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扉の先は、教会裏に建つ大きな城へと続く中庭だった。色彩豊かな花々が整然と並び、城の上階から見下ろせば幾何学模様に見えるように剪定された植木の数々。小さいながらも噴水まで整備されている。
教会本部なぞ、こんなものだろうと密かに息を吐き出し、先を歩くスティリオーニャの背を追った。
本部への扉をくぐれば、祭服をきた男女を何人も見かけた。が、白ではなく黒の祭服。地位の違いなのだと即座に判断した。その証拠に、部外者が本部へ足を踏み入れているのに、誰も注意をしない。それどころか、頭を下げ、道を譲るのだ。
これで何もわからなければただの鈍感だと、レティは胸中で嘲笑う。
ひとつの扉が、スティリオーニャの手により無造作に開かれた。ブロンズのプレートには『応接室』と書かれている。
柔らかそうな上質のソファとガラス天板のテーブル。奥には暖炉があるこぢんまりとした部屋だった。
「好きな場所に座って頂戴。私はお茶とお菓子を持ってくるわ」
鼻歌でも奏でそうなほど、女は上機嫌だった。
入ってきた扉とは別の扉にその背が消える。恐らくそこは簡単な道具が置いてある簡易キッチンなのだろう。
「ねえ、じいや。あの女の胸飾り…」
『きな臭いの』
スティリオーニャの左胸には、ブローチが煌いていた。例に漏れず、闇女神だった。しかし、祈りの為に組んでいる手が、小さな宝石を大事そうに包み込んでいた。
「あれ、『魔眼』だったね」
ルビーと言うには黒く、オニキスと言うには赤かった美しい宝石。
「『魔神』の眼だった…」
アクアマリンの双眸が、鋭さを増した。
広く深い魔界には、およそ五千年と言う気が遠くなる程の時を生きた高位悪魔がいる。長く生きれば、知恵がつき、戯れのように人間を害するものが出てくる。
魔界の住人が狭間界を訪う為には、二つ。
一つは、正規の入界方法。狭間界の住人からの招待、所謂、召喚術である。
一つは、禁じ手。稀に起こる空間の歪み『渦』を利用して狭間界へ入り込む方法である。
召喚術による入界は、様々な制約に縛られ、正規の入界者として召喚者と同じ場所に『印』が現れる。しかし、一方で禁じ手は、強制的に入界をした影響なのか、理性が歪み、己が本能と欲に忠実な『魔神』へと変格してしまうのだ。
そして、『魔神』には枷となる制約が無い。故に、人の欲望を刺激し、契約を行い、『印』のかわりに自分の『眼』を与え、願いが成就した暁には対価として契約者の魂を喰らうのである。
「まあ、大人しく食べられてくれる分には構わないのだけれど…今回はそうはいかないでしょうね。年単位の契約をしているはずなのに、狂っている気配が一切ないもの。…何にせよ、あの女は助からないわね」
『そうじゃな…『魔眼』があれだけ赤黒くなってしまえば…手遅れじゃ』
契約したばかりの『魔眼』は、美しい紅玉をしており、赤黒く変色したそれは、機が熟した証拠である。
「なら、あの女の魂、暴走する前に貰わなくちゃね」
ふと、人の気配を感じ、レティは口を閉ざした。
「おまたせ。遅くなっちゃってごめんなさい」
再び現れたスティリオーニャに、レティは子供らしい笑みを浮かべて「大丈夫です」と首を横に振った。
スティリオーニャが持つトレイには、柔らかな湯気がたゆたうティーカップが二つと、切り分けられたシフォンケーキをのせたお皿が二つ。
「昨日作ったケーキも残っていたから、一緒にどうかしらと思ってついでに持って来てみたの。食べられるかしら?」
トレイをテーブルに置きながら首を傾げたスティリオーニャに、レティは嬉しそうにはにかみながら頷いた。
「ケーキなんて久しぶりに食べます。美味しそう!本当に良いんですか?」
子供らしいきらきらとした眼差しで問えば、スティリオーニャは「もちろんよ!」とレティの前にティーセットを並べた。
レティの視線が、並べられたカップとケーキをちらりと撫でる。ケーキは普通に美味しそうなクリーム色をしているが、紅茶が注がれているカップには、赤黒い靄が薄らと湯気に混じっている。
『ほう?この女は、お前を贄と定めておるようじゃな…』
くつり、くつり。
笑いを含んだ翁の声に、レティは胸中で呆れたように深く息を吐き出した。
赤黒い靄は、ただの人には見えない。そして、人が体内に取り込めば一種の催眠状態に陥り、思い通りに操る事が出来るのだ。
しかし、レティはあえてそれを飲んだ。只人であるならばゆっくりと体内に浸透し傀儡となるだろうが、レティにはそんなもの関係がない。毒にも薬にもならぬ微々たるものだ。
「うん、美味しい…」
温かな飲み物は、体にじんわりと温かさを広げ、緊張を少しだけ解す。例に漏れず、レティも脱力するかのように小さく息を吐き出した。
「本当?良かったわ」
スティリオーニャは、変わらず柔和な笑みを浮かべている。しかし、レティは気付いていた。その目の奥が、品定めするかのように冷え切っているのを。
「レティは森の話を聞きたいって言っていたけれど、観光でこちらに?」
スティリオーニャの問いに、レティは首を横に振った。
「探し物をしていて」
「探し物?」
鸚鵡返しに、声無く頷き、「実は…」と視線をティーカップに落として、少しだけ声を潜めて悲壮な子供を演じ始めた。
「小さな頃、両親が他界して、父のお姉さんに引き取られたんです。最初の頃は伯母さんも優しかったんですけど…」
わざと、その先を紡がない。俯いて、声を震わせ、今にも泣きそうな子供を見れば、大人は勝手に脳内補完を行い、勘違いして同情の念を寄せると知っているからだ。
案の定、スティリオーニャは眉尻を下げて「まあ…」と吐息交じりに呟いた。
「それで、両親の形見であるブローチがあったんですけど、ある日の朝、いつもの場所からなくなっていて…伯母さん達に聞いても『知らない』の一点張りで…貯めていたお小遣いだけを手に、伯母さんの家を飛び出しちゃったんです」
顔をあげ、無理をしているように眉尻を下げて笑えば、スティリオーニャは掛ける言葉も無くレティを見つめるしかない。
「そう…そうなの…その、ブローチはどんなものだったか覚えているの?」
「ぼんやりと…あ、スーリャさんがされてるブローチに似ていたかもしれません。ただ、宝石はルビーだったかな…」
スティリオーニャの双眸が、弧を描いた。しかし、それは瞬きをするほんの刹那の間。それでもレティが「あ…」と思うには十分な時間だ。
警戒…をする気にもなれないが、動向を探る為にもある程度の警戒はすべきかと胸中で息を吐き出した。
「私とレティが出会ったのも女神の導き。私も知り合いに声を掛けてみるわ」
「え、よろしいんですか…?」
一瞬の喜びと微かな戸惑いを入り混ぜて、迷惑では無いだろうかと気弱な姿を見せれば、スティリオーニャは「気にする事は無いわ」と微笑んだ。
「これでも教会には子供の頃からお世話になっているから、それなりの人脈はあるの。ささやかではあるけれどお手伝いするわ」
見る者が見れば聖女の微笑みも、レティからすれば傀儡の歪な笑み。
その狡猾さに顔を歪めそうになるが必死に堪える。その双眸には涙を浮かべて。
「あ、ありがとうございますっ、スーリャさん!」