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囚われのリベラシオン  作者: つきしまいっせい
2/17

○第二話 隠れていた敵

 三人のテロリストを拘束した後、大地は異変に気づいてしまった。

 彼が量子デバイスを通して知覚している視聴覚情報は、翼が受け取るものとはまるで違う次元のものである。翼が仮想ディスプレイによる映像とスピーカーからの音声によって、つまり眼と耳を通じて情報を取得しているのに対し、大地はセンサーが捉えた情報を電気的信号としてそのまま視床で受け取り、視覚野と聴覚野で認識している。二人の使用している量子デバイスはI/O(Input/Output)において異なるアプローチを採用していた。

 大地のデバイスは入力・出力ともに脳波を介しておこなう。その結果、センサーが感知できる事象であれば人間の眼と耳が識別できない情報も取得することができるのだ。例えば人間の耳では犬笛を聞き取ることはできない。しかしセンサーを介してその“音”を大地は把握することができる。同様に人間の眼では見ることのできない電磁波も、センサーが認識すれば大地には識別可能なのだ。

 量子デバイスを装備した大地は可視光より波長の短い紫外線等の電磁波も、波長の長い赤外線や電波も視ることができていた。


 今、大地の視線の先で、ある箇所においてのみ電波が消えていた。

 空間のそこかしこを満たしているはずの電波が存在しないということは、そこに人為的な改変がなされていることを意味する。

 この状況下、考えられるのは敵の存在のみ。

 大地は相手に悟られないようSync2交信をおこなった。

 翼に異変を伝え、その座標を伝える。

「破――っ!」

 状況を理解した翼はすかさず重水素の放射をぶつけた。

 その衝撃によって敵の穏形が解け、テロリストの身体が露わになったのだ。

「(……うわあっ、いたあ!)」

 キュッと心臓が縮み上がる感覚を受けながら、大地は「ひぃっ!」と情けない悲鳴を洩らす。

 隠れていたのはいかにも屈強そうなテロリスト。

 光の反射を防止するためか、真っ黒に彩色された大型の刃物を手に構えていた。

 肉食獣を思わせる眼光とワイルドな長髪に大地の恐怖心はいや増すばかり。

「(……う、うわぁ……)」

 これまで無力化した三人とは一目見て違いが分かる男の迫力に、大地はすっかり圧されてしまっていた。

「(……、こ、怖そう。こんな人相手に闘うの、無理無理無理ぃ……)」

 これで戦いが終わったかと安心しかけた直後の不意打ち。

 自分で見つけておきながら、大地はすっかり動揺しきっていた。

 むしろ、こんな人だったら見つけるんじゃなかったと後悔し出す有様。

 ――舞、助けて……

 心の中の弱音に反応するように表示されていくインディケーター。

 ――そ、そんな! 無理だよ舞ッ!

 視覚野に現れる表示と、その結末。大地は激しい目眩を感じた。

 当然のように事態は大地の弱気など気にしてくれない。

 そこで表示される、自分が動かないことによる結果予想が大地の尻を蹴飛ばした。

 自らの身体を動かすのは自身の判断と意思。それしかない。

「うわぁああああああああ――ッ!!」

 大地は泣きそうになりながら絶叫していた。


「(……電磁波の回折?)」

 テロリストが隠形できていた理由を翼はそう考えた。

 目の前の空間で電磁波を回折させ、自らの姿を隠す。紛れもなく量子魔法の使い手である。

 ただ隠れていただけなのか、それとも奇襲の機会を窺っていたのか。

 いずれにしても姿を視認した以上、戦闘は不可避となった。

 姿を露見させられたテロリストの男は、漆黒のマチェットを振り上げた。

 素早い切り替えだ。

 肉体的な優位性を活かして、量子魔法ではなく近接格闘戦で二人を倒しにかかってきたのだ。

 男がまず選んだのは翼。体の線がはっきりと分かるそのフォルムから、御しやすそうな少女を先に斃すことにしたのだ。見るからに未成年というその見た目は、男にとって意味をなさなかった。相手がたとえ年端もいかない少女であったとしても、敵であるならば排除するのみ。決まり切った手順に従って男は長い刃物を振り下ろす。

 翼は慌てて追撃の構えを取った。

 脳内で演算を開始し、再び別のポケット・ユニバースへの接続を図る。

 が、なりふり構わず突進してくる迷いのない男の迅速さが僅かに勝っていた。

「(……間に合わないっ!)」

 集中力を欠いてしまった結果、演算はすべて無に帰していた。

 量子魔法を起動させるには、再度計算をやり直さなければならない。

 一瞬ですべてが決まる命のやり取りにおいて、その失敗は致命的であった。

 眼を見開き、マチェットの動きを眼で追う。

 彼女はしかし、奇妙なまでに落ち着いていた。

「――――ッ!!」男の息が漏れる。

 その右手首が拘束されていたからだ。

 半泣きで絶叫しながら飛び出していた大地が男の右サイドへと肉薄し、両手でマチェットの攻撃を食い止めていたのだった。

 男にとってそれは想定外の速さと正確さだった。

 だが男はすぐに落ち着きを取り戻した。

 冷静に大地の身体を観察する。

 見るからに貧弱な大地では相手になるはずもなく、男は余裕の表情を浮かべるのだ。

 

「ひぃいいいいいいい――ッ!!」

 情けない悲鳴を洩た大地は、男の膂力に沈み込みそうになっていた。

 両手で受け止めた右手首はやけにごつごつと硬質で、とても人類の物とは思えなかった。

 到底敵わない筋力の持ち主であることは、触れる前から分かってはいた。が、

 ――うん、分かったよ舞!

 大地は導かれるように動く。迷いなく、だからこそ速く。

 掴んだ両手から僅かに力を抜き、男のマチェットを敢えて振り抜かせる。

 同時にその勢い活かして刃を右側、男の体から離れるように誘導した。

 ほんの僅か、男の右脇が開いた状態になると、大地は掴んだ右手首を更に遠ざけるように引く。同時に体を捻りながら折った右膝を男の脇腹に叩き込んでいた。

 肋骨の下という筋肉のつきにくい部位に向かって膝頭を二度、三度と叩きつける。

 すべては誘導に従った結果だ。

 息を詰まらせる男。しかし安易に声を上げたりはしない。

 そんな反応一つとっても、既に捕らえた三人のテロリストとは明白に異なる出自だと分かる。

 戦闘のプロか、或いは少なくとも相応の訓練を受けていることが見て取れた。

 大地は左肩を密着させ、男の反撃を封じようとしていた。

 威力には劣るものの、適確な攻撃を躊躇なく続ける。

「(……倒れろ、倒れろ、倒れろ、倒れろ)」

 明らかに不利であることを知りながら、それでも懸命に攻撃を続けていく。


 テロリストの男は肋骨にヒビが入っていることを悟った。

 だがそこで戦闘意欲をなくすようなことなどない。

 空いている左手が、胸元のシースに差してある軍用ナイフを引き抜く。

 逆手に持った状態で、男は自身の右肩を見定めた。

 自分自身を傷つけないようにしっかりと照準を定めると、大地の左耳の辺りへと拳を突き出した。逆手に構えた刃で大地の左頸部を斬り裂くように。

 頸動脈を裁ち切り、一瞬にして生命を奪うべく。

 懸命に膝打ちを続けている相手からは、左手の動きに気づいている気配は感じられない。

 一点に集中するあまり、他の部分がガラ空きだったのだ。

 それは、男からすればまるっきり素人の戦いぶりだった。

 テロリストの男は余裕の笑みさえ浮かべていた。

 執拗に繰り返される右肋骨下部への攻撃をいなしながら、慎重に照準を定める。

 一撃で、確実に相手を死に至らせる。

 ゆくりと息を吸いながら攻撃の気配を殺す。

 無防備な敵であっても気は抜かず、あくまでも全力で。

 刃の切れ味はよく知っている。だからこそ大して構える必要はない。

 男はナイフを掴んだ拳を大地の左頸部際にむけて走らせた。

「――――ッ!」

 勝利を確信したその瞬間、男は驚愕に眼を見開いた。

 大地を斬り裂こうとした左手がモーションの途中でピクリとも動かなくなっていたのだ。

 まるで強烈な万力に掴まれたかのように、いっさいの動きが封じられてしまっている。

 慌てて視線を左手に移すと、

「い、いつの間にッ!?」

 そこでようやく声が洩れ出る。

 くの字型の爪三本を備えたマニピュレータが男の左手首をガッシリと拘束していた。

 先ほどまでまったく気配が感じられなかったエンハンスド・エクソスケルトン=強化外骨格(パワードスーツ)

 それが刹那の間にここまで接近していたのだ。

 しかも相手を斬りつけようとした左手を正確に掴み取り、そのくせ止められたという衝撃を見事なまでに吸収している。

 ここまで素早く、そして正確かつ繊細にパワードスーツを操る人間を見たことなどなかった。

 フェイスガードシールドの下で吊り上がる口角を、男は見た。

「オメエ、なかなかだったぜ」

 奇妙な褒め言葉と同時に、パワードスーツの使い手はテロリストの右手首も拘束する。

 圧倒的なパワー差。こうなるとテロリストの腕は一切の動きが不可能だ。

 パワードスーツを操る郷は滑らかに両アームを動かし、男の背後に回り込む。

 後ろ手に拘束された状態で、男は半ば宙に吊られた格好になっていた。

「くッ!」

 余りの手際のよさに為す術もなかった。

 圧倒的な戦闘力の差を見せつけられ、テロリストの男は悔しさに顔を歪ませた。


 そのタイミングで倉庫内の電気が復旧する。

 庫内を照らす電灯によって、その場にいる全員の姿が露わになった。

 囚われた男は陽に灼けた逞しい姿をしていた。

 カールのかかった長めの髪を振り乱しながら視線を前に向ける。

 男はそこで初めて、シルエットではない大地と翼の姿を視認することができた。

 それまで男が見たこともないようなボディスーツと量子デバイスを装備している二人は鏡面加工されたシールドでしっかりと顔を隠していた。

 だがそこで男はカッと眼を見開く。

 フェイスガードシールドで顔はほとんど覆われているものの、大地の髪までは隠しきれない。

「その赤い髪、もしかしてキサマ、“世界線”……なのかッ!?」

 かつて大地に付けられていた“世界線”という名のコードネーム。

 突然その名を呼ばれただけで、大地は自分自身の過去を糾弾されたような錯覚に囚われてしまう。

 思わず狼狽えて脚をもつれさせた。

 シールドの奥に隠れている顔が怯んでいるのが外からはっきり分かるほど、あからさまな動揺を見せるのだった。

 自らの推測が正しいことを知ると、テロリストの男は激昂した。

「キ、キサマ“世界戦”だったのかああああああああ――――ッ!!」

 男は自らが拘束されていることさえ忘れて絶叫していた。

 後ろから押さえているはずの郷が思わずたじろいでしまうほどの迫力が、そして憤りが背中から溢れ出る。

 鬼気迫る勢いに大地は圧倒され、倒れそうになるところを翼に支えられた。

「なぜ、なぜだあああ――――ッ!?」男は叫んでいた。「なぜここにいる、なぜ体制に与している――――ッ!?」

 そして男は白のボディスーツを纏う翼に眼を向けた。

「なぜ、こんな貴族の娘と一緒にいるのだ――――ッ!?」

 倉庫内に響く男の絶叫。

「だ、だって、だって……」

 震えながらもなんとか応えようとしてしまう大地。

 しかしそんな大地を翼が掌を見せて制する。

「答える必要、ないから」

 テロリストと大地の間に割って入ると、翼は両手を広げて大地を庇って見せた。

 だが男の視界に彼女はもはや入っていなかった。男は叫ぶ。

「この国にもはや正義などない!」

 その絶叫は、大地に向けられたモノなのか、或いはその場にいる全員への訴えなのか。

「既得権を積み重ねた官僚は貴族と化し、特権的な身分を世襲させてさえいる。一方で我々下民はそんな貴族たちに搾取され、移動の自由も、教育を受ける権利も、職業を選ぶ意欲までもが奪われているのだ!」

 問う。そして訴える。

「ノース・サイドの養護施設出身のキサマなら分かっているはずではないかッ!? この国のエリートどもが、どれだけ下民を食い物にしているかを。国が傾き、破綻する寸前だというのに連中はひたすら特権を追い求め、自らを省みることもなく贅沢に耽っている。それも下民に逃げ場を与えない官制貧困ビジネスによってだッ! 一刻も早く制裁を加えねばならぬのだ。……それなのになぜ、キサマはここにいるのだ? なぜキサマは我々反体制派を阻んでいるのだ――ッ!?」


 翼の背中にかくまわれながらも、大地は言葉を懸命に探していた。

 2050年の日本という国について、テロリストの男の言うことは何から何までその通りだった。

 だが、大地にはすべきこと、どうしても成し遂げなければならないことがあるのだ。

「……で、でも」

 弱々しく弁明しかけたところで、正面シャッターがゆっくりと開いていった。

 その場にいる全員が視線をそちらに向ける。

「…………」

 入ってきたのは三人の男だった。

 いずれもスーツ姿だが、それぞれが放つ雰囲気が微妙に異なり、ちぐはぐな印象を発していた。

 先頭にいるのはいかにも仕立てのいいスーツを着た、三十を少し過ぎたという見た目の男だった。

 そのすぐ左にいるのは二十代半ばの青年。こちらも身なりはいい。

 少し距離を取りつつ歩いてくるのは四十もとうに超えた中年の男。二人に比べるとややくたびれた格好をしていた。

 すり減った靴とプレスの緩んでいるズボン。頬には髭の剃り残しが目立つ。

 睡眠不足なのか、瞳に生彩はないが、それでも職業規範に則り緊張を保っている。

 いかにもノンキャリの刑事という出で立ちだ。

 無言のまま大地たちに近づくと、刑事ふうの男は身分証を提示する。

「その男を引き渡してもらおうか」

 やや硬い口調で言うと、テロリストの背後に回り込んで手錠を取り出した。

 そして両手首に手錠を通そうとしたその瞬間、

「――――?」

 パワードスーツを操る郷が急にアームを動かしたため、うまく手錠をはめることができなかったのだ。

「尻ぬぐいしてやったんだ。礼の一言ぐらいあってもいいんじゃねえか?」

 冷え冷えとした口調で郷が問う。

「なんだと?」そこで身なりのいい男がようやく口を開いた。「どういうつもりだ?」

「当たり前のことを要求しているだけなんだがな」

 ドスの利いた声で郷は応じた。

 フェイスガードシールドによって顔が隠されているものの、元ヤンである郷は結構な迫力で男たちを威圧した。

 目が醒めるような銀色の髪と顎先に延ばされた無精髭。出自の悪さを語るにはそれだけで十分だというのに、ドスの利いた口調が凶悪さを際立たせる。

 狂犬と呼ばれる郷の恫喝に、身なりのいい男二人が怯んで硬直していた。

 一方で刑事ふうの男はさして動じていない。

『郷、それくらいにしておけ』

 隊長からの命令を聞くと、郷は諦めたように首を傾けた。

「ほらよ」

 拘束しやすいようにテロリストの両手を差し出す。

 チッという舌打ちが一つ。身なりのいい男が発していた。

「行きましょう」

 テロリストが拘束されたのを確認すると、翼が低い声で言う。

 そして自分たちが入ってきた通用口の方向へ歩き出した。

 大地と郷は無言のまま彼女の後を追う。


 郷が破壊したドアをくぐって外に出ると、隊長の滝山が待っていた。

「ご苦労」

 上司の労いに対して、翼は敬礼で応え、大地はオドオドと頭を下げ、そして郷は無反応のまま横を通り抜ける。

「郷」

 滝山は強化外骨格(パワードスーツ)を操る郷の背中に声をかけた。

「なんすか?」

 上司を上司と扱わない、ぞんざいな態度だ。だが、滝山はそんなことを気にする素振りを見せなかった。

「四人目の男だが、どうだったか?」

 郷は顔を少し動かしてから、時間をかけて応えた。

「……まあまあっすね」

「そうか」

 滝山は腕を組み、しばし黙考する。

「出せ」

 そして装甲バンの運転手にそう命じたのだ。


 装甲バンが動き出した音を確認すると、テロリストの男が鋭い口調で訴えた。

「話が違うじゃねえか!」

「なにがかな?」

 応えたのは三十を過ぎた、身なりのいい男だった。

 見るからに仕立てのいいスーツと、ショーファードリブンの後部座席にしか座らないような人間が履く類の革靴という出で立ちは、物流倉庫内で奇妙なまでに浮いていた。

 男は警察()のキャリア官僚である。

 後輩の新人キャリアと、ノンキャリの刑事を引き連れてきた男は、尊大な顔でテロリストの顔を見下ろしていた。

「“世界線”に“ホワイト・メア”だと? 現状最強の二人じゃねえかよ?」

 抗議の言葉を鼻で嗤う。

「だからこそ君には突破してほしかったのだがな」

「ざけんなッ! 連中が相手だって知ってたら、最初からこんな話なんか乗ったりしなかったぜ」

「ま、ここで言い合っても話にならんだろう」

 まったく取り合おうともせず、二人の同行者に顔を向ける。

 若いキャリアとノンキャリの刑事はその意思に応じて動き出す。

「残念ながら計画は失敗に終わった。君が逃走することで彼ら公安量子魔法迎撃部隊=QCFが間抜けの集まりだという風評を立てるつもりだったのだが、仕方あるまい。……というわけでプランBの実行に入る」

「プランB……だと?」

 いぶかるテロリストに向けられていたのは、ノンキャリ刑事の拳銃。

 その銃口が額に近づいてきた。

「な――――ッ!?」

 いつの間にか背後には若いキャリアが立っていて手錠の鎖をしっかりと握っていいる。テロリストの男は動きを封じられていた。

 キャリア官僚が独白のように呟く。

「君を引き渡すとき、強化外骨格(パワードスーツ)の使い手がくだらない嫌がらせをおこなった。その結果きちんと手錠をはめることができず、僅かな緩みが生じてしまった。……君はその隙をついて手錠を外し、我々に向かって量子魔法を放とうとした」

「な、何を言って……」

 唖然とするテロリスト。ノンキャリの刑事が拳銃のセーフティを外す。

「我々はやむを得ず自衛行動を取る。結果君は銃撃を受けて……」

「キ、キサマ――ッ!!」

 両手を後ろ手に拘束された状態でもテロリストは前に出ようとする。しかし、しっかりと手首に食い込んでいる手錠のせいでその動きもままならない。

「これも彼らの失態ということにしておけば、少しは我々の気も晴れるかな?」

「――――なッ!?」

 テロリストの男はこれから起ころうとすることを受け入れられず、ただただ驚愕していた。

 裏の取引で今回の任務を成し遂げれば仲間三人を含めてこのまま逃走を許してもらえるという“約束”だった。だがその目的はQCFの評判を下げるためという実に幼稚な動機によるものだったのだ。そして失敗の見返りに、恐らく証拠隠滅のために自分を亡き者にしようという。

 いや、もしかしたら最初からそのつもりだったのかもしれない。QCFの最強メンバーを相手に自分が逃走できるはずもなかったのだ。

「逃げ切ればよかっただけの話ではないか」

 キャリア官僚の男は呆れたように洩すとノンキャリに視線を移す。

“やれ”と言おうとすらしない。

 官僚貴族と呼ばれる彼らキャリアにとっては、低所得者や社会的弱者は人間ですらない。彼らは物心ついた頃からそう教育され、選民意識を当たり前のように身に着けている。だから自らのプライドのために弱者を犠牲にすることに躊躇いなどない。社会的に抹殺しようが、実際に命を奪おうが心が痛むこともない。

 彼ら貴族と、下民と呼ばれる低所得者の間にある差とは、単純に生まれの違いだけだった。

 貴族の長子として生まれればキャリア官僚になって経済的に恵まれた人生が保証される。

 下民の子として生まれれば、どれだけ努力しても教育の機会は限られてしまい、いい仕事も得られない。最初から貧困を運命づけられているのだ。


 後ろ手に手錠をかけられているとはいえ、屈強な男が殺されまいと必死の抵抗を見せる。

 至近距離であるが故に、ノンキャリの刑事は引き金を引くことができなかった。

 背後で手錠を握る若手キャリアを引き摺るようにしてテロリストは突進を試みてきた。

「おわっ!」

 拳銃を持つ手を危うく噛みつかれそうになり、ノンキャリの刑事は思わず声を上げてしまった。それなりに修羅場をくぐり抜けてきた刑事ではあったが、筋骨逞しい男が本気で暴れる動きにうまく対応できない。

「どうした、早くやれ!」キャリアの男がヒステリックに叫んだ。「撃て、とっとと撃つんだ!」

 叱責を受けて懸命に銃を構える。

 だがテロリストの動きが激しすぎて、ともすれば背後にいる若いキャリアが被弾してしまうかもしれなかった。刑事はその事態を何よりも怖れていた。そんなことになれば自分のクビが吹き飛ぶだけでは済まされないのだ。

「ク、クソ……」

 両手で構えた拳銃をテロリストの頭に向けたまま、刑事は左側に回り込む。側方から銃撃することで流れ弾を防ぐことができそうだった。そして突き抜けた銃弾によって噴き出す血流が若い官僚の服を汚さずに済む。そうしている間に若い官僚はテロリストの背中に右足の靴底を押しつけ、両手で握り締めた手錠を全力で引っ張る。

「がぁあああああ――――ッ!!」

 獣のような声を上げ、凄まじい勢いで刑事を睨みつけるテロリスト。

 キャリア官僚はそこでイヤそうな表情を浮かべながらゴムの手袋をはめる。

 医者が手術の際に使用する薄手の使い捨てゴム手袋だ。

 そしてテロリストの髪を掴み、頭を動かせないように固定すると、ノンキャリの刑事に命じた。

「撃て」

 刑事は両手で構えた拳銃をテロリストのこめかみに近づけた。

 交戦できない相手を一方的に射殺することに抵抗がないわけではない。

 そして、いつ自分もこのテロリストと同じように切り捨てられるかもわからない。

 だが、それでも従うという選択肢以外はないのだ。

 圧倒的なまでの身分差という圧力によって、人殺しの罪を負わなければならないのだ。

「(……スマンな)」

 心の中でそう呟くと、刑事は大きく息を吸い込み、指先に意識を集中させていった。

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