○第九話 悪の種子
2050年。行財政の効率化を名目に二十三あった東京都特別区は八つの合区に集約されていた。その合併は見た目上は実に明快な成果を達成した。二十三区それぞれで独立して存在していた区議会議員が八つの行政区にスリム化されたからだ。それなりに持ち出しは多いとはいえ、区議会議員の報酬は一般の給与所得者よりも高い水準にあった。2017年の統計データにおいて、東京都内の給与所得平均615万円(とはいえ区によって大きな格差があるのだが。)に対して、都議会議員報酬の平均は720万円となっている。この議員報酬を大幅に削減することができたのだ。
一方で役人の数が減ったかというと、そのようなことはなかった。
それまでの各区役所は人員数そして予算規模を保持し、その上で合区となる行政区の役所が新たに設置された。つまり、東京都と各区役所の間に新たなレイヤーが追加されたわけである。これはあくまでも暫定的な措置で、いずれ各区役所業務は統合され、最終的には予算も人員も削減されるという計画であった。しかし計画はいつまでも計画のまま延期に延期を繰り返し、現状では単純な費用増となり、また公務員の人員増加に帰着している。
単純に歳出面だけで見れば、経費はむしろ増大したという結果だ。
効率化と費用削減を目指しながら、建前と建前をすりあわせた結果、組織を逆に肥大化させてしまう。それは官公庁のみならず、民間企業、特に歴史ある一流企業においても同様である。このような合理性を欠く無駄に無駄を積み重ねた末に、2050年の日本の国力消耗は加速されていた。
合区の一つ、通称ニア・イースト。かつての台頭区と荒川区と墨田区、そして湾岸部を除く江東区が合併してできた行政区だ。正式名称は江東墨田荒川台頭区と冗談のように長い。合併を機に新名称をつけようという動きもあったのだが、各区役所が頑迷に抵抗し、その結果旧区名が残され、単純に人口の多い順番を並べただけの名称になったという経緯がある。しかしそれではあまりにも発声しづらいのでニア・イーストと呼ばれるようになっていた。
低負担低福祉を基本方針とする区画で、都心部に比べれば治安は良くないがそれ故に住民は逞しく、そして明るい。昔ながらの下町っぽさを感じさせる“住めば都”を体現したような場所だ。
そのニア・イースト内、錦糸町の繁華街。
雑居ビルの地階に二人の若者が降りていった。
築八十年は経っているだろうか。所々にシミや汚れの目立つみすぼらしいビルだ。
地下へ続く階段は狭く、一歩進むごとに密造タバコと香水と消臭剤の入り混ざった不快な匂いが濃度を増していく。
看板のペイントは退色して店名すら判読不能になっており、入口の錠も壊れたまま。
まともな使用者がいなくなってもう何年も経過していることが窺い知れた。
若者のうちの一人が無言のまま、丸い円盤のようなハンドルのついたドアを押し開く。
不快な軋みとともに、先ほどから鼻を突いていた悪臭が際立った。
視線の先、奥の壁際には古い合皮製のソファが一つ。その中央には拡げた両腕を背もたれの縁に載せ、わざとらしく脚を組んでいる男の姿があった。左右には微妙な見た目の若い女が一人ずつ。いずれも成人年齢の十八になったかならないかといったところだ。
店に入った二人組は、真ん中の男を無言のまま見つめる。
それなりに背は高そうで、がっしりした体格の持ち主だ。しかし全身から放たれる空気はいかにも中途半端で、三下に“THE”という定冠詞をつけると実にしっくりくるようなチンピラだった。
あまりの安っぽさに二人組のうち、背が高くプロレスラーかと見まがうほど逞しい肉体の持ち主――リュウはあやうく声を上げて噴き出しそうになっていた。
「ハズレだったか?」無遠慮にそう訊ねる。
「みたいだね」
応じた方は落ち着きのある口調。
相方と比べると背は低く、ずっと細身の青年だ。ノエルと呼ばれるこちらの少年はリュウとは異なり、感情を出さず淡々と話す。
「行こう」
「ああ」
リュウが応じて踵を返す。と、
「おうおうおうおう!」
黒い革のジャンパーに黒のサングラス、すり切れたジーンズに黒のショートブーツ。頭は左右を剃り込んだモヒカン。お揃いの格好をした三人組がノエルとリュウに近づいてきた。
「人様のアジトに勝手に上がり込んで一言もナシてか? 舐めてんじゃねえぜゴラァ!」
イキりながら肩を揺らす三人。動きに合わせて頭のトサカが左右に動く。
「プッ」
迫力に欠けるどころか滑稽でさえあるその様に、リュウは今度こそガマンできず吹いてしまっていた。
「はは、スマンな」言いながら片方の掌を挙げ笑って見せる。「邪魔したよ」
威嚇してくる手下その1・その2・その3をあっさりいなしてリュウは背を向けた。
「テ、テメエ――」
あまりにも堂々としたリュウの態度に気圧されつつも、手下たちは気を取り直す。
「ザケやがってッ! ブッ殺されてえのかアン!?」
そのうちの一人が怒声を上げた。
二人の相手に対してこちらは四人。数の有利を頼りに強気に出たのだ。
「ん?」
リュウはおもむろに振り返った。そして大声を出した手下をじっと見る。
「――――ッ!」
リュウ本人としてはただ眼を合わせたのみ。だが手下の男はそれだけで震え上がってしまっていた。開け口はそのままに、続く言葉が出せないのだ。
「舐めてんじゃねえ――ッ!」
そこで、ソファにドカッと座っていた男が立ち上がった。左右の女がそれぞれに「きゃあ、こわいいいい」と叫びながらリュウに背を見せて丸くなった。
「……なんの三文芝居だ?」
呆れたリュウの独り言。立ち上がった男はそんな声を聞きもせず、何も持っていない手を、まるで棒でも振り上げるように持ち上げた。
「コイツら、舐めやがって!」
見た目の逞しさとは違って、その声は不自然なほど甲高い。声が裏返っていたせいだ。
「クソッが! だったらオレ様の“スターダスト・ウィップ”を見せてやんぜ!」
「……」
一方のリュウはというと脱力したまま、三下の動きを無言で見つめている。
「量子デバイス反応?」
出口にいた細身の少年――ノエルが呟きながら振り返った。
とはいえその顔には緊張も恐怖もない。
ただ冷静に、既に待機状態にあった自らの量子デバイスで迎撃の準備に入る。そしてタイミングを計り始めるが、すぐに待機モードに戻った。静観である。
「鏖……」
先に反応を見せたのはリュウの方だった。
握った両拳を腰の位置にまで上げ、軽く両手を引き絞る。
発声と同時にリュウの喉元の辺りでワームホールが発生した。
そこから扇状に拡がった爆風がチンピラ四人を一撫で。
革ジャンの三人は卒倒したように後ろ向きに倒れていた。ソファから立ち上がった三下は吹き飛ばされたもののソファの背もたれに足を引っかけ、頭から床に落ちて鈍い音を立てて、そのまま無様に両足を天井に向けたまま動けずにいる。見た目の微妙な女性二人はソファの背もたれに貼りついて震えていて声も出せない。
「邪魔したな」
うんざりしたように野太い声を響かせると、今度こそはとリュウが出口へと向かう。
「待ちやがれ」
それでも三下の男は喘ぎながら立ち上がると、構えて見せた。
「ほう……」
リュウは感心したように声を出す。
そんなリュウの余裕を苛立たしく睨みながら、三下がドタバタと近づいてくる。
「こんのヤロウ、ブチ殺してやんよ」
ズボンの後ろポケットから抜き出したのは、トカレフ54式拳銃。百年近く前に中国で生み出され、一時期日本で密輸された銃の多くがこのモデルに該当するという、比較的“入手しやすい”銃だ。
「ア、アニキ!」
その姿に勇気を取り戻したのか、革ジャンの三人が弾かれたように立ち上がった。そして、チャッと音を立てながらそれぞれに銃を抜く。
「なるほどな」
それでもリュウは余裕を崩さない。それどころか自分から顔を近づけて銃口を間近に覗き込みさえするのだった。
「テ、テ、テメエ! どこまでもおちょくりやがって……」
三下の男は斜めに構えた銃を突き出す。
革ジャン三人も同じように銃を構え、四人が横一列に並ぶ。
チャッというやけに軽い音を響かせながら。
「もういいよ」
出口に近い方にいた細身の少年が、いい加減に疲れたとばかりに声を出す。
そして掌を天に向けると、その手を一気に頭上にかざした。
「――ッ!!」
その瞬間、横に並んでいた四つの拳銃がまるで強烈な磁力を浴びたかのように一カ所へと集まっていった。
「おいおいおいおい――ッ!!」
チンピラたちの驚愕をよそに吸い寄せられら拳銃は、その持ち主たちがどれだけ力をいれても動かすことができなくなっていた。
「って、えええええ?」
男たちの驚愕をよそに、ノエルは掲げた掌を閉じる。拳が作られると同時に拳銃同士を引きつける力が更に強まっていった。一拍おいてノエルの拳がゆっくりと下方へと下げられていった。その動きに従うように拳銃同士に働く引力が猛烈なまでに勢いを増していく。
「おわあああ――!」
ついに握力で支えることができなくなり、それぞれの銃が持ち主の手から離れてしまった。
四つの塊は凄まじい勢いで加速しながら床面と衝突。カチャッという異様に軽い音が店内に響いた。床上に叩きつけられた拳銃はその場で分解した。だが、それぞれのパーツが床面で弾むことはなく、互いに吸い寄せられるようにパリパリと音を立てながら一つの球形を成していった。パーツそれぞれが重力に抗しきれず、元あった形状をなくしていったのだ。その重力は当然のように周囲の人間にも働いていた。銃を持っていた四人は不自然な姿勢のまま密着した状態で床に縫いつけられていたのだ。
あっけなく返り討ちにあったチンピラ四人の様子を見ていたリュウが太い両腕を組み、憐れみと呆れの混ざった声を出した。
「ハッタリってのは悪手じゃあねえが……」
彼の言葉に呼応するように重力が解除され、球形に組み上がった“拳銃”はプラスチックの破片として山状に重なっていった。
「ライフリングのない銃口を見ても脅威は感じんな」
そして相方に声をかける。
「行くぞ、ノエル」
「うん」
二人は汚い階段を上っていく。
先ほどからずっと鼻腔につきまとっていた悪臭から逃れられて、幾分マシな気分になった。
「じゃ、次に行こうか」
ノエルの言葉にリュウが憮然と頷く。
「誰だ、こんなハズレ案件もってきたヤツは?」
「君だよ」ノエルは呆れたようにリュウにそう言う。
「そうだったか?」
「でも、実際に会ってみないとアタリかハズレかは分かんないしね」
「やれやれ、面倒な話だ」わざとらしく溜息をつくリュウ。「それにしても今日のはホントに大外しだったな……」
ノエルと呼ばれた若者はそれ以上反応を示さなかった。もう既に次のことを考えていたからだ。
すると、ドタバタと階段を駆け上がってくる足音が背後から追いかけてくる。
「懲りねえヤツらだな」
言いながらリュウは右の拳骨を固めた。
どこまでも分からないというのなら、拳で完膚なきまでに言い聞かせるだけだ。
地階から路上に飛び出してきた三下は凄まじい視線をリュウたちに向けてきた。
そのすぐ後に続く手下その1・その2・その3を従えて。
まるで決死の覚悟を決めたかのように。
四人のチンピラは真剣な眼をしながらも、頬をヒクヒクと引き攣らせていた。
額を伝う冷や汗も一筋や二筋ではない。
一歩、また一歩と近づいて来る。半歩踏み込んだだけで間合いに入れるほどの近さだ。
リュウが唇を動かしかけたその瞬間。
四人の男は見事なタイミングで動きをシンクロさせ、その場で両手を地面についた。
「……土下座?」
呆れかえったノエルの声が思わず洩れ出る。
これまで色々とスカウト活動をおこなってきたのだが、このようなパターンは初めてだったのだ。
「さ、さ、さ、先ほどは、申し訳ありませんしたッ!」
「したッ!」
「したッ!」
「したッ!」
三下が絶叫しながら謝罪を述べると、手下三人がエコーでもかけているかのように語尾だけをリピートする。
「なんなんだコイツら?」
「いや、ボクに訊かれても……」
お互いに困惑を隠せないリュウとノエル。
そんな二人にお構いなしに、三下は絶叫した。
「か――かの有名な反逆者組織、レベリオン・ルージュのノエル様とリュウ様とはつい知らず――」
「おいッ!!」
リュウの恫喝が三下の言葉を遮る。
「ひゃい!」
ビクッと体を震わせる三下に向かってリュウは声を低くした。
「往来でその名を口にすんじゃねえ」
三下はビクリと痙攣したように体を震わせた。
思わず舌打ちをしながら、リュウは周囲を見回す。
そこかしこに張り巡らされた監視カメラ。そのうちの何台かは集音機能を有するものだ。だがそれ以上に厄介なのは、自分たちの通り名を聞いた通行人が当局に通報するかもしれないという危険性だ。リュウもノエルも警察にまだ面が割れていないからこそ、こうして堂々と街中でのスカウティングができている。今はまだ、顔を知られるわけにはいかない。それに、使用している偽造IDも記録として残されたくなかった。
ことの重さを知りもせず、しかし三下の男はリュウの憤りを敏感に察した。
「し、失礼しましたぁああああ」
特大の溜息を洩しながら、リュウは訊ねた。
「で、なんなんだ? こっちはもう用ねえんだが」
「そ、それは……」
言い淀む三下。すると手下三人が「親分……」と促す。
「あああああああ……」
「あ?」
「アッシらを!」
「ん?」
「仲間に入れてください!」
「は?」
「あ、いえいえいえ。そうじゃなくて――」三下は慌てて言い直す。「アッシらをアニキたちの手下にしてくださいぃいいいいい!」
そして地面に額をすりつける。
「どうか、お願いしまああああす」
呼応するように手下三人も同じように額を地面につけた。
「無理だ」
アッサリと拒絶するリュウ。
そしてトドメを指すかのように付け加えるノエル。
「あまりにも能力が低すぎるから」
「はっきり言って戦力外もいいところだぜ」続くリュウのダメ押し。
「そ、そんなあ……」
本日一番の情けない表情を浮かべると、三下の男は今にも泣き出しそうな顔を見せるのだった。
「(……なんて情けねえヤツらだ)」
リュウは心の中で呟いていた。
弱い相手には際限なく高圧的に出るが、自分より強い存在には恥も外聞もなく尻尾を振りまくる。
自分の強さを客観的に判断できず、言うことだけは一人前。それでいて逆境に遭うとすぐに泣きを入れてくる。
一匹狼を気取ってはいるが、常に周囲との序列ばかり気にしている小心者。
「(……だが、なんだこれは?)」
さっきからずっと顔を出していた違和感について考えずにいられない。
それは、目の前で情けない姿を晒している三下への嫌悪感では決してなかった。
むしろ、心情的にはその逆。
「(……あ、そうか)」
リュウはそこで得心した。
「(……懐かしさ、か)」
リュウの出身はニア・イーストを北から覆い被さるように位置するノース・サイド。彼の地元は低所得者向け大規模団地へとなるべく完全な更地になって工事を待っている状態だ。言い換えれば、地元の存在そのものが消去されてしまったのだ。元々仲の良かった友人たちはすっかり離散してしまい、消息がつかめているのは数えるほどしかいない。そして、そんな仲間たちのほとんどが、今情けない姿で懇願している三下のような連中ばかりだったのだ。
ふと感じてしまった奇妙な懐かしさ。同時に思い出す、幼馴染みのこと。
「(……そういや、アイツどうしてんだろうな、今?)」
ハンパ者ばかりだった地元で、ただ一人自分と並び立っていた男。
どこまでも強さを求め、決して弱音を吐かなかった男。
強い相手に媚びることをせず、弱者にも優しく接することができる男。
すっかり忘れていたはずの友情を、何故かこんな場所で思い出してしまう。
そんなノスタルジーがリュウの判断力を狂わせてしまっていた。
「ちっ」リュウはわざとらしく舌打ちをした。「しかたねえな」
「君のそういうところ、好きだけど……」ノエルは三下とその手下三人を無表情に眺める。「ほどほどに頼むよ」
「スマンな」
大してすまなさそうな顔をして、リュウは応えた。
「オマエ、名前は?」
そこでリュウは三下の名を問う。
男は途端に眼を輝かせた。
「ア、 アッシは、栄太。松原栄太っていいます」
「そうか。栄太、とっととついてこい」
栄太とその手下三人はお互いに眼を合わせ、喜びに全身を身震いさせた。
「へい、アニキ!」
「そのアニキってのはよせ」
「へ、へい! ……旦那」
「もっとよせ」
「大将?」
「トップはコイツだ」言って親指でノエルを指す。
「じゃ、じゃあえっと……」
「わかった、好きにしやがれ」
「へ、へい! リュウのアニキ」
「か――」思わずこめかみに手を当ててしまうリュウ。
組織に入ったとしてもすぐに音を上げて逃げ出すだろうと思っていた。
そんな栄太たちを敢えて拾ったのは、たまたま。単なる気まぐれだ。
それも、今はない地元へのノスタルジックなメランコリーに過ぎない。
やれやれと溜息をつくリュウ。
しかし、それが後々に禍根を残す大いなる失態であるとを知るのには、まだ時間が必要だった。