一の二
湯気が出る椀を持ってふうふう言いながら旨そうに喰っている雑兵を見ながら、上杉軍の侍大将、直江兼続は言った。
「慶次殿、これでは帰国した後、越後から牛がいなくなってしまうぞ。」
冗談であった。農耕用の牛を食用にするという常識はまだなく、そうしようとしても一般民がとても贖える代物ではない。
慶次郎は笑って、
「越後には鮭が登って来るではありませんか。焼いても良し、刺身なら尚旨し。」
鈴木牧之(1770〜1842)著『北越雪譜』には越後の冬の幸の一つに鮭が紹介されている。
兼続は越後の春日山城に急使を出し、佐渡の金を大量に送らせた。牛を購うためである。
秀吉が海外派兵が出来たのはある意味では奇跡である。覇王とはいえ、各大名の経済の詳細まで把握してはいない。大きな金銀山は押さえてあったが、各大名自身がこのときの戦争経済を支えたと思われる。その一つが彼等が密かに開いた金山であろう。
遠征中に兼続が敷いた軍掟は一般民の村からの略奪、暴行を厳しく禁じていた。必要なものは購わせた。
これは美談ではない。優れた指導者のみが出来る施策なのである。海を渡って来てまた帰らねばならない。それを可能にするために軍律を第一と考え、住民との軋轢を可能な限り押さえ、全軍の無事の帰還を図ったのである。
この意味では秀吉軍は各武将の意志の統制が取れていなかった。
一国を制するにはそこに居続けなければならない。即ち船を焼かねばならなかった筈だ。そうしていれば後日、大敗を喫することになる李舜臣の船団を陸から駆逐することが出来たかも知れない。
軍律がいくら厳しくても兵達は働き盛りの男達である。侵略地の住民にとって大人しかったとは思えない。
我が兼続や慶次郎が恥づべく行動をしていないことを願いつつ、話を進めよう。数年後に再発する慶長の役で、ある愚かな大名は、女子供を含めた民を殺し、削いだ耳鼻を、ただ秀吉の命を実行したとばかりに送った。『耳塚』の所以である。
兼続はこんな侵略は無意味であると考えていた。
狭い日本だけでもやることは山ほどある。いや、そのころの人口千二百万(と云われる)にはまだ広かったかも知れぬ。
結局、この侵略が成功し、言葉、風習の異なる人々がいる領土など貰ったところで、苦労するだけではないか。
仏教の一つでさえ苦労しているのだ。
一向一揆を押さえるのにいくさを何度したことか。だから早めに役目を果たし、帰国するのが第一だった。
徳川家康、前田利家も同じように考え、太閤を支える大名ということを良いことに動こうとは思っていないだろう。その反面、西国、特に九州の大名や秀吉旗下の武将は却って馬鹿を見たといって良いだろう。
加藤清正のように開き直って、北朝鮮まで攻め上って行くしかなかった。