王妃の役割
「……え?」
今、彼は一体何と言ったのだろう。理解が追いつかない。それでもアーニャは声を絞り出した。
「それは、どういった意味でしょうか?」
「言葉通りの意味に決まっている。愚かな王の横に座る、お飾りの王妃。それこそがお前に求める役割だ」
聞いていない。そんな話は聞いていない。
それではクラウディス王女としての役目はどうなる。立派な王妃となり、両国の架け橋になる事こそが自分の使命だと思っていたのに。いや、それ以前に――――
(……立派な王妃って、なんなんでしょう)
母妃は立派だっただろうか。第一王妃や、第二王妃は、あるいは噂でしか聞いた事のない前第三王妃は。
とりあえず飾りではなかった、とは思う。正妃である第一王妃も、第二王妃も、早くに亡くなった母妃でさえも、相応の発言力はあったのだから。
第一王妃はいつも背筋を伸ばし、多くの臣下に敬われる女性だった。第二王妃はいつも愛らしく笑い、多くの者に好かれる女性だった。母妃はどちらかといえば煙たがられている節はあったが、立派な王妃とはすなわち第一王妃や第二王妃のような人物の事でいいのだろう。しかしディウルスはそれを拒んだ。そうならなくていいと、こうして淡々と告げている。
「黙って笑え。それ以外は望まない」
お飾りの王妃が立派だとは思えないし、笑うぐらいなら誰にでもできる――――ディウルスの妻は、アライベル王国王妃は、アーニャ・クラウディスである必要はないのだ。それなら自分は、何のためにここまで来た。アライベルの王妃に、ディウルスの妻になるためではなかったか。
「お前のような女を俺の妻にするのは心苦しいが、これも国のためだ。お前も祖国のために承諾してくれ」
「……」
自分ではアライベルの王妃にふさわしくないとでも言いたいのだろうか。何故彼はそんな事を言うのだろう。
やはり、この左右で色の異なる瞳は不気味だったのか? ――――それともまさか王妃の座には、他に座らせたい人がいた?
「誤解のないように言っておくが、俺はもともとお前を娶る気などなかった。俺とお前が結婚する事になったのはあくまでも国の都合だ。この結婚について文句を言うのは自由だが、俺にはどうする事もできん。不服なのは俺も同じだからな」
(……つまり陛下は、わたしではなく他の女性を娶りたかったのでしょうか。情勢さえ許されたなら、王妃となるのはわたしではなく彼の本来の恋人だったとしたら……)
両国の同盟のために、彼は渋々自分に求婚したのだろうか。損得勘定で無理やりねじ込まれた望まない花嫁など疎まれて当然だ。だが、それはもはやアーニャが個人でどうこうできる問題ではない。
「俺は王の器を持たざる者だ。王族に生まれてきてしまったのは何かの間違いだと思えるほどに、生来の不作法者でな。取り柄といえば、剣の腕とこの身体ぐらいしかない。いっそ一国の王ではなく、山賊の首領のほうがふさわしいくらいだと思わないか?」
アーニャの沈黙をどう受け取ったのか、ディウルスは自嘲気味に笑った。なるほど確かに、一見しただけではディウルスは国王に見えない。豪奢な服装だから犯罪者の類ではなくひとかどの人物に見えるだけで、おそらく着替えてしまえば彼がこの国の王だとは見抜けないだろう。
「王の名を継ぐ者としての教育は無論受けたが、それでもこの性根を矯正するには至らなかった。今ではもう、誰も彼もが諦めている。ディウルス・ヴァン・アライベル・レッケンベーアは賢王になれないと。そしてそれは俺自身が最も理解している事だ」
リットか、アッシュか、あるいはレキウスか。同世代だけでも人の上に立つ事に長けているのがこれだけいるのだから、俺よりよほど為政者に向いている人材はこの国に掃いて捨てるほどいる。そう言って大口を開けたディウルスの笑い声に卑屈さはなく、一種の清々しささえあった。
今も俺が王を名乗れているのは、ひとえに臣下達が優秀だからだと。連中がいなければ俺はすぐにこの国を滅ぼしていた自信があると、開き直ったディウルスは燃え盛る炎のような赤い瞳をアーニャに向けた。
「残念な事に、この国には俺のほかに正当な王冠を戴ける者がいない。……いや、いるにはいるが、俺は曲がりなりにも王族の男児であり、元第一王子であり、王太子だった者だ。この命がある限りあれに位を譲る事はできないし、そもそもあれは王位を望んでいない。よって王の座には、俺が座り続けなければならないのだ。だから俺は、自分にできる限りの事をしようと思う」
アーニャは何も答えられない。仮に同じ立場に立っていたとして、彼ほど開き直れるだろうか。
欠点を素直に認めて他者の優秀さに感謝でき、なおかつ自らにできる事をなそうとする事はある種の才能だ。きっと自分なら、感謝まではできたとしてもその先には行けない。
一歩進む前に罪悪感と無力感で押し潰されて、できない事はできないからと諦めて丸投げしてしまう姿が容易に想像できる。あるいは感謝どころかまず欠点を欠点として認められず、ずるずると食い下がるか。いずれにしても、ディウルスのようには生きられないと思った。
「愚王にも愚王の意地がある。矜持がある。たとえ愚かで粗暴であっても、王である事に変わりはないのだから。……だから俺は、お前を未来の王妃として受け入れよう。それが王の責任だ」
ディウルスは笑い、身を乗り出す。しばらく同席していた事で慣れたのか、あるいは無意識のうちにディウルスの器の大きさに憧憬を抱いたからなのか、強面との距離が縮まっても今度は怯えずに済んだ。
「アーニャ・クラウディス。お前には悪いが、俺はどうしようもない粗忽者だ。浮いた台詞も、気の利いた贈り物も、俺には期待しないでもらいたい」
「……それは、わたしも同じですから。どうすれば殿方が喜んでくださるのか、わたしには見当もつきません」
弱々しいが、なんとか笑えた。ディウルスも我が意を得たりとばかりににやりと笑う。
「恐らく俺も、お前という人間が喜ぶであろう事を何もしてやれないだろう。それどころかお前をきちんと愛せる自信もない。だからお前も、俺という人間のために何かする必要はないし、俺を愛する必要もない。しかし俺は国王として王妃に尽くそう。そのかわり、お前は王妃として国王に尽くしてほしい。……王妃の責務を、まっとうしてほしい。俺達がそうしていれば、それがやがて国のためになるからな」
「それが……笑う事、なのですか?」
「そうだ。笑ってくれさえいれば、俺は何も言わない。愛人を囲いたいなら囲え。ここには俺と違って見目麗しい男が大勢いる。お前が気に入るような男もきっと見つかるだろう。宮廷内の風紀さえ乱さなければ……恋人がいる男や既婚者に手を出すとか、頻繁に相手を乗り換えるとか、一度に多くの者を囲うとか。そういった事さえしなければ、俺が咎める理由もない」
もしもディウルスに好きな人がいたのなら。これは彼なりの誠意だったのかもしれない。自分が堂々と愛人を侍らせる代わりに、アーニャにも愛人を持つ事を認めているのだから。
しかしディウルスには悪いが、色事に興味はなかった。淫売の娘だと散々ののしられて育った身だ。性に奔放に振る舞った挙句に子を授かってしまえば、今度は我が子がその名を継ぐ事になるだろう。それはあまりにも可哀想だ。
今は亡き母妃が父王から寵愛を受けた方法というのがあまり褒められたものではないというのも知っている。母妃のようになるのは嫌だし、母妃のようになる人も出したくはない。相手のいる男性を略奪する事はもちろん、ディウルスに恋人がいるならそれについて口を出す気もなかった。つまり、ディウルスの申し出はまったくの無意味だという事だ。
「金も、お前のための予算の範囲内であれば好きに使ってくれて構わない。そのための予算だからな。それでお前が王妃の宝冠を戴いてくれるのならば安いものだ」
お金や愛人よりも友人が欲しい。そう言ったら、彼はどんな顔をするだろう。
ミリリやリアレア、アリカは新しい友人になってくれるだろうか。なってくれたらいいな、と思う。エバとウィザーに不満があるわけではないが、年が近くて同性の友人が欲しい。そんな存在は今までいなかったから、少し憧れていた。
「くどいようだが、半年後にお前が王妃にさえなってくれれば俺は文句を言わない。俺が王でお前が妃である限り、両国の同盟は成立するのだから。俺達の関係など、それで十分だろう?」
話はそれで終わりらしかった。
同盟のためにいやいやアーニャを娶っただけだとしたら、いずれディウルスは昔からの恋人を正妃にするつもりかもしれない。大陸の情勢が安定すれば、離縁を申し込まれる可能性がある。愛してもいない妻など、利用価値がなくなってしまえばいても邪魔なだけなのだから。
だが、それはだめだ。ディウルスに恋人がいても構わないが、たとえお飾りとはいえ王妃の座を渡すわけにはいかない。何故なら自分は、祖国の未来を背負っているのだから。
「……お話はわかりました。謹んで、お受けしたいと思います」
だからアーニャは笑った。ディウルスに、笑えと命じられたから。それこそが自分の存在意義だから。たとえ誰にでもできる事であっても、アーニャ・クラウディスの笑顔に何か意味を見出してくれたらいい。そうすれば、お飾りではあっても王妃の座から引きずり降ろされはしないだろう。そう願うのは、おこがましい事だろうか。
「助かった。礼を言うぞ」
ディウルスはほっとしたように表情を緩めた。彼も彼で思うところがあったのだろう。
「そうだ。十九時から夕食の予定だが、問題ないな? 一応、すでにリアレア達も承知している事だが」
「え? 招待していただけるのですか?」
「は?」
思わず聞き返すと、ディウルスが怪訝な声を出す。失言に気づき、アーニャはあっと口を押さえた。
(たとえお飾りでも婚約者なのですから、仲がいいように振る舞うのが普通です。仲がいいと周囲に示すためにも、夕食に招待してくださるのは当然ですよね……)
ごめんなさい、陛下の恋人様。本来なら招かれていたのは貴方だったのに。せめて同席してくだされば、少しは怒りも静まるでしょうか。しかしわたしからそう言い出すのは、失礼に当たるのでは……?
思考がぐるぐると回る。そんなアーニャを、ディウルスは若干引いたように見つめていた。その視線に気づき、ようやくアーニャは我に返る。
「なっ……なんでもございません! ぜひ、同席させていただきたく存じます!」
「お、おう」
こほんと咳払いしたディウルスは、頭に手をやろうとしてその手をはたと止めた。かわりにひげの剃り跡がわずかに残る顎を撫でながら、どこか落ち着きなさげに告げる。
「何かわからない事があればリアレアに聞け。リアレアはお前の教育係でもあるから、遠慮せずに尋ねればいい。……間違ってもアリカやミリリには聞くな。あの二人は悪い連中ではないが、いささか極端すぎるからな。リアレアのほうが、お前に合った答えをくれるだろう」
「わかりました。そうさせていただきます」
お飾りでも王妃ともなれば色々覚えなければいけない事もあるだろう。クラウディス王国にいた時のようにエバにばかり頼る事はできない。これからしばらくはリアレアの世話になりそうだ。友人関係になる事は贅沢だとしても、せめて友好的な関係は築いていきたい。
「そうだ、忘れていた。最後に一つだけいいか?」
「どうかなさいましたか?」
「お前の目の色の事だが」
ついに来たか。アーニャは自嘲気味に笑う。
普段は前髪で隠している金の目も、今日はあらわにしている。いつまでも隠し通せるものではないし、それなら隠しておくより最初から瞳を見せて堂々としていようというエバの進言あっての事だった。そしてそれは、他国に赴く事で生まれ変わりたいというアーニャの心情を見透かしたものでもある。
けれど、呪われた眼を見る事を不快に思う者はいるだろう。ディウルスの態度次第では、アーニャはすぐにでもこの不吉な瞳を隠すつもりだった。
もちろん、正面切って不気味だなどと批判するとは思えない。愚王を自称するディウルスでも、その程度の分別はあるだろう。目の事に触れたとしても、適当な言葉で飾った褒め言葉を告げるに決まっている。
だが、そのお世辞が口をつく刹那、必ず表情には何かが浮かぶ。浮かんだ感情こそが本心だ。そして恐怖と嫌悪、それから憎悪以外の感情が返ってきた事はない。だからディウルスの次の言葉とそれに込められた真の意味を予想する事など、アーニャには造作も――――
「実にうらやましいな。俺はこの通り髪も目も赤だから、見ていても面白くないだろう。その点、お前は髪色と目色、全部で三色楽しめる。一人でこれだけ楽しめるなんて得じゃないか」
「えっ」
「それに、見つけやすい。この国では珍しい部類に入る銀髪はもちろん、お前の金の瞳は遠目からでもはっきり判別がつきそうだ」
「……あの、陛下?」
「ああ、すまん。別にお前の背が小さいというわけではないぞ? ただ、これからお前は王妃として公式の場に顔を出す事が多くなるからな。人ごみに紛れても、すぐに見つかるほうが安心だ。……自慢じゃないが、俺は人の顔と名前を覚えるのが苦手でな。だが、お前ほど特徴的な色なら、すぐにお前だとわかる」
アーニャは困惑した。ディウルスの返事が予想の斜め上だからだ。何より、彼の表情から悪感情が読み取れない。まさかここまで広い度量の持ち主だったとは。
「とはいえ、これはすべて俺が……他人が得られる利点だ。お前がその目を気にしているのなら隠しても構わん。しかしこれだけは言っておこう。この国にはもっと変な奴らがいるぞ? ここは外見から中身まで、奇人変人の宝庫だからな」
「!?」
「そのぶん目の色ごときでとやかく言うような狭量な輩はいないだろうから、その点は安心してくれ。むしろお前があの個性の強い連中を受け入れてくれるかどうか。……あいつらも悪い奴らではないんだ。ただ少し……そう、少し我が強すぎるだけでな。仮にあいつらのせいで不快な思いをする事があれば、遠慮なく言ってくれ」
「え……あ、そ、その点は大丈夫だと思います、はい」
「そうか、それならよかった」
うらやましいなんて、得だなんて、そんな事を言われたのは初めてだ。戸惑いながらも頷くと、ディウルスは満足げに目を細めた。
そしてディウルスはおもむろに立ち上がり、壁にかかっていたベルを鳴らした。ほどなくして年かさの侍女がやってくる。どうやら彼女がアーニャを部屋に案内してくれるらしい。ディウルスに一礼し、アーニャは彼女に連れられるままに退出した。
*
「……お帰りなさいませ、アーニャ様」
「リ、リアレア? どうかなさったのですか?」
与えられたのは、四人家族ぐらいなら平気で過ごせそうな続き部屋だった。居間と客間、寝室、衣裳部屋だというが、広すぎて落ち着かない。服の保管なんて、少し大きなクローゼットがあればそれで十分だというのに。
しかし部屋の広さに目を回していたのもつかの間、出迎えたリアレアの不機嫌そうな表情でアーニャは現実へ引き戻された。まさか知らないうちに不興を買ってしまった……という事はさすがにないだろうが、何かあったのだろうか。
「……こちらの不手際、ですわ。ええ。あの脳筋熊もどきがあらかじめドレスを仕立てていれば、こんな事には……!」
「く、熊もどき?」
アーニャは目を白黒させるが、リアレアのこめかみに浮かぶ青筋は一向に消える気配を見せない。思わず彼女の傍らに立っていたミリリに救いを求める視線を向けると、ミリリは小さくため息をついた。
「リアレアは、己の力不足を嘆いているのです。決して陛下に対する悪態などついてはおりません」
彼女の言葉で我に返ったのか、リアレアはこほんと咳払いをした。脳筋熊もどき発言は聞かなかった事にしておこう、とアーニャは苦く笑った。
「アーニャ様、近々商人を呼ばせていただきたく存じます。お召し物を拝見いたしましたが……あまりにも……その、数が少なすぎますもの」
「そうでしたか?」
「もちろん持参なさった衣装をお召しいただいても構いませんが、アーニャ様は陛下の婚約者としてしばらくは様々な場に出席していただく事になりますわ。朝夕でお召替えもしていただければなりませんし、ドレスや装飾品はいくつあっても困るものではないかと」
手直しできないほど擦り切れていたりほつれていたり、着崩れていたりするものについては置いてきたが、まだ着られそうでそれほど質も悪くなさそうなものはすべて持ってきた。今着ているドレスは異母姉である第三王女のおさがりではあるが、デザインが気に入らないからと一度も着られずに回ってきたものだ。
このドレスについてはそう見劣りするものではないはずだ。もしもこのドレスもだめならば、この格好のままディウルスに会わせてくれるはずがない。だが、他のドレスはミリリ達からすればそうでもないらしかった。
満足な嫁入り道具を持ってくる事ができなかったとわかり、少し恥ずかしくなる。これだけ持っていけば服で不自由しないだろうと思ったが、アライベルの人間からすれば野暮ったくてみすぼらしいものばかりだったのだろう。これからは、アライベル王の婚約者の名に恥じないようにしなければ。
「わかりました。では、お願いします。……ところで、エバとウィザーはどこですか?」
「エバはアリカに、ウィザーは私の副官にあたる男に案内をさせています。お呼びしましょうか?」
「い、いえ。大丈夫です」
新しい職場に来て、二人も色々と覚えなければならない事があるのだろう。城の案内なら自分もしてほしいと思ったが、時計は十八時を半分ほど過ぎている。食事までの支度を考えれば、時間に余裕があるとはいえない。おとなしく待っていたほうが賢明だろう。
アライベル王の夕食とは一体どういったものなのだろうか。本当に同席して大丈夫だろうか。少し前まで感じていた恥じらいも恐怖もすっかり忘れて食事の事だけ考えるなど我ながらあさましいとは思うが、空腹には勝てない。誰かと一緒にものを食べた事など両手で数えるほどしかないし、いつだって味はわからなかった。だが、今日の晩餐会は少し楽しみだった。