深夜の襲撃
「アーニャ様、箱をお持ちいたします」
「あ、ありがとうございます」
ルルクと別れてから、アーニャはアリカから小箱を渡した。恐らく中身は夜心香でしょう、と言ってアリカは微笑んだ。
「夜心香は普通の香と同じように、ベッドサイドテーブルに置いて使うんです。普通のものと少し違うのは、初めて使うときにアーニャ様の血を一滴垂らす事ぐらいでしょうか」
「わたしの血を?」
「ええ。これは魔術具の一種で、主人を特定する必要があるものなんです。ルルク様はああ見えて腕利きの魔術師なんですよ。陛下もこれと同じものを持っていらっしゃるんです。効き目のほどは保証できるかと。……本当に、これを使うとよく眠れますからね」
アリカは手のひらに乗った小箱に意味ありげな眼差しを向ける。その横ではウィザーがふくれっ面でぶつぶつとルルクへ文句を言っていた。
「なんなんすか、あいつ。いきなり姫様のお手を取ってキスするなんてやりすぎっす。あれがこの国の普通なんすか?」
「この国というより、彼の出身国の慣習ね。ルルク様とミリリ様はアライベルの貴族だけど、生まれはアライベルじゃないから。……だけど、それほどおかしな振る舞いというわけではないわ。手の甲のキスは尊敬を表すものなの。未来の王妃たるアーニャ様に敬意を表し服従を示したい者は、ルルク様だけではないわよ?」
真っ赤な顔で怒りをあらわにするウィザーに対し、アリカは苦笑交じりでそう答える。ウィザーの態度については気にしていないようだが、これでいいのだろうか。アーニャは不安をにじませながらウィザーとアリカを交互に見た。
「ルルク様がなさると、少し違った意味にも見えるのは確かだけど……ウィザー、ルルク様の事を知らない貴方がそれほど警戒心をあらわにするなんて、貴方はよほど勘が鋭くアーニャ様に強く忠誠を誓っているのね。けれど――――」
アリカはそのまま小さな声でウィザーに何か囁く。ウィザーは赤い顔をさらに赤くさせ、ぶんぶんと首を横に振った。
「それは何よりね。私達も、貴方を国に送り返すような真似はしたくないし」
「アリカ、何の話をしているのですか?」
「ウィザーは純粋にアーニャ様の事を考えているのだと実感したまででございます。アーニャ様のお耳に入れるような事ではございませんわ」
「そ、そうっす! お気になさらないでください!」
「……?」
何の話だったのかは教えてもらえないまま、アリカは庭園の案内を続ける。聞き返してもはぐらかされてしまうため、アーニャも諦めてアリカのあとに続いた。
「お待たせいたしました。……あら? アリカ、それは何ですの?」
ほどなくしてリアレアが戻ってきた。リアレアはアリカの持つルルクからの贈り物を怪訝そうに見ている。
「ルルク様からアーニャ様への婚約祝いの品でございます。中身は夜心香かと」
「まあ。……アーニャ様、ルルク様はストレディス侯爵家の次期当主で、お若いながらも新たな魔術卿……次の宮廷魔術師の長と目されております。陛下の覚えもめでたい方ですので、ぜひ顔を覚えておいてくださいませ」
「は、はい。なんだかすごい方だったんですね」
「城の魔術具はすべて彼の魔力で動いているので彼がいなければ立ち行かない、警備もライフラインも彼の魔術に頼っている、などと言われるくらいですからね。もちろんどれもただの噂ですし、そもそもそんな事はないはずですが、それを抜きにしても実力は折り紙つきですわ」
他の魔術師よりも実力が抜きんでていて目立つからそんな噂が立ったのだろう、とリアレアは困ったように笑った。
クラウディスの魔術はそこまで発達しているわけではないし、アーニャ自身も魔術に明るいわけではない。そんな彼女の認識では魔術師など全員優れた才を持ち奇跡を起こす者達なのだが、リアレアがそこまで言うならルルクはその中でも相応の実力者なのだろう。何より彼はミリリの弟だ。きちんと顔と名前を一致させなければ。挨拶するべき者リストの中にルルクの名前を入れ、アーニャは意気込みを新たにした。
*
今日の夕食もディウルスと一緒だった。おいしい食事に舌鼓を打ちながらも食べ過ぎないよう八分目にとどめ、アーニャは就寝の挨拶をして寝室へと向かう。天蓋つきのベッドの傍に置かれたサイドテーブルには、白百合を模した陶器の置物が置かれていた。今朝にはなかったはずだが、これがルルクからもらった夜心香だろうか。
「アーニャ様、お手を拝借いたしますね。少し痛みますが、よろしいですか?」
「はい。……あの、魔術具とおっしゃいましたけど、主人を認識する行為にはどんな意味があるのですか?」
小ぶりなナイフを手にしたアリカがもう片方の手でアーニャの手を取る。ナイフの切っ先が人差し指の腹に刺さり、血の雫が夜心香にぽたぽたと落ちた。
「……誰を安らかな眠りに導くべきか、覚えさせるためですよ。それでは、おやすみなさいませ」
花びらの陰に隠れるようについていたつまみをひねり、アリカは妖艶に笑った。
*
花の香りに包まれて穏やかな寝息を立てて眠るアーニャの胸から黒い影が立ち昇った。アーニャはわずかに顔を悩ましげに歪めるが、起きる気配はない。
影の口が三日月形に裂け、そこだけ真っ赤な色に染まる。影はアーニャを見下ろし、その白く細い首に向けてゆっくりと手を伸ばした。
[――ッ!?]
しかし影の手がアーニャの首を絞めようとした瞬間、ばちりと紫電がほとばしる。影は勢いよく吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。何が起きたかわからず、影は慌てて起き上がってベッドへと駆け寄った。
だが、天蓋の向こうに入る事は叶わない。まるで天蓋の前に見えない壁でもあるかのように、影がいくら手を伸ばしてもそこで硬いものに阻まれてしまうのだ。その間から見えるアーニャの表情は安らかそのもので、そこに先ほどまでの苦悶はなかった。
影はぎりりと悔しげに顔を歪める。そんな影の目に留まったのは、ベッドサイドテーブルに置かれた白百合を模した陶器の置物だった。影は気づく。この置物こそ忌々しい壁を作り出しているのだと。影は陶器を壊そうとするが、それも紫電に弾かれてしまった。
[小賢シイッ……! 《半端者》ノ分際デ、コノ私ノ邪魔ヲスルトハ……!]
置物に込められた魔力から、影はその術者を特定する。術者はここからそう遠くないところにいるようだ。彼が死ねば、置物も効果を失うだろう。そうなればアーニャを守護するものはなくなる――――自分の邪魔をする者はいなくなる。
[イイダロウ……マズハ邪魔者カラ消シテヤルッ!]
そう吐き捨てて、影はその場から消え失せた。
*
時刻は深夜の一時を過ぎている。机に向かったルルクは、時間を忘れて古い魔導書の解読作業をしていた。大昔の魔術師が書き記した手書きの古代語を現代語に訳しながら意味のある単語を拾っていき、解読に成功した魔法陣や呪文を一心不乱にノートに書き写しているのだ。
そんな時、彼の集中を妨げるように外から何かが窓に勢いよくぶつかるような大きな音がした。鳥や木の実がぶつかっただけではこれほど大きく重い音はしないだろう。窓にはカーテンがかかっているため外の様子はうかがえない。だが、何か異様な事態が起こっているのは明白だった。
「ルール違反、だよ。死者は生者を害せない」
ペンを動かす手を止めないまま、ルルクはそう呟く。その間にもどん、どんという音は激しく響いていた。
「そもそも、魔の物と精霊の間には相互不干渉の掟がある。僕らは互いに不完全な存在だけど……だからこそ、それが適用されるだろう?」
しかしそんな音など一向に気にする素振りを見せずにルルクはページをめくり、これは解読が難しいぞと眉間にしわを寄せる。ルルクにとっては深夜の不作法な来客よりも、みみずがのたくったような字で書かれた古めかしい文章のほうが強敵だった。
「それとも、掟を破れるだけの力が今の君にあるのかな? ……魔の物の心しか持たない君が、生身の身体と精霊の魂を持つ僕に正面から敵うとでも?」
不敵に笑い、ルルクはちらりと窓を見る。もう音は聞こえなかった。
興が削がれたと言わんばかりにぱたんと本を閉じて立ち上がり、カーテンを勢いよく開けて窓を開ける。そこには何もいなかった。
「《元素召喚:光》《照明》……うわー、派手にやられたなぁ。これはどこからのお客さん……って、確かめるまでもないよね」
冷たい夜風に顔をしかめながらも顔を出す。窓の周囲は黒い塗料のようなものでべったりと汚れていた。ルルクが唯一師と仰いで敬意を払う魔術師である祖父の結界が張ってあったおかげでそれ以上の被害はないが、もしも結界がなければこの黒いものは屋敷の中へと侵入していただろう。
それを思うとあまりいい気はしない。たとえ撃退できる自信と力があったとしても、汚れた屋敷の中を自分一人で掃除する技まではないのだから。
「……何をしたところで、お姫様には指一本触れさせないよ。君のそれはただの逆恨みだ。そんなもののためにお姫様を……ディウルスの未来のお嫁さんを危険に晒すわけにはいかないな」
もういない来客に向けて、ルルクは静かに告げる。窓越しにびりびりと伝わってきていた殺意は、クラウディスの王城でアーニャと目を合わせた時に感じたものと同種のものだった。アーニャに渡した夜心香がさっそく効果を発揮したに違いない――――アーニャの内に宿った恐ろしい何かが、夜心香に込めた結界魔術に自らの悪意を阻まれた事で腹を立て、狙いをルルクへと変えたのだ。
恐らく、アーニャを害するのに邪魔だからと先にルルクを潰そうと思ったのだろう。もしかしたら今後も狙われる事があるかもしれない。だが、ルルクは気にする素振りも見せなかった。自分の魔術がアーニャを何かからの襲撃から守った、その事実さえあれば十分なのだから。
(一応、お姫様が妙な夢でも見てないか、明日あたり姉さんに確認を頼んでおこうかな……)
くあ、と小さく欠伸をする。そこに緊張感はおろか襲撃を受けた恐怖すらなかった。ルルクにとっては何でもない日常だからだ。
夜心香はディウルスをはじめとした要人や友人には配っているし、似たような魔術を込めた魔術具は城のあちこちに配置している。ルルクが張った結界魔術によって迫る悪意は大体はねのけられるが、呪法的なものだとルルクのほうに飛んでくる事もままあった。そんな彼にとって、深夜の襲撃など慣れたものだ。
(ディウルスとリットに報告して……姉さんとアリカに話を通して……なるべく早めにセレスに連絡して……リアレアに予定の調整を頼んで……城そのものの結界を強化するよう祖父様に相談して……ベストルにも声をかけて、既存の結界魔術と反発し合わないようにして……あー、忙しいなぁ……)
城内の警備はすべて宮廷魔術師ルルク一人の手で行われている、という噂は決して真実ではない。だが、案外的を射ているものである事を知る者は、ごく一握りの者だけだった。