灰かぶりとリトル・ナイト(2)
狭苦しい彼の腕の包囲網から解放されて、やれやれとエラは肩を竦めたのだが、それも束の間、むんずとリュックサックを掴まれ、奪われてしまった。フットボールチームのエースの手にかかれば、エラのボロリュックサックなど、簡単に引きちぎられてしまいそうだ。
「ちょっと、ヘンリー、何のつもり?」
エラの抗議の声など聞く耳持たずで、ヘンリーはエラのリュックサックを持ったまますたすたと歩き始めてしまう。エラは、ああもう、と脱力して仕方なくヘンリーの後ろをついていく。大人しく従ったエラに気をよくしたのか、姫君に重い荷物なんて持たせられないからな、とヘンリーは声を大きくしてそう言う。近くを通った女子生徒たちが、それを聞いて疎まし気にエラを見ていることにヘンリーは気づいていないのだろう。校内人気ランキング五位内には入るであろう男子生徒が、地味でいわゆる「イケてない」女子生徒にばかり構っている姿を見るのは、いくら幼馴染であるとは言え、恨めしくもなるだろう。ヘンリーとは、そういう関係ではない。ただ昔、住んでいた家が近くてよく一緒に遊んでいたというだけであり、エラが引っ越してしまった今はご近所さんでもなんでもないのだ。正直、エラ自身もどうしてヘンリーが自分などに構うのか、わからなかった。
「ああ、そう。ありがと。ついでにカボチャの馬車もよろしくね」
荷物を運んでもらっているのに、姫君本人はぐるりと目を回して落胆している。傍から見れば、随分生意気なやつに映るだろう。口ばかりが達者で、皮肉めいたレスポンスを繰り返していたら、気づけば女子はおろか、男子にも変わり者として遠巻きにされていた。一人で本を読むことが好きなエラにとっては、それは対して苦ではなかったが、ヘンリーと関わるたび、毎日のように学校でちくちくと刺さるような視線に刺されるのは避けたいものであった。
乱暴に運ばれるエラのリュックサックには、そのような扱いを受けて困るようなものは入っていない。厚めの本が数冊入っているから、ヘンリーに運んでもらえるのは有難いことではあった。今更取り返すわけにもいかず、もういいや教室まで運んでもらおう、とエラが視線をヘンリーの背から窓の方へと外した時だった。エラにとって、聞き馴染んだ「鳴き声」が小さく聞こえたような気がしたのだ。驚いてエラは前方に視線を戻す。だが、声から連想する姿はどこにもなかった。あるのはエラのリュックサックと、逞しいヘンリーの背中だけ。ああ、ついには幻聴が聞こえたかと、エラは額に手を当てたが、もう一度同じ声がしてはっとした。幻聴などではなく、声はエラのリュックサックの中から聞こえていたのである。そしてそのリュックサックは今、ヘンリーの手にある。
「ちょ、ちょ、ちょっと、いいかなヘンリー」
慌てたエラは何度も舌を噛みそうになりながらそう言って、ヘンリーの前へと進み出た。両手を突き出してヘンリーを制止するエラに、今度は何だと言わんばかり苛立った声で、ヘンリーは「どうした」とエラに問うた。良かれと思ってやっていることを、必死な様子で止められれば一体何事かと顔もしかめるだろう。だがしかし、今のエラにはそんなヘンリーを気遣う余裕はなかった。
「あー、えっと……ロッカーに、忘れものしちゃったみたいなんだ。だからほら、私は取りに戻って、君は教室に真っすぐ向かう。そろそろ時間だしね。私に付き合わせて君まで遅刻させちゃうのは申し訳ないしさ」
大袈裟に見えるほどに手をひらひらと動かして、エラはそう言い、リュックサックを返してもらおうと両手をヘンリーに差し出した。ヘンリーはエラの顔と掌を交互に見比べて胡散臭そうな顔をしているので、エラは口だけでにこりと笑ってみせた。リュックサックを渡すか、迷っている様子のヘンリーだったが、諦めたようにため息を吐いて、すっとエラの両手の上にリュックサックを移動させた。しかしエラがそれを掴もうとすると、フェイントをかけられて両手は空を掴み、ヘンリーは無遠慮にエラのリュックサックのチャックを開けた。
「一体何を忘れたんだ。ガラスの靴か?」
エラの返答を聞かずに、ヘンリーはリュックサックの中にずぼりと手を入れて中を弄る。どうして忘れ物が何かもしらないのに人の鞄の中を漁るのだと、エラはすぐにヘンリーの腕を引き抜こうとしたが、それよりも早く、不思議そうな顔をしたヘンリーの手は何かに行き当たったようで、それを持ち上げていた。
リュックサックの中から顕わになるのは、まず尻尾、続いて胴体に翼、そして頭だった。白い体は、光によって七色に輝く真珠のような上品な輝きを持った鱗に覆われている。ヘンリーに尻尾を掴まれて、宙ぶらりんと持ち上げられたのは、小さな小さな白いドラゴンであった。何だこれは、とヘンリーはドラゴンを顔の近くまで持っていき凝視していたが、ドラゴンとばっちり目が合い、ドラゴンが首を傾げながら「けるける」と小さく鳴いた途端に、ヘンリーはそれを放り投げて信じられないような大声を上げた。ぽいっと投げ捨てられるドラゴンを、急いでエラはキャッチする。恐れ慄いた拍子にドラゴンとともにエラのリュックサックもヘンリーは投げ捨てていたが、それには目を瞑る。何と言っても彼は、幼い頃から爬虫類が大の苦手なのだ。
わあわあと騒ぎ立ててパニックを引き起こすヘンリーに、エラは「落ち着いて、静かに、ヘンリー!」と焦って呼びかけた。彼のパニックに人が集まってしまっては、腕の中のドラゴンが大勢の目に触れる可能性もあるし、学校のヒーローの醜態を晒すわけにもいかなかった。まさか自分の小さな友人が、知らぬ間にリュックサックに忍び込んで一緒に登校しているとは思いもしなかったが、今はそれよりも事態の収拾が優先事項であった。
エラの掌で、ヘンリーのパニックの原因はけろりとした顔でエラを見上げている。エラは素早い動作でそんなドラゴンの顎を撫でてやり、小さく囁く。
「ごきげんよう、リトル・ナイト。勝手な行動をした悪い子には、後でお仕置きだからね」
そう言ってエラはリトル・ナイトと呼んだドラゴンの額にちゅ、と口づけをした。おやすみのキスだよ、と言うとリトル・ナイトは大きな欠伸をしてから四肢を畳んで丸くなり、すぐにすやすやと眠ってしまった。いつも就寝時はそうして寝かしつけている。キスに弱い、リトル・ナイトの特性を活かした方法であった。