食事と贈り物
(まぁ……!)
食堂の大きなテーブルに並べられたおいしそうな料理を見て、アーニャは思わず目を輝かせた。
見た事のない料理でいっぱいだ。中央には山盛りになった果物もある。さすが王の晩餐とでも言うべきか、今日の夕食はずいぶんと豪華なもののようだ。ディウルスはいつもこの量を平らげているのだろうか。
「悪いが、食べている途中にちまちま料理を運ばれるのが嫌いでな。俺の食事は最初から並べさせる事にしているんだ。見苦しいなら、これからはせめてお前の分だけでも一つずつ運ばせるが」
ディウルスはすでに椅子に座っていた。くつろいだ様子で背もたれに身を預けている。こうして見ると、何か大きな成果を得た盗賊の宴会のようだ。
「いいえ。わたしも、こちらの形式のほうが慣れていますから。こうやってたくさんのお料理が並んでいるのも、見ていて楽しいですし」
「……楽しいか? いや、お前がそれでいいなら俺も助かるが……」
どこかの宮廷では料理ごとに出される順番が決まっていて、食事中に一皿ずつ使用人が持ってきてくれるらしい。
しかしアーニャはそういった礼儀作法には疎く、またそんな形式にも慣れていない。いつもエバが一度に運んでくるからだ。品数はけた違いとはいえ、似たような形式で食べられるのはありがたかった。
晩餐が始まる。アーニャは至福のひとときを味わっていた。かつてこれほどまでにおいしく、温かい料理を食べた事があっただろうか。他国に嫁ぐという事で、一月かけて胃袋の調子を整えたかいがあった。
コーンポタージュは濃厚で舌触りがよく、パンはふわふわだ。分厚いステーキにナイフを入れるのは少しためらってしまったが、一口食べてしまえば細かい事はどうでもよくなった。
意地汚いと思われないように、なるべく優雅に見えるように振る舞いつつ料理に舌鼓を打つアーニャの瞳はいきいきとしていた。
「……それにしても、お前はずいぶんとうまそうに食べるな」
「ッ!」
唐突に声をかけられ、アーニャはびくりと身体をこわばらせる。ディウルスと目を合わせる事ができず、彼女はおどおどと視線をさまよわせた。
「は、はしたないですか?」
「いいや。それだけうまそうに食ってもらったほうが、俺としてもありがたい。同席者に仏頂面で食われたら、俺のぶんの料理までまずくなるからな。食事はそうやって食べるのが一番だ」
それだけ言って、ディウルスはワインを呷る。ほっとしながらアーニャもグラスに手を伸ばした。酒が飲めないと事前に告げていたので、彼女の前にあるのはオレンジジュースだ。これもまた程よく酸味と甘みが効いていて口当たりがいい。こくこくとジュースを飲み干し、アーニャは無意識のうちに頬を緩める。
いつの間にか自分の前に置かれた小皿は空になってしまっていた。大皿に盛られた料理が食べたいときは侍女に告げればいいらしい。傍に控えていたアリカに耳打ちをして、サラダを取ってもらう。みずみずしい野菜のしゃきしゃきとした歯ごたえを楽しみながら、アーニャは眼前に座るディウルスの食べっぷりを見る。
食べ散らかしているわけではないが、ひたすらに豪快な食べ方だった。大きなステーキは三口程度で彼の胃袋に消えていく。他の料理もそうだ。見ているこちらですら、彼がナイフとフォークを使っているのがまだるっこしく感じられるくらいだった。食器を使っていてこれなら、手づかみだとどれだけ早く食べられるのだろう。
テーブルを埋め尽くしていた皿はほどなくして空になった。大皿の料理はアーニャもちょこちょこと手を出したが、その多くはディウルスの胃袋に収まっている。しかしアーニャはもともと小食なほうだったので、小皿の料理を食べきった時点でもう満足だ。それでも食事をやめられなかったのは、おいしすぎたせいだった。
「陛下は、いつもこのようなお食事を?」
「まあな。これくらい食わねば身体が持たん。……姫、俺に付き合って無理に食わなくてもいいからな。食べたいだけ食べて、満足したら残せばいい」
「そうですね。今日は少し、食べ過ぎてしまいました。お料理があまりにもおいしいんですもの」
アーニャがくすりと笑うと、ディウルスもふっと表情を和らげる。だが、続くアーニャの言葉を聞いた瞬間、彼はぴしりと固まった。
「温かくておいしいお料理を、こんなにたくさん食べたのは初めてです」
「……初めて、か」
「陛下? どうかなさったのですか?」
グラスにわずかに残ったワインを飲み干し、ディウルスは眉間にしわを寄せる。そして深々とため息をつき、
「毒見に力を入れる国では、冷めた料理しか出す事ができないと聞く。どうやらクラウディスもそうらしいな。だが、アライベルではそんな事はないぞ。もちろん毒見はするが、温かいまま出せるんだ。だから、好きなだけ食えばいい」
「はい。ありがとうございます」
なんだかよくわからないが、許してもらえるならそれに甘えたいと思う。今日は晩餐に招待されてよかった。食後の紅茶を口に運び、アーニャは心からの笑みを浮かべた。
*
「……」
部屋に帰ってきたアーニャがまっさきにした事は、ネグリジェに着替えて寝台に横たわる事だった。食べ過ぎたせいで胃が痛い。あの量の食事を食べられた事などほとんどなかったので、胃が悲鳴を上げているのだ。横になっていると少し気分が楽になるというのがあくまでも気休め程度でしかないのはアーニャもわかっているが、それしかできる事はなかった。
「アーニャ様。こちらをお飲みになってくださいな」
「これは?」
「わたくしが調合した胃腸薬ですわ。手前味噌ではございますが、よく効くかと存じます。……わたくしの実家は医者の家系で、わたくしも多少医学のたしなみがあるのです」
はちきれそうに膨らんだお腹と青い顔で何かを察したのか、苦笑を浮かべたリアレアが水の注がれたグラスと粉薬を差し出した。それを飲むと、先ほどまで感じていた痛みが嘘のように消え去った。
「ありがとうございます。かなり楽になりました」
「ふふ。食欲があるのはよい事ですけれど、次からは食べ過ぎないようにお気をつけてくださいまし」
「はい……」
ばつの悪さを曖昧な笑みでごまかす。そんなアーニャを、リアレアは優しげな眼差しで見つめていた。
「アーニャ様。明日のご予定ですが、城内を案内させていただきたく存じます。よろしいですか?」
「わかりました。お願いします」
「では、わたくしはこれで失礼いたします。何かおありでしたら、このベルを鳴らしてくださいませ」
リアレアは一礼して去っていく。一人残されたアーニャは、何とも言えない寂しさを感じながらも持ってきていた本を手に取った。
* * *
翌朝、朝の支度を済ませたアーニャはリアレアとアリカに案内される形でウィザーとともに宮殿内を歩いていた。アライベルの宮殿はクラウディスのそれより大きく煌びやかだ。アーニャは物珍しげに周囲をきょろきょろと見回す。クラウディスの城とは何から何まで違う気がした。大陸の国という事で、島国のクラウディスとは文化や流行が異なっているのかもしれない。
昼食を挟みながら一通り宮殿を見て回ったころには日もすっかり高くなっていた。三時を告げる鐘の音を聞き、リアレアは恭しく頭を垂れる。
「アーニャ様、庭園の東屋にて軽食の用意が整っております。どうぞこちらへ」
「はい、ありがとうございます」
アーニャの思った通り、庭園の散策は気持ちがよかった。踏みしめる柔らかな芝生の感触を楽しみながら、アーニャはリアレアについていく。荘厳な噴水と薔薇の生垣がよく見える東屋には侍女が控えていた。
「こちらはヌスシュネッケンという我が国の伝統的なパンでございます。アーニャ様のお口に合えばよいのですが」
侍女がコーヒーをカップに注いでいる間、アリカが渦巻き状のパンをテーブルに並べる。香ばしいシナモンとバターの香りがアーニャの鼻腔をくすぐった。
さくりとした食感の中にあるヘーゼルナッツの風味がいいアクセントになっている。コーヒーと一緒に食べるにはちょうどいい甘さだ。アライベルのパンとあって見慣れないものではあるが、アーニャは一口で虜になってしまった。
「とてもおいしいです!」
「アーニャ様にそうおっしゃっていただけて何よりですわ。このヌスシュネッケンはリット様が用意なさったものなんですよ」
アリカは微笑み、強い癖のないヌスシュネッケンは他国人にも受けられやすい味なのだと言った。きっとそのあたりの事を考えたリットがアーニャのために気を回してくれたのだろう。
クラウディスにいたころは、こんなに甘いものを食べた事などほとんどなかった。まさに至福の時間だ。コーヒーを飲みながら、アーニャは黙々とヌスシュネッケンをかじる。心ゆくまま食べて満足しながら食後にもう一杯もらったコーヒーを飲んでいると、城のほうから侍女が駆けてきた。
「リアレア様、こちらにいらっしゃいましたか!」
「どうかなさったの?」
「セトラ侯爵がお呼びです。リアレア様に急ぎの用があると」
「申し訳ないけれど、わたくしは……」
リアレアはちらりとアーニャを見やった。どうやらリアレアはセトラ侯爵よりアーニャを優先する気でいるようだが、それだとセトラ侯爵に悪いだろう。そう思ったアーニャは、困り顔の侍女の援護に回る事にした。
「わたしの事ならお気になさらないでください。リアレアが戻ってくるまで庭園を見て回っています」
「よろしいのですか?」
「ええ。ウィザーとアリカもいますし、大丈夫です」
ほっとしたような顔をし、リアレアは断りを入れて侍女とともに立ち去った。アーニャを優先させようとしていたとはいえ、セトラ侯爵の呼び出しを拒むのはリアレアにとっても心苦しい事だったらしい。
「ところで、セトラ侯爵というのはどなたなのでしょう? 侯爵位を戴く方ならば、わたしからも挨拶をしたほうがいいですよね?」
「セトラ侯爵はリアレアの兄で、陛下の侍医を務めていらっしゃる方でございます」
アリカに尋ねると、答えはすぐに返ってきた。そういえばリアレアは医師の家系だと言っていましたね、とアーニャは昨夜の事を思い出す。
「近々、陛下とアーニャ様の婚約を祝うパーティーが催されるので、挨拶はその時にしていただけたらと存じます。……それに向けて、アーニャ様には顔と名前を覚えていただきたい方々が多くいらっしゃいますので、ご了承くださいませ」
「が、頑張ります」
アーニャは引きつり気味に笑った。嫁ぎ先の国の要人の顔と名前が一致しないとなれば外交問題にも発展しかねない。自分の肩にのしかかっている責任を改めて感じながら、アーニャはコーヒーを飲み干した。
*
「綺麗……」
東屋から出て噴水に近寄ったアーニャは中央に鎮座する銀色の天使像を見上げる。陽の光を浴びて輝く天使は女性の姿をしていて、慈愛にあふれた笑みを浮かべていた。
「これはこれは。アーニャ様ではございませんか」
「?」
振り向くと、見覚えのある眼鏡の青年がいた。謁見の間で目が合った青年だ。青年は人のよさそうな笑みを浮かべ、アーニャに近づいてくる。
「貴方は確か、使者団の?」
「貴方のような美しい方の記憶にとどめていただけたなど、この身に余る光栄でございます」
黒いローブの裾が芝生につくのも構わず青年は膝をついてアーニャの手を取る。右手の甲が感じた柔らかな感触が接吻であると気づくのに数秒の時間を要した。
「宮廷魔術師の末席を汚す者、ルルク・メスティア・ストレディスと申します。以後、お見知りおきを」
「あ……ええと、ご丁寧にありがとうございます」
こんな挨拶をされたのは初めてだったので、どうすればいいのかわからない。自分を見上げる昏い紫の瞳から目をそらしつつ、アーニャはぎこちなく笑った。
「ストレディスと言うと、ミリリのご家族ですか?」
「はい。ミリリは私の姉でございます。……このようなところでアーニャ様に出会えるとは、願ってもいない幸運です。ささやかではございますが、陛下と姫様の婚約に際して祝いの品を贈りたく存じておりましたので」
「?」
「《空間連結》《接続:研究室》《名称:白百合》《解放》」
ルルクがそう呟くと、何もなかった彼の掌の上に丁寧に包装の施された小箱が現れた。
手品のような現象に目を丸くしているアーニャの前に小箱が差し出される。礼を言って受け取ると、わずかな重みが伝わってきた。
「これは?」
「心地のいい眠りを誘い、夢見をよくする品でございます。お気に召していただけるとよいのですが」
「まあ、ありがとうございます」
その時、後ろからわざとらしい咳払いが聞こえてきた。ウィザーだ。
「あんた、いつまで姫様にくっついてるんすか?」
「ウィ、ウィザー!?」
慌てるアーニャを手で制し、ウィザーはルルクを睨みつける。アリカは涼しい顔で佇むだけで、ウィザーを止める素振りは見せなかった。
「この方はアライベルの王妃となるお方っす。あんまりなれなれしくしないでもらいたいっすね」
「……おや、これは失礼いたしました」
ルルクは意味ありげな視線をウィザーに送りながら立ち上がる。それがウィザーを責めているように見えて、アーニャは顔を蒼くした。
「も、申し訳ございません。ウィザーの言う事はお気になさらないでください」
「アーニャ様が謝る事ではございませんよ。ルルク様、ウィザーの言う通りです。少し自重をなさってくださいませ」
「私は挨拶をしただけなんですけどね……」
はぁ、とため息をつき、ルルクはちらりとアリカを見る。しかしアリカは意にも介さない。ウィザーもルルクを一睨みして、さあ行きましょうとアーニャを促した。
「大事に守られてるね。僕の出る幕なんてなさそうだ。……でも、人には必ず隙があるものだから」
アーニャ達を見送りながら、ルルクは小さな声で呟く。当然その声は遠ざかっている三人には届かない。
「あの香があれば、とてもよく眠れると思うよ。誰にも邪魔されないような、深い眠りにさ。……いい夢が見られるといいね、お姫様」
そう言って、ルルクは薄く笑った。