1.日常
日暮 恵勇 ヒグレ ケイユウ 主人公。
アラネコ あらねこ 相棒。
不動 瑞子 フドウ ミズコ 笑顔が怖いクラスメイト。
和泉 風 イズミ フウ 主人公の隣の席の女子。
東雲 海人 シノノメ カイト 人?
青助 アオスケ 記憶喪失の少年。
ハルヌ 喫茶店兼バーの主人。
博士 博士。
岳 ガク 大工の棟梁。
藤堂 トウドウ 人。
宮下修哉 ミヤシタ シュウヤ 人。
一つ断っておくとすれば、女子高生たちがバタバタと非日常を送ったり囲碁サッカーという正体不明のスポーツは突然始まったりしないので安心して欲しい。
冬の寒さが身に染みる。まだ雪は降っていないが、秋の影は鳴りを潜め冷たい風が頬に打ち付ける。こんな風に風の強い日は外に出たくはないというのが僕の心境だ。…心境なのだが、僕は陸上の大会の応援に行かなければならない。
本当は野球でも剣道でも何でもいいのだが、知り合いのいる部活のほうがやる気の出ない応援にも少しは力が籠るのではないかと陸上の応援に行くことにした。応援に行って担当の教師に出席報告をすれば保健体育の点数がもらえるという事情もある。
出席報告だけして回れ右、という手段もあるが彼の走り姿でも見届けてから帰るのも悪くはないだろう。でも僕、東雲がなんの競技に出るか知らないや…。
こういう季節は何もかもが元気がなさそうに見える。街路樹は緑の衣を脱ぎ捨てているし、道行く人はポケットに手を突っ込みマフラーに首をうずめて表面積を小さくすることに忙しそうだ。僕が今切実に欲しいものはあべこべクリームですサンタさん。
アラネコは朝から姿を見なかった。こんな寒い日に出かけるなんて彼女にしては珍しい。朝はいつも暖房の前に居座って昼頃にならなければ家から出ないというのに…。朝食をとった跡はあったので、餓死や投資の心配はなさそうだ。
『中央公園』とデカデカと書かれた看板を発見する。しかしこれは入り口で、公園本体に辿り着くには結構な距離の坂を上らなければならない。人にやさしくない立地をしている。山に建てた方が土地代が安いという事情だろう。
山頂に幅を利かせて建てられたそれは公園と呼ばれてはいるが、遊具などがある公園ではなく、体育会館と呼ぶ方が正しいと思う。武道場やプール(今は冬なので緑色だ)、野球場から陸上トラックまですべてそろっている。大きな大会は基本的にここの会場で行われる。大きな大会。朝早く早起きしたので腹痛が痛い。
僕がやっとのことで登りきると、既にバスが何台か来ていて選手や観戦客が降りてきている。わざわざ坂を登るような真似はせずバスを使うというのも一つの手ではあったが、乗車率が百パーセントを超えている公共交通機関は利用しないというのが僕の信条だ。
と、降りてくる人の中に見知った顔を見つける。
「日暮君、来ているとは思わなかった。おはよう」
黒の長髪が風になびくのを抑えながら、彼女は僕に話しかける。確かに僕が応援をしている姿を想像することは難しいだろうが、開口一番に告げなければならないことなのだろうか。おはようよりも先にいう必要のある言葉だとは思いたくない。
「おはよう。渋滞お疲れ」
挨拶を返す。冬服は皺が目立たないので不動の様子からは人混みに揉まれた様子は見られないが、恐らくもう二度とあんな箱に乗るまいという決意が固くなっていることだろう。というようなことを言ってみると、
「ううん。私は一つ目の停留所で乗ったから、ずっと座っていられたよ」
なぁにそれ、ずっるい。不動への労いや畏敬など消え失せ、残ったのは羨ましさばかりだ。いや、あの箱詰めの乗り物に乗るには全力を投じて座席を確保するという確固たる意志が必要なのか…。目の前の少女はその意志を持っている。そう考えると素晴らしいものだとは思えないね全く。
「歩いてくるには少し遠すぎるし、ここの坂ってとっても急だから…。バスに乗る以外の選択肢はないかな」
「僕もここの立地には悪意を感じる」
遠足の目的地がこんな場所だったら僕は仮病を使って休んでいるだろう。
「ところで、東雲がどの競技に出るか知ってるか?」
そう問いかけると不動は僕のことをじっと見て、ため息をついた。何かまずいことでも言ったのかしらん?
「やっぱりプリント、読んでないでしょ」
そう言って鞄の中からちょっとした冊子を取り出す。表紙には『陸上競技プログラム』と書いてある。そんなの配られていたっけ…。
不動の冷気にあてられ冬だというのに冷や汗の止まらない僕に、冊子をぱらぱらと捲って東雲海人の名前を探していた不動が手を止めた。見つけられたのだろうか。
「驚いた。彼、個人で三競技にリレーまで出るのね」
陸上の大会はトラック(走る競技)とフィールド(跳んだり投げたり)とを並行して行い、最後に華であるリレー種目が来るという順番だ。東雲は走ったり投げたり跳んだりした後華を咲かせるのだろう。恐ろしい人間である。いや人間じゃないか。
恐らく恐る恐る恐ろしいことをする男だろう。というか日本人恐れるの好きすぎじゃないか?そのうち酸素さえ恐怖の対象にしそうだ。
「日暮君。くだらないことを考えてないで早く会場に行こう」
「心を読まないでいただきたい」
彼女は読心術まで体得したのだろうか。そうなってしまうと僕としては相当生きづらいことになってしまう。何故なら僕は基本的にくだらないことしか考えていない。
それよりも、
「会場ってどこ?」
再びため息をつかれてしまった。
受付の職員に学生証を見せて階段を上ると、選手たちの掛け声が大きくなると共に目の前が大きく開け、大会前のアップをしている様子が見えるようになった。スタジアムやドームの階段を上ったあとの観客席から見る競技場と言うのはいつ見ても壮大だ。
ここのスタジアムは昔親と一緒に来た六年前からほとんど変わっていない。どうして連れて来てもらったんだっけ。今ではもう思い出せないが、何か有名な選手でも来ていたのだろう。
ふと、何かを忘れている気がした。
時々感じる、何を忘れているかは思い出せないのに、忘れているということだけは思い出せる不思議な感覚。途轍もなく大事なことのはずなのに、重大な不安が心に渦巻いているのに、それを思い出すことがどうしてもできない。家に帰ればきっと思い出すだろうと、無理やり不安を胸の内へと飲み込んだ。
思えばこの時に必死に記憶を探っていれば、違った道へたどり着いたのかもしれない。今となってはもう遅いことだけれど。
不動はと言えば、階段が暗かったからか目を細めている。確かに朝日が直接差し込むのは少しまぶしい。風を遮るものがないので強い日差しの中でも寒いという最悪の状況だ。まるで吸血鬼になったような気分になりながら、座る場所を探す。僕らの学校の生徒が固まっている場所を見つけ、二人で座席に腰を下ろした。背もたれが付いているが硬めの椅子なのでお尻が痛くなったらすぐに帰ろう…。
「この様子だと開会式は終わったのか?」
横で鞄の中を探っている不動に尋ねる。
「プログラムだと八時だね」
腕時計に目を落とすと、針はすでに九時を回っていた。そのまま文字盤をグルグルと走り続ける尖った働き者に声援を送りながら会話を続ける.
「不動は開会式から見る人間だと思ってた」
「私だって退屈に思うことぐらいあるよ」
「…いつも思うけど、あの儀式は必要なのか?」
市長さんとかお偉いさんがしゃべりたいだけな気がする。選手宣誓とかはあってもいいとは思うけれど。
あの謎の三十分がなければ大会は始まらないのだろうか。開会式というものをなくして、ピストルの音と共に選手が走り出し、「第〇回日本総合体育大会スタートです!」とアナウンスが入るというのもかっこいいと思う。
ただし閉会式は必要だ。表彰とかはやってもらった方が選手は嬉しいだろうし、観客側も盛り上がる。閉会式があるということは逆説的に開会式もあるということになるのだろうか。終わりがあるなら始まりがあって、始まりがあるのなら終わりがあると。だけど、いつ始まったかわからないのに突然終わるものも世の中にはあるのだし、必ずしも終わりと始まりの条件が存在しているわけではないだろう。例えば恋とかね。
段々何を考えているかわからなくなってきた。
「羊が一匹、羊が二匹…」
「日暮君。突然眠ろうとするのはやめて」
止められてしまった。
「あ、東雲君だ」
その声で舟をこいでいた僕は目を覚ます。明るいとこで寝てると目を開けてもあまりまぶしくないのは本当に不思議だ。僕はずっと瞼の裏側を見ていたはずなのに。ちなみに寝ているときは目ん玉が裏返っているので実際には瞼を見ていないんだよ!どうでもいいね!
「やっぱり東雲は頭一つ出てるな」
「高校生であの身長の子がたくさんいたらびっくりだよ」
彼の方からは観客席の僕らは見えないだろうから遠慮なく観察をさせてもらう。他の選手たちがストレッチや腿を叩くといった彼らなりのアップをしているのに対し、東雲は目を瞑って下を向いている。整えるという概念を知らなさそうなボサボサの短髪だけが風にそよいで動いていて、まるで彼は立ったまま死んでいるようだった。
点呼が始まると、彼は目を見開く。スタートブロックに足を掛け、合図とともに構えを取る。普段のふざけた雰囲気とは一変して、見ているこちらの筋肉まで緊張するような圧迫感を放っている。彼の隣の選手は走りにくいことこの上ないだろう。
「…」
不動は黙って見守っている。今頬を突いたら叫び声を上げそうだなと思ったが、流石に僕も命は惜しい。
乾いたピストルの音が鳴る。その男は周りの選手よりも早く動き出し、加速も群を抜いている。無駄など一切感じない水が流れるような姿勢で、けれど獅子の如く地面を踏みしめ後ろに送っていく。鳴りやまない歓声。人々は彼の姿に釘付けにされているだろう。だけど僕は、彼の走りとは別のことを考えていた。見るまでもなく東雲は一着に決まっている。そして、彼が本気を出せば今すぐにでも世界の王者になれるだろう、なんて。
だってその身は、正真正銘の鋼なのだから。
前回よりも一章あたりの文字数は少なめになっており、その代わり章数が多くなっています。
全体の文字数はそんなに変わりません。