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囚われのリベラシオン  作者: つきしまいっせい
1/17

○序章/○第一話 量子魔法戦

○序章


 現代物理学の双璧とされる相対性理論と量子力学。

 前者がほぼアルベルト・アインシュタイン一人によって打ち立てられたのに対し、後者は何十人、何百人もの予測と議論、そして技術革新をも必要とする検証行為によって積み上げられてきた。ギザのピラミッドを思わせる精緻かつ繊細な、人類英知の結晶だ。しかしその量子力学にも説明できていないものがある。重力、この宇宙の大半を占めるというダークエネルギーとダークマター。そして、量子論が予測する多世界解釈などだ。

 この物語は量子コンピューティングが多世界=パラレルワールドによって稼働するという前提に基づいて書かれている。また、人間原理に端を発するランドスケープ宇宙論、即ち宇宙が無数に発生し続けており、それら宇宙は別々の物理定数を持っているという予測が、量子魔法の根源であるとの考えから成り立っている。


○第一話 量子魔法戦


「(……うわぁ、いつ見てもすごいな……)」

 黒布で覆われた中、スチール製の扉を解体していくエンハンスド・エクソスケルトン=強化外骨格(パワードスーツ)

 ドア板とフレームの間に幅広のバールを突き刺し、ゆっくりと梃子の動きを加えることで、閉ざされたドアをこじ開けているのだ。

 錠がかけられるドアノブの側ではなく、蝶番のある方を壊す。多くの場合、扉を支えるのはたった二箇所の蝶番であり、そこさえ外せば頑強なドアでもあっさりと口を開くからだ。対してドアノブのある側では錠が一箇所とは限らず、二重鍵やチェーンロックなどで思わぬ時間を取られてしまう可能性がある。鉄則に従って、粛々と作業が進められていた。

「(……ほんと、すごい!)」

 大地は息を呑む。

 パワードスーツの高出力をもってすれば、倉庫壁面に取り付けられた通用口など一瞬にして破壊することが可能だ。しかし敵に気づかれないように騒音を立てず、しかも迅速に実行するとなると話は別になる。一秒間に十数段階での強弱を付け、微妙なコントロールをおこなうという離れ業はそうそうできるものではない。しかもその出力調整は脳波を通じておこなうBMI=ブレイン・マシン・インターフェイス。手足の動き一切がその操作に必要とされないのだ。適性のない人間ならば簡単な動作すらままならない操作系だ。その難易度をよく知っているが故に、大地は感嘆を禁じ得ないのだった。

 グニャリと曲げられたドアから蝶番が音もなく引き千切られていくさなか、少女の低い声が響いた。

「集中して」

 十代の少女にしてはやけに低く、抑揚に欠き、それでいて有無を言わさない口調だ。

 人によってはひどく冷たい印象を受けてしまうような話し方だ。

 声の主は、作り物のように整った顔立ちをしていた。それはどこか非現実的ですらある美しさだった。

 大地は我に返り、

「あ、いけない」思わず声に出してしまう。

 何かに気を取られるとついそこに意識を集中させてしまうというのは大地の悪い癖だった。

「ゴ、ゴメン」

 弱々しい謝罪に対して、少女が無言のまま頷きを返した。

「終わったぜ」

 パワードスーツを操作していた青年が低い声を出す。

『翼、大地、Sync2の準備はできているか?』

 間髪を入れずに響く隊長からの通信。

「はい、できています」翼と呼ばれた少女が表情を変えずに応じた。

『タイミングは任せる。行け』

 了解と告げると、翼が先行して中に入っていった。

 彼女が身に纏うのは純白のボディスーツ。頭部に装着しているのは密閉型ヘッドフォンのような形状をした量子デバイスだ。ブリッジ部分が前頭部にかかっている“フォアヘッド型”と呼ばれる型式である。体の動きに合わせて揺れる、ポニーテールにした長い黒髪。その髪をまとめるのは眼にも眩しい真っ赤なリボンだ。ヘッドフォンのスピーカーを支柱としたフェイスガードシールドを下ろしながら彼女は口を開いた。

「エンゲージ」

 鏡面加工されたフェイスガードシールドの内側で仮想ディスプレイが展開されていく。そこでは頭部に設置された視覚センサーが捉えた映像が表示されていた。真っ暗な倉庫の中、デバイスは自動的に暗視モードになって緑と黒を基調とした光景が広がっていく。扉の向こうはフォークリフトが荷揚げ、荷下ろしをおこなうスペースになっており、左右には三段構造のスチールラックが並んでいた。ラックには段ボール箱をぎっしりと積んだパレットが隙間なく配置されていて、左右の視界を塞ぐ形になっていた。


 翼が慎重な足取りで進むその後ろで、大地は立ち止まっていた。

 視界の先に広がる漆黒の空間に、そしてその奥で待ち構えているだろう敵のことを想像した途端、思わず脚が震えてしまっていたのだ。

「行かなくっちゃ……、行かなくっちゃ行かなくっちゃ……」

 自分の脚に言い聞かせて前に進もうとする。

 大地の格好は、肩や肘、胸部にプロテクターを装着したボディスーツ。近接戦闘を想定した勇壮な装備ではあるが、まるっきり腰が退けた姿勢ではすべてが台無しだった。

「ビビッてんのか?」

 パワードスーツで壊れたドアを支えている青年――郷がからかい半分に訊ねてきた。

 ヒソヒソ声で囁くのではなく、低いトーンのくぐもった声にすることで可聴範囲を狭めながら、郷は大地に語りかける。

「ムリすることもねぇんだぜ」皮肉そうな口調からは抑えきれない不満が洩れ出ていた。「元々、警察(ヤツラ)の落ち度なワケだしな」

 先行していた翼が立ち止まり、わざとらしく振り返ってから顔を郷に向けた。

 鏡面加工されたシールドの奥で彼女が自分をキッと睨んでいるのを察すると、郷は肩を竦めてみせる。だがその口は止まらない。

「それになんなんだ、人数が一から三って? いい加減にも程があるってもんだろうが?」

 大地の眼には隠しきれない恐怖の色。

 しかし、それでも暗闇を凝視し、懸命に震える脚を前に出そうとしていた。

「で、でも……」

 ゴニョゴニョと言い返そうとする大地だが、郷は敢えて話を続ける。口調に反して妙に冷静な視線を大地に向けながら。その反応を探るように。

「連中が逃がしたんだから、連中が捕まえりゃあいいんだ。数にモノを言わせてやりゃ、簡単なコトじゃねぇか?」


 最大三人の賊を取り逃がし、物流倉庫の中に立てこもらせてしまった。

 しかし周囲を包囲していぶり出せば呆気なく解決することが可能なはずだ。

 賊が籠城するにしても何日も保つとは思えず、投降してくるのは時間の問題。

 何より犠牲を負うリスクがなくなる。

 だが、警察を含めた当局としては、できるだけこの件を内密に処理したいと考えていた。

 とにかく人目に晒したくないのだ。

 目撃者が増えて、その様子をネットに晒された挙げ句に拡散されてしまう、というのが考えられる最悪の結末だ。

 量子魔法を悪用した犯罪、特にテロ行為はとにかく“なかったこと”にしたいというのが彼らの本音。

 今、大地たちがここに招集されて、秘密裏に解決することを望まれているのもそのせいだ。

 彼らが所属するのは量子魔法犯罪に対処するための組織、公安量子魔法迎撃部隊=QCF。

 かつては警察の一部局でその構成員もほとんどが成人した警察官であったが、直近に大幅な組織改革があり、またその所属も内閣府に移されている。メンバーも一部を除いてほぼ全面刷新された。そのため警察との関係は必ずしも良好と言えるものではない。緊急招集された場合でも、与えられる情報が不十分ということは日常茶飯事であった。


「どうすんだ?」からかい半分という口調で郷が訊ねた。

 大地たちには一応の選択肢はある。危険だと判断すれば撤退するのも自由だ。だが、

「オレ、やるよ。……ポイント欲しいし」

 大地が声を絞り出す。

 本音は今すぐにでも逃げ出したい。

 しかし大地には、そして目の前で悪態をついている郷にも成すべきことがあるのだ。

 郷はふっと息を洩らした。まるでそんな大地の返事を待っていたかのように頷くと、魔法の言葉を口にする。

「そうだな、茜のために」

 一瞬の間を置いて、大地は顔を郷に向けた。

「うん、茜姉ぇのためにっ!」

 大事なことを指摘された大地は、そこで懸命にマインドを切り替え始める。

 震える脚と怯える心に鞭を打って暗闇を見据えた。

 そして大きく息を吸い、やたら激しく脈打つ心臓に手を当てる。

「(……集中、集中、集中)」

 決意を固めるとフェイスガードシールドを下ろすのだった。

「エンゲージ!」

 彼が頭部に装備しているのはヘッドフォンのブリッジ部分が後頭部にかかる“リアヘッド型”と呼ばれる量子デバイスだ。ハードウェアとしては翼の装備している“リアヘッド型”よりは一般的な形状だが、インターフェースは何世代分も先に進んでいるものだ。

 今この瞬間、大地の視覚野と聴覚野では翼とはまるで別の情報処理がなされていた。

 

 大地は翼に続いて、ゆっくりと暗闇の中を進んでいく。

「茜姉ぇのため茜姉ぇのため茜姉ぇのため茜姉ぇのため茜姉ぇのため茜姉ぇのため……」何かに囚われたように、そう繰り返しながら。

 赤羽大地(あかばだいち)という少年が置かれた状況を喩えるなら、中学を卒業したばかりでありながら何十億円もの借金を背負っているようなものだった。

 返済に必要なのは“社会貢献ポイント”と呼ばれる点数だ。通常なら一生かかっても獲得できるはずのない膨大なポイントが彼には課されている。しかし大地には完済し得るだけの資質があった。それは、量子魔法と呼ばれる異能だ。

 

 一切の電灯が切れている夜の倉庫の中、周囲を警戒しながらゆっくりと歩を進める翼と大地。

 真夜中でも点灯が義務づけられている非常扉の標識さえも消灯してあり、また壁面の高い部分にしつらえられている採光用の窓も遮光性の高いカーテンによって閉ざされていた。流れのない空気に留まっている機械油と埃っぽいダンボール箱の匂い。整然と置かれている荷物から漂ってくる、昼間の喧噪の余韻。

 不自然な光景に、“罠”という疑いを強めながら奥へ行き、中央通路をビクビクと窺うように大地が頭を出した。荷物の出し入れをおこなう正面シャッターに向かって真っ直ぐに伸びる広めの通路。その両脇には二階の高さにも及ぶスチールラックが規則正しい間隔で並んでいる。

「――っ!?」

 大地は慌てて体を引っ込めた。

 通路を左に曲がったその先、20メートル程度の位置には密集した人影があったからだ。しかもその数は優に十を超えている。

 敵の攻撃を予期して反撃の体勢を取る。が、周囲は静寂のまま。

 これといった反応がなかった。

 大地はふうっと溜息を吐いた。

「(……人形?)」

 大地と翼は互いの顔に眼を向け、それぞれが抱いた疑問を確認する。

 翼の装備するサーモセンサーに反応はなく、従って敵の気配は感知できない。

 奇妙な光景だ。通路のど真ん中、それもわざわざラックとラックの間を塞ぐように十体以上の等身大人形を配置しているのだ。

 物言わぬ人形の群れは倉庫内のオペレーションを考えるならば、不合理の一言に尽きた。

 翼は天井を含めて周囲を改めて観察する。荷役に使用するのだろうか、見慣れない器具が天井に吊り下げられている程度で、自分たちを見ている眼は見つからない。

 翼がハンドサインを見せてから先行していく。

「(……あっ)」

 視界の端を掠めていくのは、“Gインセクトイド”と呼ばれる昆虫型の小型ロボットだった。

 台所の嫌われ者“G”が持つ構造を応用して作られたそれは、静音にして隠密性に優れた偵察用のツールだ。垂直の壁面においても落下することなく自由自在に動き回ることができる。

 ――舞、助けて!

 大地は強く念じながら、翼の背中を眼で追った。


 警戒をしつつも人形に近づいていく翼。その間にも翼はめまぐるしく眼球を動かす。彼女の動作に応じて仮想モニターに表示される光景が素早くスクロールされていった。顔を動かす必要はない。眼の動きに応答して360度に廻らされたセンサーが視覚映像を送り込んでくれるのだ。同時に聴覚センサーの感度を高めていく。異音が発生すれば、スクリーン上にその音源方向が提示される仕組みになっていた。

 ゆっくり、慎重にマネキンへと進んでいく。

 次々とスクロールされていく景色の中、人影どころかネズミ一匹も見当たらない。

 聞こえてくるのも自らが発する微かな靴音と、普段なら意識することさえない量子デバイスの稼働音のみ。

 じわり、じわりとマネキンへと近づいていき、その距離が3mを切ったところで、カチリという微音が響いた。インディケーターが示す音源は自分たちの足許。

 ハッとした翼は反射的に顔を動かしていた。その瞬間、天井に設置されていた投光器三台が二人を射抜く。

「――――ッ!!」

 暗闇に馴れた眼に向かって、強烈な光量が襲いかかる。裸眼であったなら数十秒は視界が奪われてしまっていたところだ。だが翼のフェイスガードシールドの内側で展開される映像は、このような急激な光の変化から網膜を守るために、一定以上の変化を反映させないようにしている。そのため彼女が光の残像で視界を失うことはなかった。だが、同時に反応したサーモセンサーによって判断力が一瞬だが奪われてしまう。十数体もの等身大人形が熱を放ち始めたのだ。それも体の中心部が赤みがかった、あたかも生きている人間と同じような温度分布だ。そのため翼は、マネキンの中に隠れて熱源の漏出を隠していた敵が飛び出してきたことも、その掌が自分に向けられて量子魔法が発動されたことも認識するのに一呼吸かかってしまったのだ。


「ひぃいいいいいいい――ッ!!」

 大地の情けない悲鳴が倉庫内で響き渡る。

「(……やっぱり、いたぁあああああああ)」

 予期していたとはいえ、敵の襲撃を前に大地の心臓が縮み上がる。

 さっきからバクバクと震えていた心臓が早鐘となって鳴り響く。

 頭の中は真っ白だ。

 とにかく逃げたい。すべてを投げ打って、後方へ走り去りたい。

「(……怖い怖い怖い怖い怖い怖い)」

 しかし、そんな瞬間にも大量の情報が情け容赦なく大地の脳内に流れ込んでいた。

“Gインセクトイド”の背中に取り付けられたカメラからの映像。そこから類推される敵の挙動。そして地面からは察知できなかった存在。

 大地の視覚野に現れたのは、敵テロリストが放とうとする量子魔法の種類と推測される威力、そしてその射線と攻撃範囲。

 それが真っ直ぐに、翼に向けられているのだ。

「翼ぁあああああ――ッ!」

 表示され続ける射線に意識を向けながら、翼の手首を掴むと斜め後ろに引っ張る。左の踵を支点にして円運動を描きながら、右手を使って翼を左後方に押し出す。

 その反動を利用して、自らの身体を射線に晒すのだった。

 翼の「えっ!?」という声を聞きながらも、大地は身構えた。

 余りの怖さに涙目を通り越して、完全に涙が出ていた。

「ぐはぁッ!」

 よろめきながら翼の脇へと転がり込む。

「大地っ!」

 慌てて近寄る翼に向かって、大地は掌を見せて大丈夫というポーズを無理矢理に作る。

 吹き飛ばされていた右肩のパッド。しかし流血には至っていない。

 それは予測通りの結末だった。

「衝撃弾?」

 翼は敵の量子魔法を推測する。大地の受けたダメージからすると攻撃力は低い。それに拳銃の弾に近い挙動であるならば、自分たちに分があるはずだ。ならば一旦体勢を整えてから……。

「出るね正面のは任せるからぁあああああああ――――ッ!!」

 翼が対応を考えている刹那、大地は裏返った声で絶叫しながら通路の右側を疾走する。

 無謀に過ぎる、危険な動きだった。しかしそれが最適解である以上、大地には他の選択肢がない。完全に泣きながら大地は全力で疾駆する。

 幸いなことに、涙で視界が塞がれることはないのだ。

「ちょっ、大地――っ?」

 それはキレたいじめられっ子が見せるグルグルパンチのような捨て身の無謀さだった。

 がむしゃらに駆け出す大地の背中を見た翼は、そこで思考を放棄する。大地が動いたということはそれなりに確証があるからだ。

 彼女は、大地を信じていた。それは盲信という表現が相応しいほどに。

 そしてその奥にある存在も、渋々ながら認めざるを得ない。

 そこからの翼は速い。

 肩幅に開いた両足を横に滑らせた翼は、攻撃の構えに入っていた。

 五本の指を真っ直ぐに揃えた左の掌を正面に向け、その甲に右掌を重ねる。

 脳内で開始される演算。

 彼女が装備している量子デバイスのブリッジ部分。そこには量子コンピュータの中核を成すシェル状のユニットが格納されていた。内部にあるのはニオブという金属にジョセフソン接合を施した超伝導量子干渉計=SQUID(スクイド)。ずんぐりとしたリングであるが、人間の指にはめるには経が小さすぎるため、研究者の間では“ホビットの指輪”と呼ばれているものだ。シェル内で極低温に冷却されたSQUIDに電流を(正確には電子を)流して超伝導を起こすと常識では考えられない現象が発生する。電流が右回りになると同時に左回りにもなるのだ! これはこの現象を発見したブライアン・D・ジョセフソンの名を取ってジョセフソン効果と呼ばれている。

 電気の流れは磁力の流れを生み出す。

 リングを右回りに進む電流の生み出す磁流と、左回りに進む電流が生み出す磁流はそれぞれ違う向きを持っている。これは右回りでもあり左回りでもあるという、量子論の表現を使えば“重ね合わせ”の状態である。

 この同時に二つの方向を持つ磁流を量子ビット、即ち通常のコンピュータでいうトランジスタ代わりとすることで機能するのが量子コンピュータだ。

 一般的なフォン・ノイマン型コンピュータがすべての可能性を総当たり式に計算するのに対して、量子コンピュータはあらゆる可能性をたった一回の計算で成し遂げる(とはいえ、量子コンピュータは確率的な存在なので何回かの検算をする必要があるのだが)。そしてこの特性は、量子論が予測してきた()()()()()を支持するものでもあった。


 翼は脳内で膨大な計算を実行する。

 この世界だけではなく、並行世界(パラレルワールド)を利用して一気に計算をおこなうのだ。

 演算が一定規模を超えた瞬間、つまり計算に巻き込む並行世界の数が一定範囲を超えた時、彼女の周囲で三次元空間の歪みが生じ、それは時空の“破れ”を引き起こす。

 空間の破れ自体は珍しいことではない。それは頻繁に発生している事象だ。そして破れが生じると、一つ少ない次元によって塞がれ、状態が修復される。例えば三次元空間の破れは二次元空間によって塞がれるのだ。だがその規模が大きければ何もないままでは済まされない。量子コンピュータの使用による空間の歪みが大きすぎると、そこに一瞬だけワームホールが発生し、別の宇宙=ポケット・ユニバースへと接続してしまう。

 彼女がつながっているのは誕生後、間もない宇宙。

 原始物質が超高温、超高圧で煮えたぎっているポケット・ユニバースだ。

 我々人類が存在する宇宙でいえば、宇宙誕生から宇宙の晴れ上がりまでの38万年間に該当する時期である。

 翼の左掌のすぐ先に真円が浮かび上がる。

「破――っ!」

 彼女の発声がトリガーとなり、原始物質が円形をしたワームホールを経由して溢れ出る。

 凄まじいまでの温度差と圧力差によって、一方的に物質がこちらの宇宙に流入してくるのだ。

 だが流入してきたばかりの物質は、まだ元いた宇宙の物理定数に従っている。

 超高温・超高圧状態から解放された原始物質はこの宇宙よりも定数の大きい“強い力”によって結合を開始する。アップクォークとダウンクォークは一瞬にして陽子および中性子を形成した後に重水素原子核を成す。そこに強烈な“電磁気力”が作用して電子が結合し、大量の重水素が生み出されていった。ごく微量の軽水素とトリチウムも同時に発生する。もっともトリチウムはあまりにも少量すぎるため、人体に悪影響を及ぼすほどには至らない。

 超高温、超高圧の勢いをそのままに重水素の奔流が翼の掌の先から生まれ、目映い光子の渦を伴って放たれる放射は、眼前の人形を一息に吹き飛ばしていった。

「おわッ!?」

 焦点を敢えてぼかし、攻撃対象を広く取った重水素放射によって質量の軽い人形が飛散していく。その後で残された形になったテロリストが、踏鞴を踏みながら情けない声を上げてしまっていた。

 その間隙を突いて大地が右腕を引き絞り、罠――恐らくは地面に埋め込まれた感圧式センサーがあった場所で体を右に回転させる。同時に斜め上方に向けて掌底を突き出していた。

「(……ごめんなさぁあああああああい)斬――ッ!」

 大地が繋がっているのは宇宙定数が極端に大きいポケット・ユニバース。

 宇宙誕生と同時に爆発的な空間拡大を続け、その勢いが加速していくために物質が基礎的な原子すら形成することのない並行宇宙だ。そこから溢れ出たダークエネルギーが、この宇宙で尚も拡大を続けながら空間との断層を生んでいく。結果、弧を描く空間の境界線、即ち斬撃を発生させるのだ。

「――ッ!?」

 極限まで細くして研ぎ澄ました針のように、貫通したという衝撃すら感じさせない。

 だから遮光フィールドを展開してラックの上に隠れていたテロリストは、攻撃のモーションを取ろうとした瞬間になってようやく自らの肩を貫く激痛を感じ取ったのだ。

「ぐぅああああああ」余りの痛みに思わず悲鳴を洩してしまう。

 タイミングを同じくして響く翼の声。

「破――っ!」

 翼の放射によってもんどり打って倒れる敵に気を取られることなく、大地は体を反転させた。

 通路左側に向かってダイブするように滑り込みながら体を反転させて仰向けになる。床上をスライドしながらもう一度掌底を突き出していた。

「(……ほんと、ごめんなさぁあああああああい)斬――ッ!」

 再度放たれた斬撃はパレットに積まれた段ボールと、その上の鉄板を撃ち抜いても勢いを失わず、もう一人の敵の右の外股を斬り裂いていた。

「うぐぁッ!」

 苦鳴を上げるテロリスト。

 その痛々しさに大地は思わず顔を歪めてしまっていた。

 それでも大地は素早い身のこなしで立ち上がると荷物を踏み台にして跳躍。頭の中でごめんなさいごめんなさいと謝罪の念を繰り返しながらラックの棚板をステップ代わりにして更に飛翔する。三角飛びの要領で最上部に上ると斬撃の構えを取った。

「――ッ!!」

 驚愕するテロリストに向かって、掌底を突き出す。

「斬――ッ!」

 躊躇なく撃ち放たれた斬撃は、テロリストの装備していた量子デバイスのコアを正確に撃ち抜き、敵の無力化に成功する。相手が機械や道具であるならば、そこに躊躇いは微塵もない。

 大地は視線を右側に移すと、同じようにラックの上で倒れたままの敵のデバイスを斬撃で破壊した。

 

「対象三名を確保しました」

 無力化したテロリスト三人を後ろ手に縛り上げて一カ所にまとめると翼は隊長にそう報告した。隣では大地が「ごめんなさいごめんなさい」と謝罪を繰り返しながら止血処置を施していた。

『分かった。郷をそっちへ向かわせる』

 あとは駆けつけてくる警察に三人を引き渡せばミッションは終了だ。

 周囲に対する警戒は維持しつつも、緊張は自ずと緩んでいく。

 報告によると逃走してこの倉庫に立て込んだテロリストの数は最大で三。

 全員を拘束した計算になる。

「――?」

 安堵しかけた翼。だが仮想ディスプレイ内、右上の部分で“Sync2”のサインが表示されていた。交信許可を求めているのは大地だ。翼はすぐ隣にいる大地に声をかけることなく、ディスプレイ上のサインに向かって二回瞬きをおこなう。承認という動作が認識されると同時にSync2交信が開始された。

「――どうしたの?」

 Sync2交信においては音声を介さない表層的なコミュニケーションが可能になっている。このレベルにおいては簡素な言語による意思疎通と、デバイスによる視聴覚情報の共有が可能だ。今二人は声と耳を使用しないコミュニケーションを成立させていた。

「――あっち……」大地からの応答と同時に、倉庫の入口付近にカーソルが表示されていった。

 翼は顔を動かさずに眼球の動きで画面をスクロールさせ、その方向を見る。

 多少映像に乱れはあるものの異常は見受けられなかった。

 その乱れにしても暗視モードではさして珍しい現象ではなく、まったくの許容範囲内だ。

「――えっと……」大地が控えめに語る。「あそこだけヘンなんだ」

 翼は敢えて顔を動かした。ただし入口の方ではなく、その反対側に。あたかも味方の到着を待っているかのように。

「――どんなふうに?」

「――あそこだけ、電波が流れてないんだ」

「(……電波が?)」

「――電波がキレイに消えてるんだ」

 その意味を把握すると同時に翼は踵を返した。

 一つにまとめた長い黒髪が一呼吸遅れてからさっと揺れる。

 異変のある方向へ向けられる左掌と、重ねた右の掌。

「破――っ!」

 翼が重水素の放射をおこなった。人形の群れを吹き飛ばした時とは違い、大地の示した箇所をピンポイントで射貫くよう照準範囲を絞って。

 直後に響いたのは、壁を打つ鈍い音。

 鋭い重水素の放射は確かに“それ”を弾き飛ばしていた。

 衝撃で量子デバイスが強制停止(デコヒーレンス)を起こしたのか、穏形が解ける。

「――えっ!?」

 露わになったのは、見るからに鍛え上げられた男の姿。

 漆黒のマチェットを手にした四人目のテロリストが、その場所に潜んでいたのだ。

修正履歴

19/1/16:“バグG”→“Gインセクトイド”に名称変更。

19/2/2:序章部分を追加。

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