望まれた王妃
よく晴れた日だった。今日、アーニャはディウルスと正式な夫婦になる。ついにアーニャはアライベルの王妃に……アライベルの人間になれるのだ。
アライベルの結婚式は、まず花嫁と花婿が連れだって礼拝堂に行くところから始まるという。礼拝堂には、花嫁と花婿の他には式を執り行う聖職者しか入れない。アーニャとディウルスの結婚を見届けてくれるのはもちろん大司教のセレスティアだ。
神に夫婦の誓いを立てた後は教会の外に出て、そこで改めて人々から祝福してもらうという。ディウルス曰く「とんでもない馬鹿騒ぎだから覚悟しておくように」だそうだ。夜には他国の要人を招いた正式な結婚披露宴を行うというが、そちらは堅苦しすぎて嫌になるそうなので昼の間に羽目を外しておくのがいいらしい。
まだ結婚式は始まってもいないが、王とその花嫁を一目見ようと教会の周囲には民衆が押しかけていた。その歓声は花嫁の控室で待つアーニャの耳にも届いている。一国の王妃になる、その覚悟はとうに決まっていたつもりだったが、こうしていざその日になってみるといやがおうにも緊張してしまう。
民の望む王妃になれるだろうか。あの歓声に応えられるだろうか。もしも自分では力不足だと――――
「緊張しているのか?」
「ディウルス様!」
控室にやってきたのは、花婿の控室にいるはずのディウルスだった。どうやら抜け出してきたらしい。花婿の盛装姿のおかげか普段の猛々しさは若干薄れている気はするが、それでもやはり気休め程度にしか見えなかった。
ディウルスの問いにアーニャは小さく頷く。楽しみにしていたこととはいえ、緊張せずにはいられない。やはり自分の心は弱いのだろうか。アーニャは視線を床に落とした。
「……何も考えるな。余計なことはするな。黙って笑え。それ以外は望まない」
頭上からそんな低い声が降ってくる。けれどその声に冷たさはない。ディウルスはアーニャの両手を取り、自らの固くごつごつした手で小さなアーニャの手を包み込んだ。
「少なくとも式の間は、そうして時間が過ぎるのを待っていれば終わるんだ。楽だろう?」
「もう。せっかくの結婚式を、そんな風に言わないでください」
にやりと笑うディウルスに、アーニャはむっとしたように顔を上げる。けれどすぐに彼女もぷっと吹き出した。
「ディウルス様がいますから、心配する必要はありませんでしたね」
「その通りだ。大船に乗ったつもりでいろ」
そろそろ時間だぞ、と言ってディウルスはアーニャを立ち上がらせた。アーニャの腕を取りながらディウルスは教会の中を歩く。
「……お前の仕事はただ一つ、民を不安にさせないことだ。そのために、お前はいつだって気丈に笑っていなければならない。どんなことが起きても決して負けはしないと言うようにな」
己が抱える不安や不信は決して口に出さず。この国を守る王の力を信じ、王を支える側近の力を信じ、そしてなによりこの国で生きる民の力を信じる。
頂点に君臨する王、その対になる王妃が有事のたびに慌てふためいていたら。上の怯えは下に伝染する。恐怖に震える王妃につられて民が恐慌状態にならないとも限らない。けれど自分達を導く存在である王妃が、自分達を元気づけるように笑ってくれるなら。その笑みは、きっと勇気をわける灯火になる。
「お前が笑えば民は喜ぶ。お前が笑えば兵の士気が上がる。お前が笑えば臣下は安心する。お前が笑えば側近は充足感を覚える。そしてお前が笑えば俺も嬉しくなる。笑うお前を前にして、悪意をもつ者はその毒を抜かれるだろう。笑うお前に跪き、心ある者はその笑顔を守らねばと思うだろう。それが王妃だ。王の妻とはそういうものだ」
少なくとも俺はそう信じている。そう言って、ディウルスは赤い瞳を優しく細めた。
「実を言うと、お前が来るまでは王妃など誰でもいいと思っていた。だが、今は違う。お前でなければだめなんだ、アーニャ。……お前はどうだ? 俺で、本当にいいのか?」
「ええ、もちろんです。ディウルス様、あなたがわたしを望んでくれるなら、わたしはきっといつまでも笑っていられます」
礼拝堂の扉の前で足を止める。ディウルスの真摯な眼差しを正面から受け止め、アーニャは温かく微笑む。
「そうか。それなら何も心配することはないな。……さあ、背筋を伸ばして前を向け。もう一度訊くぞ――お前の仕事は何だ?」
「黙って笑うこと、です!」
「――上出来だ」
アーニャの答えを聞き、ディウルスは満足そうに口角を上げた。騎士達が扉を開ける。
これからも一人ではどうにもならないことに襲われるかもしれない。けれどディウルスがいてくれるならきっと大丈夫。セレスティアの待つ最奥に向けて、二人は同時に礼拝堂へ足を踏み入れた。




