トリガー
記憶の底にあるのは、青空だった。
繋いだ母の手のひらを強く握りしめながら、僕はもう片方の手を大きく伸ばす。
手のひら越しに見るそれは、今すぐにでもつかめそうな気がした。
あの日から15年…幼い僕の手のひらに収まっていたはずの景色は遠ざかるばかりだった。
これは僕が夢を追いかける物語。
…追いかけるだけの物語だ。
「仕事中にずいぶん精が出るな。」
昔のこと思い出していた僕は、背後の人影にまったく気が付かず。突然声をかけられたことに動揺し、バネ仕掛けの人形のように不恰好に椅子から跳ね起きる。
「親方!?す、すいません!今すぐ片付けますので…。」
僕は相手の返事も待たず作業机に広げていたペンと紙を乱雑につかみ取ると、机の引き出しに強引に押しこめる。
紙がくしゃくしゃになってしまったが、それは仕方がないと思い諦めよう。仕事中に余計なことしていた僕が悪いのだから。
「ワハハ、そう縮こまるな。その籠の中を見ればお前がサボっているわけじゃないことくらいわかっているさ。」
籠の中の磨き上げられた部品を見た親方は、満足げに僕の背を豪快に叩き始める。体格のいい親方は軽いボディタッチのつもりなのだろうけど、貧相な体の僕にとっては太い棍棒で背中を殴られているようなものだ。
あまりの衝撃に倒れそうになった僕は、慌てて机にしがみつく。
「なんだよ、大げさだな。もっと肉を食え肉を!…それで?何を熱心に書き綴っていたんだ?まさか、娘への恋文って訳じゃないよな?」
「ち、違いますよ!」
「なんだよ。そんなに照れるなよ。…まあ、仕方ないか。ミリアは美人だからな!なんたって女房の若いころそっくりだ。信じられんかもしれんが、若いころの女房はそれはそれは美人でなあ。」
「思っていませんよ、そんな失礼なことは…。」
そうだ…。僕はそんなことは思っていない。
「俺の女房が醜いって言いたいのか!」
「そっちじゃないですよ…。もう、大声出さないでくださいよ。」
親方の大声を受け、弱弱しく抗議する僕に親方は呆れた様子だった。
「ったく、お前は真面目で仕事熱心だが。どうにも頼りねえなあ…。もっとしかりしてくれよ。俺はなあ。親友の…トーマスの息子が、娘と俺の店を継いでくれるのを今か今かと待ちわびているというのに。」
そう言って親方はお決まりの文句を始める。
幼くして両親を事故で亡くした僕は、父さんの親友だったという親方に引き取られた。
それ以来、僕は親方の徒弟としてこの工房で働いしてる。
今の暮らしに不満はない。飢えず、凍えずに済む暮らしをさせてもらっておいて、文句など言えるはずもなかった。
「それで、親方何の用ですか?親方は先ほど仕事を終え先に上がられたと思いましたが?」
「おっと、そうだった!ミリアがな、飯だとさ。ほら行くぞ、カイル。」
親方は鼻歌交じりに作業場を後にする。その後姿を見ていると、小さなことで悩んでいる自分がなんだかばかばかしいように思えた。
僕は黙って親方の後姿を追いかける。引き出しの中の丸く縮こまる情けない夢に気を取られぬように。
気にしてはいけない。気にしちゃダメだ。気づかなければいいだけだ。
気がつけば傷つく。
親方は知らないのだろう。ミリアには僕以外に恋をしていることを。
それが親方が悪ガキと煙たがっているジュリアスだと知ったらどんな反応をするのだろうか?
言ってしまった方がいいのかもしれないが、僕には何も言えなかった。ミリアに親方には黙っているように口止めされていたから。
鈍感なことは悪いことじゃない。僕が何も言わなければ誰も傷つくことなんてないんだから。
本当に気持ちなんて気が付かなければ傷つくことなんてないんだから。
何も考えず、ただ手足を動かせばいい。それで今までうまくいっていたんだから…。
僕が諦めてしまえば楽になれる。
陽気な鼻歌に先導されていた僕だったが、いつの間にかその歌声がやんでいることに気が付き、ハッとなる。
いつ立ち止まっていたのだろう?
いつになく真剣な表情を浮かべた親方の横顔がすぐそばにあった。
「カイル…お前まだあきらめていなかったんだな。」
僕の方を伺いながらもどこか遠いところを見つめているようなその横顔に、僕は取り繕うことができななった。
「…はい。」
僕はどうしても諦めることはできなかったから。