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キリスティア。ノティア大陸の中心に位置するカロ国の城下町だ。近隣に『神獣』が眠ると言う森を有する。大国とは言えない国ではあるが、国力は豊かで、人々はカロ王のもと、安寧の日々を過ごしている。
「穏やか過ぎて、欠伸が出るわね…」
ふあ。
朝市で賑わう街路を歩きながら、少女レティは本当に欠伸をこぼした。
オニキスのように艶やかな黒髪は、高い位置で二つに結い上げられ、結ばれた赤いリボンが黒に映える。猫のように眦が少し吊り上がった大きな目は、アクアマリンのように澄んだ青色をしている。
荷物らしい荷物を持たぬレティは、小さな肩掛けカバンだけを身につけているだけだ。カバンの中には、当面の路銀とおやつだけ。
外套のフードを目深に被って顔を隠すのは、彼女自身が陽に弱いからである。長時間陽光を浴びると、赤くなり、腫れ上がってしまうのだ。
パンの焼ける匂いが、レティの空腹を誘発し、お腹がくうくうと食料を催促しだす。
「う…」
ぴたりと歩みを止め、薄い腹に手を添えた。
―くうー…
切なく鳴いた腹の虫に嘆息し、踵を返すと、今し方通り過ぎたパン屋の扉を押し開いた。
レティは噴水近くの石造りの長椅子に腰を下ろし、入手したばかりのパンに齧り付く。ふと、翁の声が囁いた。
『レディ、のんびりしておる暇はないぞ?』
かたかたかたかた。
声に紛れて聞こえてくるブリキの玩具が動くような音。レティは煩わしそうに眉間に皺を刻み込み、パンを齧ったままもごもごと小声で返した。
「わかってるわよ…でも、お腹が空くのは仕方がないじゃない。そりゃ、じいやは要らないでしょうけど」
忌々しく吐き出せば、再びかたかたと音が鳴る。
『本来ならレディにも不要。腹が空くと言うのであれば、さっさと『しょくじ食餌』をすれば済む話じゃろうが』
深いため息が聞こえてきそうな呆れ声を聞き流し、レティは最後の一口を口内に押し込むと、手についたパン屑を払って立ち上がった。
「とにかく、まずは情報収集だわ」
レティの目的のもの。人が触れるべきではないその代物は、『神獣』が眠ると言う森にあるだろうとは検討がついている。そもそも、生粋の『神獣』は天界と魔界でその身を休めることはあっても、決して狭間界で眠ることは無い。
散歩がてら姿を見せることはあるが、それですら稀な事だ。
「『神獣』が狭間界で眠るなんて、御伽噺もいいところだわ」
ブーツの踵で石畳を叩きながら、足早に歩を進める。
「『神獣』に人の欲は猛毒。近付けるのは産まれたばかりの赤子か、死を間近にした者だけよ」
魔界にも欲は満ち満ちている。だが、狭間界の欲はその比ではない。業を含んで、混沌としているのだ。
魔界の住人は、欲と同等の対価を要求し、支払う。しかし、狭間界の住人は、小さな対価で大きな欲を満たそうとする。その為、同胞を欺いたり、殺したりとやりたい放題だ。
他界の住人にとって、秩序無き混沌は我が身を死に至らしめる猛毒なのである。
「どう言うつもりでそんな御伽噺を作ったのかは知らないけれど…どれだけの月日が過ぎようと、狭間界は醜いわね」
レティはある建物の前に立った。屋根に取り付けられているのは、胸の前で手を組んで祈りを捧げる三対の翼を広げた女神の像。カロ国が推奨している宗教『女神教』の教会本部である。教会の後ろに聳えるのは、国王が住む城かと見紛うばかりの大きな城。
祈りの女神像は、宗教の主神『闇女神』を表しているようだ。
『おやまあ、何とも美しく作られておるの』
かたかたかたかた。
翁が笑う。
何を言うでも無く、それでもうんざりとした表情のレティは、扉に手を掛けて押し開いた。
最初に目に飛び込んできたのは、赤、青、黄、緑などの色とりどりのガラスで作られた美しいステンドグラス。主神の祈りの姿が浮き上がる。
微かな眩暈に襲われながら、レティは無人の教会へと足を踏み入れた。
レティの靴音だけが木霊する。
「もし。礼拝は正午からですよ」
躊躇いがちな女の声が響いた。
懺悔室へと続く扉の前。白の祭服を纏った年若い女。
「それとも、何かお話でも…?」
レティはフードを取り、女へと体を向けた。
「いえ、そこの森の話を伺いたくて」
女は薄暗いその場から、歩み出て来た。
美しいブロンドは柔く波打ち、エメラルドの双眸が驚いたように丸くなっている。
「ああ、申し訳御座いません。街の方ではなかったのですね」
ほんのりと頬を染め、女はレティに近付いた。
「ようこそ、カロ国へ。こちらには観光に?」
「いえ、所用で。あたしはレティ。お姉さんは?」
にこりと人好きのする笑みを浮かべ、レティが首を傾げれば、女も柔和な笑みを浮かべて見せた。
「レティさんね。私はスティリオーニャ。みんなにはスーリャと呼ばれているわ」
「スーリャさん。あたしのことは、レティで構いません。それで、スーリャさんはそこの森について詳しくご存知ですか?」
レティの言葉に、スティリオーニャは微笑みを苦笑に変えて小さく首を振る。
「ごめんなさい…私はあまり詳しくないの。ここの管理をしている司祭様が詳しいのだけれど…先日、病で倒れてしまって病院で療養しているの。私も少しならお話が出来るけれど…レティがよければ、奥へいかがかしら?」
スティリオーニャの誘いに、レティは一瞬考えた。
彼女が示した扉は、彼女が出て来た扉とは別のもの。つまり、懺悔室ではなく、居住区、もしくは本部内へと通じる扉なのだろう。
答えはもちろん。
「お邪魔でないのなら」
是、と言う以外に無いだろう。
『あくどい顔じゃの』
かたかた、かたり。
翁の小言は、右から左へ。
「ああ、よかった!実は、お祈りの後のお茶をしようかと思っていたところの。自作のブレンドティーなのだけれど、街のマダムたちにもそこそこ好評だから味は保証するわ」
実年齢は恐らく二十代半ばだろう。にこにこと嬉しそうに笑うスティリオーニャは、十代の少女のように見える。
招かれて近付いた扉には、純銀で作られた闇女神が飾られている。
「…悪趣味…」
ぽつりと呟いた声に、翁だけが嘲笑い声を上げた。