2.潜伏
日暮 恵勇 ヒグレ ケイユウ 主人公。
アラネコ あらねこ 相棒。
不動 瑞子 フドウ ミズコ 笑顔が怖いクラスメイト。
和泉 風 イズミ フウ 主人公の隣の席の女子。
和泉 鈴 イズミ リン 風の妹。
藤谷 朱音 トウヤ アカネ 人。
神尾 翔子 カンオ ショウコ 人。
平優 タイラ ユウ 人。
東雲 海人 シノノメ カイト 人?
臙脂棗 エンジナツメ 人じゃない。
太陽が傾いている。残暑というものは荷物をたたんで実家に帰ったので、暑くはないがまだ半袖で過ごせる。通りには誰もいない。僕が精神科医と名乗って疑われやしないだろうか。今になって不安になってきた。アラネコの手前、自信たっぷりに出てきたが、実際のところノープランの手ぶらである。
どうしたものかと思案しながら歩いていると、病院へと続く大通りへ出る。
相変わらず車通りが多く、信号はなかなか青にならない。信号を待つ人々はスマートフォンを覗いたり、足元に視線を落としたり、空を見上げたりしている。
歩行者用信号において、青の点滅は『速やかに、その横断を終わるか、または横断をやめて引き返さなければならないこと』と法律で定められているらしい。僕は十七年生きてきて引き返す人を一人しか見たことがない。青が点滅すれば人々は駆け出し、向こう側に辿り着こうとする。誰もがそうするから、だれも疑わずにそうする。むしろ点滅し始めたから全力で走って向こう岸へ行こうとする。
…ただ一人を除いて。
「日暮君?」
そのただ一人が目の前にいた。
不動瑞子。全体として儚げだけれど力強さを感じる眉。人形のように大きく、綺麗な黒の瞳。日焼けもなくなってきて元の白い肌を取り戻し始めている。黒く長い髪を縛らず飾らず腰まで伸ばしていた。学校の帰りだろうか、制服のままだ。鞄とは別に、右手に花束を持っている。
「やぁ不動、今から誰かのお見舞いかな」
「うん、和泉さんの妹がね。事件に巻き込まれちゃったらしくて」
和泉…。和泉…?彼女の妹が、事件に?
事件の被害者の名前を思い浮かべる。最初の被害者は和泉鈴。次に神尾翔子。最後に平優。
…和泉?
「和泉の妹だったのか…」
それは奇しくも僕のクラスメイト、更に言えば僕の隣の席の人間である。
あ、だから三件目の家の表札に『和泉』と書いてあったのか。納得。
「えっ、どうしたの?」
これは何の巡り合わせなのだろう。僥倖と呼ぶほかない。不動に付いていけば不審に思われることなく面会ができる。普段は全くしない神への感謝を告げ、ふと浮かんだ疑問を投げかける。
「君は和泉と知り合いだったのか?」
和泉はあまり人と仲良くしているところを見ない。そんな人間の、しかも妹のお見舞いなんて、彼女と和泉は友達なのだろうか。…ここまで考えてかなり失礼だなぁと思った。友達の数なら間違いなく僕のほうが少ない。だって学校にさえ行っていないし。どこかにこんな僕と仲良くしてくれる心根の優しさを売りとしてくれるフレンズはいないだろうか…僕も無条件に褒めてもらいたい…。
「知り合いってほどじゃないけど…クラスメイトだし、やっぱり行くべきだよ」
その返答に、思わず感心をする。
不動は優しい。僕の知る中で世界でいちばん優しい人間である。その返答がほかの人間から帰ってきたら下心や他意を疑うところだが、彼女にそう言われれば納得をしてしまう。
「ところで、日暮君はこんなところで何をしているの?学校は?」
訂正。彼女はすごく怖い。特に笑顔が。
「ちょ、ちょっと調査にね…」
「…また『相談』?」
「まぁ…そんなところだよ」
彼女は僕のやっていることを知っている。何故なら、以前その『相談』をしてきたのが彼女本人だからだ。
「その、和泉さんに関係のあることなんだ」
「…この事件について調べてるんだね」
信号は青になった。周りの人に合わせて僕らも歩き出す。
なんだか微妙な雰囲気だ。僕の仕事について彼女が快く思っていないことは知っていたが、この空気は少し堪える。
「わかった。どういう言い訳して和泉さんの妹から事情を聞くの?手伝うよ」
「…いいのか?」
願ってもないことだが、彼女から提案してくるとは思ってもみず、確認をしてしまう。
「いいよ。私もお世話になったし」
まっすぐに前を見ながら彼女は答える。どんな心境をしているのかは窺い知れなかった。
「精神科医で行こうと思ってるんだ」
「…よくそんな嘘つこうと思ったね」
呆れられてしまった。そのジト目はとてもゾクゾクするので素晴らしいが、あまり長いこと続けられると僕のハートがチクチクしちゃうのでそこまでにしていただきたい。
「いいけど、その代わりに約束」
「約束?」
「そう。明日から一週間、毎日学校に来ること」
それはとても難題である。できれば一日中事件について調べたい。
「最近全然来てないでしょ?だめだよサボっちゃ」
彼女の言うことは最もである。サボタージュ、ダメ絶対。でも学校サボった日って何もすることなくても特別に感じるよね。
しかし彼女の協力があるのとないのとでは雲泥の差だ。不動という少女は品行方正、文武両道、誠の文字を全身で表したような生徒だと教師の間でも人気が高い。初対面でも好印象。更に付き合っているとその株は急増、好感度のインフレーションが起こり、脳内日銀も金融政策に追われることとなる…。と、僕のような胡散臭い人間の対局に位置する存在が彼女だ。
ぜひとも手伝ってもらいたい。学校か…あまり気のりしないけど…背に腹は代えられないか…。
「わかったよ、明日から一週間だな」
観念してそう言うと、彼女は満足げにほほ笑んだ。
「でも今回の事件って中学生の女の子が三人、部屋で襲われたって話だよね?日暮君が首を突っ込む場所なんてあるの?」
警察に任せておけばいいのに、と彼女は付け加えた。
確かに、任せておいても真実に辿り着くだろう。もしかしたら僕よりも早いかもしれない。けれど、何もしないのは違う気がした。折角こういう力を持っているんだし。
「糸さえ通らないような穴でも広げて首を突っ込むんだよ、僕は」
「迷惑な人だね」
笑ってくれたのでよしとする。あまり声を出さない控えめな笑い方が心地いい。
彼女に昨日見た現場の状況を手短に伝える。と、
「…女の子の部屋に入ったの?」
「一番気にするのはそこ!?」
本日二度目のジト目だった。
恐るべきことにすんなり病室に入ることができた。これが女の子パワーだろうか。
それとも不動のことを誰が見ても『人畜無害』だと判断するからか。プリティーでキュアッキュアな彼女にかかれば、僕のような姑息な人間の嘘やごまかしなんて灰と化すであろう。格差社会である。
僕が世界の真実に愕然としていると、不動が花瓶に花を活けているのを見ていた少女が、
「…ところで、こちらの方は…?」
と、話しかけてきた。確かに不審者と思われても仕方がない。事実僕は出口の傍で立っているだけだし。
和泉鈴。僕のクラスメイト、和泉風の和泉の妹とあって、かなり彼女に似ている。栗色のウェーブのかかった髪は彼女とは違うが、ふっくらとした唇とか整った鼻筋とかはそっくりだと言える。
病室は個室だった。確かに重症でないにしろ傷害事件で心を痛めた女の子なら一人部屋にするべきだとは思うが、恐らく和泉の父親の地位が効いているのも大きいだろう。
病室っていうのはどこも変わらない。白い壁、白い床、白いベッドに白い照明。白々しいほどに清潔感を強調している。花瓶の花はちょっとしおれていたが今は不動の持ってきた…えーっとあの花は確かアルストロメリア…が飾られている。なんだか光線銃みたいな名前だ。その花まで白いので、病室は不気味さを放っていた。
どこの病院もそうなのだけれど、もう少し元気な色にしたほうがいいと思う。
「僕は時雨、精神科医です。事件の事情とか、関係なくても悩みとか…そういうのを聞かせて欲しいんだ。誰かに話すことで楽になることもあるから…それと、治療のためにもね」
偽名を名乗るとは言っていなかったからか、少し不動ににらまれた。もう少し辛抱してください。
「え、でも…そんな話…」
「…私も、昔診てもらったことがあるので、心配ないですよ。連絡が遅れているのかもしれません」
不動のアシストが入る。ナイス不動!愛してるよ!
「…」
アイコンタクトは無視された。
「話せないならいいんだ。無理に聞き出すことが僕の仕事じゃない」
嘘だ。本当は洗いざらい全部話して欲しい。
ベッドに座っている少女は考え込んでいる。
病院指定の衣類を着用しているのも相まって、病的なほどに白く見える。余談だけど、病衣っていうのは看護婦さんが脱がしやすいように作られているらしい。脱がしやすいように。本当に余談だけれど、よいこの君たちは覚えておくと役に立つかもしれない。
彼女の様子を観察していて、やはり似ている個所の多い姉妹だと思う。ただ僕の知る和泉と違うのは、伏しがちな目と困ったような眉だ。姉のほうが三十度ほど吊り上がっている。
僕が閻魔大王のような姉の姿を妄想していると、少女はこちらを窺うように口を開いた。
「えっと…誰にも、言いませんか?」
「精神科医はね、守秘義務って言うのがあって、患者さんの秘密は誰にも言えないんだ」
一拍おいて、
「面倒なことにね」
僕の冗談をわかってくれたのか、彼女はクスリと笑った。笑った顔は本当に姉に似ている。
そして今度は不動のほうを窺うようにして話し出す。
「不動さんにも…その、聞いてもらいたいです」
「わ、私でよければ、いくらでも聞きますよ」
頼られたことがよっぽど嬉しいのか、やけに乗り気だ。
「なんなら時雨先生抜きでも大丈夫です!」
それは酷い。
「部屋で次の日の準備をしていたんです」
まずは襲われた日の話からだ。僕としては現場を見たのでその前を知りたいところだが、焦っても仕方ない。
「あと少しで荷物を詰め終わって、寝ようかなと思っていた時に、持っていた筆箱が破れて、ペンが飛び散ったんです」
僕らにわかりやすく説明するためだろうか、しばらく考えて、ひとつの文章を淀みなく話す。そんな流れを健気に続けている。不動はそんな彼女の手をそっと握っていた。
「…何かに切り裂かれたようにペンが飛び散って、びっくりして顔を上げたんです。そしたら…そこに黒い影があって」
「部屋の明かりは消していたのかい?」
質問を挟む。話の腰を折るようで悪いが、確認をしておきたい。
「いえ、点けていました…でも、その影の様子だけ、わからなかったんです」
「ごめん、口をはさんでしまった。気になってね」
「だ、大丈夫です」
少しくらい突っ込んだ質問をしても疑われないかもしれない。これが不動パワーか…今度何かおごってあげないと。
「そのあとは右腕とか…お腹とかを切られて…部屋も荒らされて、新聞に載っていた通りです」
そこまで言って、少女は何かを思い出したようにこう言った。
「影は、何かを探しているようでした」
「…」
何を?影は何か別のものを狙っていたのか。彼女を襲うことが目的ではなく、それは手段に過ぎなかったのだろうか。
「えっと…事件については以上です…」
いくつか気になる点はあったが、僕が知りたいのはその奥。彼女が警察に話した『容疑者』についてのこと。
どうして、その謎の影のことを藤谷朱音だと思ったのだろう。
おずおずと不動が手を挙げる。挙手制だったのかこの会話。思わず口が滑る。
「はい、不動さん」
「どうして時雨先生が指名するのかしら」
あ、先生って呼ばれながらのジト目はなかなかに来ますねぇ!もうお腹いっぱいなのでやめていただけませんか不動さァん。
ダンゴムシのように縮こまりながら不動が質問するのを待つ。そういえば昔ダンゴムシだと思ってワラジムシという虫を捕まえてしまったことがあった。ダンゴムシじゃないことに気が付いてから、何故かその虫が気持ち悪く思えて放り投げてしまった。あの虫たちには申し訳ないことをしたなぁ…。その時隣にいた子はペットのトカゲの餌にすると言って持ち帰っていたような、あれこの話もしかしてどうでもいい?
「どうして…その、影のことを藤谷さんだと思ったのかしら」
どうやら不動も気になっていたらしい。申し訳なさそうに、だけど瞳には力が籠っていた。
「知っていたんですね」
そういえば名前までは新聞には載っていなかったか。僕は人づてに聞いたから知っていたけれど…。
どうやら和泉は僕たちがそれを知っていたことに関しては疑問に思わなかったのか理由を話し出した。
「信じてもらえるかはわからないんですけど、影の形というか、放っている雰囲気というか、臭いっていうのか、その影の全部が…朱音ちゃんと同じもののような気がしたんです」
そこまで精密に化ける妖。いくつかは頭に思い浮かぶ。だけど、僕の知っているそれらは化けている対象を襲う。
どうして同級生を立て続けに襲っているのだろう。
「それと、もう一つ…これは警察の方にも言っていません」
ピンとくるものがあった。
「藤谷朱音には動機がった、って話かな」
「…動機って程じゃ、ないですけど…」
勘が当たる。
「私が襲われた日に、喧嘩したんです。私たち」
喧嘩。そんなことで家にまでおしかけることにはならないと思うが…私たち?
「私と翔子ちゃんと優ちゃんが、藤谷さんと喧嘩したんです」
そう言って、和泉の妹は話し始めた。
朝、和泉たちの三人は一緒に学校に行く。それは彼女たちが小学校の時からずっと変わらない。三人で他愛のない話をしながら教室へ行くのだ。和泉は、その時間をとても楽しみに思っていた。遊ぶ予定とか、勉強の話とか、お互いの家の愚痴とか…。
そして、今日はもうひとつ楽しみな理由があった。転校生である藤谷の持っていたキーホルダー。
それを三人も購入したのだ。なかなかに高価なものだったが、銀の色合いやデザイン、特にウサギをモチーフにした時計というかわいらしさを気に入った。そして何よりも藤谷朱音と仲良くなりたかったのだ。転校してきてからいつも一人でいるけれど、勉強も運動も得意な彼女。単なるおせっかいではなく、折角同じクラスになったのだからお近づきになるきっかけになればいいと思っていた。
だけど、藤谷朱音の反応は予想と大きく違っていた。
「何よそれ…私の真似?」
「ち、違うよ。そういうつもりじゃなくって」
仲良くなりたかっただけ。
「そうやって…馬鹿にするの…!?」
彼女が怒り出した理由がわからなかった。
「違うよ!なんでそういう言い方するの!?」
「私たちは藤谷さんとお友達に」
「要らないよ!そんなの!」
揺さぶるような怒声。静かに窓の外をいつも見つめている彼女。そんな藤谷朱音から発せられた怒気に三人は思わず固まってしまった。
「…っ」
そのまま鞄を掴んで出て行ってしまう。
和泉は、呆然と立っていることしかできなかった。
「そしてその日から影が順番に襲い始めた…」
「…」
項垂れるように首肯する。
「どうして藤谷さんはそんな風に怒り出したのでしょうか…?」
不動の疑問は最もだ。藤谷朱音との喧嘩。それは確実に事件のカギを握っているだろう。だけど、何故かがわからない。もっと言えば、妖との関連もわからない。
「わかりません…」
和泉は、今にも泣きだしそうな顔で言う。
「話してくれてありがとう。心配いらないよ、きっと彼女なりの理由がある。君たちは友達になれるよ」
こんなに優しい子が、笑顔になれない現実なんて。
「君が、このことを誰にも話さなかったのは、藤谷朱音が犯人だと断定されてしまうからだよね?」
恐らくは藤谷朱音の名前を出したところで、警察に問い詰められたのだろう。証言さえあれば、ひとまずは拘留することができる。だけど、和泉鈴は考えたのだ。「藤谷朱音が犯人にされてしまう」。それは望むことではない。ただ、ただ本当に友達になりたかったのだ。
だから嘘をついた。「なんでもない」と。喧嘩をなかったことにし、証言をなかったことにし、多分見舞いに来たほかの二人にも藤谷朱音は関係ないと話した。
だから誰も証言をしない。犯人はわからない。その独白を聞いたのは、きっと僕に事件を知らせてきた者だけだ。
紛れもなく、和泉鈴は藤谷朱音に善意しか持ち合わせていない。
「…」
彼女は黙っている。不動はそんな彼女のことをじっと見つめている。
「それじゃあ、僕は帰ることにするよ。今日は本当にありがとう」
和泉の目がこちらを見る。それは誰かを気遣う目だ。
ああ、
「大丈夫、藤谷朱音は逮捕されないよ。それは僕が補償する」
そのことに安心したような吐息の後、彼女は言葉を吐いた。
「あの、時雨先生。…最後に一つ、話していないことがあるんです」
外へ向かう足を止め振り返る。
「私たちの買ったキーホルダーと、藤谷さんの持っていたキーホルダー、少し違う気がしたんです」
「さっぱりわかんないや」
「どれが?」
ため息をついた不動に聞き返す。正直僕もわからないことだらけだけど。
「藤谷さんが怒り出した理由とかさ…」
「それはきっと、和泉妹が最後に言ったセリフに答えがあると思う」
「どういうこと?」
それは僕にもわからない。けれど、そんな気がする。
「確かめたいことが多すぎるなぁ…」
「調査に夢中で約束のこと忘れないでね」
…すっかり忘れていた。明日から学校かぁ…。
病院を出て、不動とあった信号まで差し掛かる。
「それじゃあ、僕はこっちだから」
僕が信号を渡らず右に曲がると、なぜか不動も同じように曲がる。確か不動の家は信号を渡った方面にあるはずだ。
「本屋さんに寄ろうと思って」
そして、
「日暮君の家も向こう側じゃないんですか?」
探るような目だ。僕は目をそらしながら言う。
「ちょっと寄るところがあるんだよ」
「ふぅん…」
「そんな怪しいところじゃないって」
「夜遊びはだめだよ」
誰がするものか。…人の家に忍び込んだりはよくするけど。
それから、不動と本屋の前で別れるまで他愛のない話を続けていた。和泉鈴もこんな時間が好きだったのだろうか。少し歩いてから、僕はこぶしを強く握りしめていたことに気がついた。
「デートの後か?」
「違う!」
コーヒーを淹れながら開口一番にそう言ってきた老人に突っ込みを入れる。
彼の名はハルヌ。偽名らしいが、本当の名前は知らない。白いひげを顔いっぱいに生やし、皺の寄ったでこを出すように、白く染まった長い髪を後ろで縛っている。眼光は鋭いが、同時に温和な印象を持たせる。
彼はカフェを営む老人のほかに情報屋という側面も持っていて、今回の事件の情報もこの情報屋から手に入れたものだ。彼は「通りすがりに聞いた」と言っていたが真実はわからない。
タキシードのような制服に身を包み、優雅な仕草で湯気の立ったカップをカウンターに置く。カップの置かれた席に座ると、
「さて、何かわかったかね?」
「藤谷朱音に化けた妖が、彼女と喧嘩した相手に復讐して回っているみたいだ」
それと、と僕はさっき得た情報を付け加える。
「キーホルダー、が重要なカギみたいだ」
「キーホルダー」
老人は反芻するように呟く。
「キーホルダーを真似されたくらいでそんなに怒るもんかねぇ…」
コーヒーを啜りながら僕はハルヌにそう溢す。
「己しか持っていないものに愉悦を抱く人間などいくらでもいるだろう」
それは僕でもわかる。多くの人間の場合でのそれは『才能』と呼ばれるものだ。自身しか持たない才能は他人との優劣を作り出し、優劣が優越感を生む。他人との才に差があれば羨み、時には恨んだりもする。
その時の確執が他人への害意となる場合もあれば、ひたすらに自分を磨き昇華することで他人との差を埋める人間もいる。プライドは自らを高める結果となることもあれば、貶める結果になることもある。誇りは刀に似ているとは、誰の言葉だっただろうか。
そして、プライドやそういった意識を喰らう者たちがいることも知っている。知ってはいるが、キーホルダーはそれに該当するのだろうか。
「キーホルダー如きで愉悦に浸る人間は少ないだろうがな」
「ああ、なんだか気になることも聞いたし」
「とは?」
「藤谷朱音の持っていたキーホルダーと、三人が買ったキーホルダーは少し違っていたらしいってさ」
「…それは面白そうな情報だな」
白いひげをヌッと釣り上げて老人は笑った。彼の笑顔には何通りかの意味があり、それは時と場合によって全然違う意味を持つ、ので考えるのは無駄なことだ。
コーヒーの最後の一口をのどに流し込んで僕は店を後にした。