」
そう言いながら、ジェイスは堤防の上から傾斜のきついコンクリート斜面を立ったまま滑り、スノウたちの立つ砂浜に降りた。
降りた先には司令官が待ち構えていて、ぴょんぴょんと跳び跳ねながらそのままジェイスの腕に抱きつく。
「じゃあヘルミナもいるの!?」
「ああ。定期的に様子を見に行くように、やっさんに言われてたんだと。そうこうしてたらいきなり副司令官のおっさんから、お前が行方不明になったって連絡が入るし。あん時はホント寿命が縮んだぞ」
ジェイスはジーパンに白いシャツというラフな服装で、ポケットに手を入れた格好でこちらに向かって歩いてくるが、その腕には司令官が抱きついたまま。
スノウはその姿に思わずムッとしてしまい、眉間に深いシワを寄せてジェイスを睨んだ。
「よぉ、副官……。あんたスパイだったんだって?」
「……」
スノウは黙することで返事に替えた。
「違うよジェイス! スノウはスパイでも、良いスパイなの!」
(──良いスパイ?)
少女の良く分からない弁明に心の中で首を傾げる。
「まあ、何が起きたのかは後ろの奴らを見りゃあ分かるわ。とりあえず、こいつを守ってくれたって事でいいんだよな?」
だったら何だと言うのだ。礼を言うとでも言いたいのか。
以前から決して良い印象は持ってはいなかったが、ここにきてスノウはこのジェイスという男が嫌いになりそうだった。
だいたい何故いつも上から目線なんだ。
「まあ細かい話はいいや。時間がない。とりあえず全員クルマに乗ってくれ」
ジェイスは親指を立てたこぶしで背中の方向を指し示しながら言った。
「何故だ?」
「だから時間がねえって言ってんだろ! 細かい話はクルマの中だ!」
不信感もあらわに問うたスノウに、ジェイスは苛立たしげに返す。
「あの〜料理長? 全員って私もですか?」
火花を散らす二人の男に気圧されながらも、おずおずとヒメルが尋ねた。
「悪いな、ヒメル。お前もだ。ここにいたらお前も捕まる」
「ええ!? 何でですかッ?」
その問いに、ジェイスは同じ疑問を持っているだろうスノウやシュウの顔を見回すようにしながら答えた。
「……敵は、帝国の奴らだけじゃねえってことさ……」