魔術師の影
「ねぇアーニャ様。あなたはディウルス陛下の事、どう思ってらっしゃるんですかぁ?」
「ディウルス様の事、ですか?」
エルフィアがそう尋ねてきたのは突然だった。魔術的な品種改良を重ねて生まれたという世にも珍しい青い薔薇を、エルフィアの説明を聞きながら鑑賞していた矢先の事だったのだ。脈絡が掴めず戸惑いながらもアーニャは自分の気持ちを素直に口に出す。
「ディウルス様は素敵な方ですよ。わたしなんかにも優しくしてくれますし、こんなわたしの事も受け入れてくれますし」
さすがに今日知り合ったばかりのエルフィアに深い事情を話す気にはなれない。瞳の事や呪いの事はぼかしつつ、アーニャはゆっくりとアライベルでの思い出を語った。
一緒に芝居を観に行った事。青いリボンをもらった事。手作りの品を渡した事。対等な存在になれた事。緩やかで穏やかなものではあったが、この四か月間でディウルスと育んだ絆はきっと愛と呼ぶに差し支えないものだろう。
そう思っていたからこそ疑問など抱かなかった。そう信じていたから反応できなかった。
「あなたのそれって、本当に“愛”なんでしょうかぁ――自分を愛してくれるなら、誰でもよかったんじゃないですかぁ?」
呼吸が止まる。突きつけられたのは気づきたくなかった可能性だった。いや、無意識のうちに心のどこかではそう考えていたのだろうか。けれどそれが表面化する事はなく、だからアーニャもこの想いを疑う事をしなかった。
ディウルスなら釣り合うから。ディウルスならこちらを見てくれるから。ディウルスなら、ディウルスなら。そうだ、誰でもいいなんて事はない。ディウルスだから……いや、違う。何故ディウルスなら安心できる? 愛してもいいと、愛してくれると、言質を取ったからではなかったか?
「なぁんてねぇ。ちょっとした戯れ言ですよぉ、お気になさらないでくださいましぃ」
アーニャの心に混沌を投げ込むだけ投げ込んでおいて、何もなかったかのようにエルフィアは微笑を浮かべた。しかしアーニャは気づく――――目が、笑っていない。
一気にエルフィアの事が怖くなった。嫌いだとか苦手だとかではない。純粋に生き物として、目の前の令嬢が恐ろしい。本能が訴える。彼女を敵に回してはならないと。彼女に踏み込まれてはならないと。
自然界には色で自身の危険さを周囲に示す生物がいるという。もしかするとエルフィアの声は警鐘の一環だったのだろうか。うかつにその言葉に耳を傾けると、知りたくなかった真実という名の毒に蝕まれるという。
(ちが……わたしは、ディウルス様の事が……)
彼は婚約者だ。異性として見ていて何が悪い。愛してくれる人を愛して何が悪い。憂う事など何もないはずだ。
それなのに、どうしてこうも心が揺さぶられる? ディウルスでなくてもいいと本心では思っているから――――万が一ディウルス以外の男性からも愛を囁かれれば、そちらに堕ちてしまう可能性を抱えているからか?
(……そんなわけ、ない。きっとディウルス様だけなんです。わたしが、好きになれるのは)
もう一人の自分の囁きを振り払う。目移りするなどありえない。婚約者だから好きになろうと思ったのではなく、ディウルスだから好きになろうと思ったのだから。
そうだ、これ以上何を悩む必要があるだろう。ディウルスはアーニャに惚れてくれると言った。自分に惚れて欲しいと言った。それだけで十分だ。ディウルスの愛を、ディウルスへの愛を、疑う理由などどこにもない。
「そうですね。きっかけは、誰でもよかったかもしれませんけど――でも今は、ディウルス様以外には考えられません」
そう言って微笑み返すと、エルフィアはわずかに目を見張った。その小さな表情の変化に気づき、あれほど感じていた少女への恐怖が消える。もう恐れる事などなかった。
「……ごめんなさいねぇ。ちょっと意地悪な事を言ってしまいましたぁ」
それでも余裕を失わないままエルフィアは青薔薇に触れる。その白い指に棘が刺さった。けれど痛みに顔をしかめる事もせずにエルフィアは続けた。
「この薔薇は、エルフィアローズという品種なんですぅ。これ、ロイド様がお作りになったんですよぉ。わたくしとの婚約が決まったとき、ロイド様はこの薔薇を作り上げて庭園に植えさせましたぁ」
誰の手も借りず、一人で。魔術と園芸の盛んなレンブリックだが、白薔薇を青く色づける魔術を使用する以外で純粋な青色の薔薇を作ったのはロイドが初めてだったとエルフィアは語る。きっとそれはロイドが彼女に示した愛の重さなのだろう。
「わたくしはロイド様の愛を疑ってはいませんしぃ、わたくしもロイド様にすべてを捧げた身ですからぁ、この婚約に対して否定的な見方をした事はありません。……けれど、少し気になってしまったんですよねぇ。わたくし以外の、国王の婚約者は……王族と政略結婚をすることについて、どう思っているのかぁ」
「……わたしの答えはお気に召しましたか?」
「いやですねぇ。他人からの評価なんて気にしてどうするんですかぁ?」
尋ねると、エルフィアは自嘲気味に笑った。どうやら採点結果は教えてくれないらしい。けれどエルフィアの態度の変化が答えであるような気がした。
「アライベルの次期王妃があなたのような方で安心しましたぁ。……わたくし達、気が合いそうですねぇ?」
「こちらこそ。これからもいいお友達としてお付き合いしていただければ幸いです」
意味ありげな含み笑いを浮かべるエルフィアに戦慄しながらも、アーニャは改めて友誼を結ぶ。もうエルフィアの声が耳に引っかかる事はなかった。
*
「そろそろ開戦の予定日を聞かせてほしいものだ。こちらも準備があるのでな」
「冗談でもやめてくれ。無用な争いはごめんだ」
紅茶を飲む手を止めてディウルスは盛大に顔をしかめた。一方のロイドはけらけらと笑っている。
「何を言うか。先の三年戦争ではアライベルもずいぶん利益を得たではないか。戦は金になるのだと、そなたも知っているはずだ」
「だが、金で命は買えないだろう。必要なら剣を取るが、無理に大陸を荒らし回る理由がない以上こちらから動く気はない」
「今はまだ、だろう?」
「……」
言い返さないディウルスを見てロイドはいっそう笑みを深める。ティーカップに手を伸ばし、ロイドはこともなげに告げた。
「いつでも構わん。戦争を始めるなら余も支援はするぞ?」
「その手には乗らんぞ。潤沢な資金をちらつかせておいて、旗色が悪くなればまた俺達を見捨てるんだろう?」
「それが自国のためならば。他国にかまけて自国を窮地に陥れるような暗愚になる気はないのでな」
せめてもの意趣返しにと吐いた怒りもロイドはけろりとしながら受け流す。実際にそれを行ったのはロイドの叔父だったレンブリックの先王だが、ロイドも意思は変わらないらしい。
八年前に始まり五年前に終わったイストロア皇国との戦争で、アライベルは同盟国だったレンブリックの支援のもとイストロアを中心とした大陸中の名だたる国々を相手取っていた。
しかしそれはレンブリックの敵国だったエスラシェ王国が、アライベルの敵陣営にいたからだ。アライベルとレンブリックが同盟を結んでいたと言っても、それは戦争にまつわる類のものではない。だからレンブリックはエスラシェと戦いつつも、アライベルが劣勢に立たされた途端あっさりと支援を打ち切った。
結局アライベルは多勢に無勢の中でからくも勝利を収めたが、レンブリックの支援が続いていればもう少し戦局は変わったのかもしれないと思うと複雑な気分だ。さすがに一国の財力と軍事力で五か国以上の大国を一度に相手にするのはきつかった。この五か国に付き従う小さな属国の数々を含めればその数はもっと膨れ上がるだろう。
とはいえ、支援を打ち切られたと言ってもそれはあくまで資金面だけだ。実際のところレンブリックとエスラシェの戦争は続いてくれていた。きっとこの二国にとってアライベルとイストロアの戦争などどうでもよく、先祖の代からいがみ合っている敵国と戦えればそれでよかったのだろう。そのため隣国でありながらもアライベルがエスラシェの相手をする必要はなかったので、アライベル国内における反レンブリック感情はそこまで高くはないのだが。
「まあ、豊富な資源の眠るクラウディスの姫君を手中に収めたアライベルならもう我が国の支援など必要ないかもしれんがな? いやはや、我々もあやかりたいものだ」
「相変わらずお前は嫌な奴だな。こんな話をするために呼んだのなら帰らせてもらうぞ」
政治的な駆け引きは嫌いだし、ロイドの態度も気に食わない。ティーカップを置いて立ち上がると、ロイドはまるで引き留めるかのようにぽつりと呟いた。
「宮廷で嫌な話を耳にする。そなたがアーニャ姫を金の卵を生む鳥だと思っていようが愛する娘だと思っていようがどうでもいいが……姫を戦争に利用したいのでないのなら、せいぜい気をつける事だな」
「……何の話だ?」
思わず動きを止めると、ロイドは苦々しげな顔でディウルスを見上げる。
「最近は落ち着いたようだが、旅人に泣かされたという娘が多くてな。どの家も巧妙に隠そうとしていたようだが、王たる余を欺けるものか。その素性までは特定できなかったが、どうせエスラシェの軟派男の仕業だろう。エスラシェはそなたのところの隣国だ、そなたのところにもその手の輩が流れてくるかもしれん。アーニャ姫が大事なら、その辺りの事も気を配っておけ」
記憶の糸を辿る。いつだったか、リットが報告してきた各国の動向の中にそんな類の話がちらりと出てきた気がしないでもない。
とはいえ、華やかな貴族社会においては痴情のもつれなどよくある事だ。特に気にする事もなかった報告だが、こうしてアーニャに結びつけられるとあまりいい気はしない。そういえば以前アーニャが街で怪しい男に声をかけられたというし、他人事だと断じるべきではなかったのだろうか。
「非常に腹立たしい事に、今回の宴にエスラシェの輩を呼ばねばならなくてな。こちらも気をつけはするが、そなたも目を光らせておけ。リフィーほどではないが、アーニャ姫もなかなかどうして美しい。厄介な男に狙われても知らんぞ」
エスラシェへの悪感情を隠す事なくロイドは吐き捨てる。彼は従伯父のニードには一目置いているようだが、エスラシェの血が流れている妻を娶ったリットとは折り合いが悪いらしかった。今回のレンブリック行きをリットが辞退したのもそれが理由だったのではないか、とディウルスは睨んでいる。
血筋としては傍系のリットさえ厭うのだから、幼少期から培われてきたロイドのエスラシェ嫌いは相当のものだろう。彼の場合、エスラシェ人の陰謀で地位を奪われ国を追われそうになったというのも大きいかもしれない。
そもそもレンブリックは敵国が多いので、政策の一つとして他国の血を混ぜてきたアライベルとしては気を使う事もしばしばだ。ディウルスとアーニャを守るかなめであるアッシュやミリリといったエスラシェの血が流れる者の同行を打診するたび、決まって毎回渋られていた。レンブリックもレンブリックで周辺諸国との軋轢を埋めようとしているのか、今回は引きつり笑いで受け入れられたが。そのうえルルクまで名指しで呼ばれるというおまけつきだった。
それでもリアレアとヴィンダールを連れていくのは自重したぐらいだ。この二人もレンブリックの敵国の一つであるイレニス帝国の血を引いている。いっそ清々しいほどはっきりといがみ合っているエスラシェとは違い、イレニスとは微妙な状態が続いているらしいから、余計な刺激をするのはやめようと判断した結果だ。判断したのはディウルスではないが。
他国に侮られないようにその国の文化や慣習、高貴な血を積極的に取り込んでいこう、という考えのもと始められたこの混血政策―実際はもっと仰々しい名前がついていたが、ディウルスは勝手にこう呼んでいる―のおかげで、王家によく仕えてくれている貴族ほど家系図が国際色豊かになってくる。そのせいでこうして細かい事をぐちぐちと考えなければいけないのだが、ディウルスとしては「全員アライベル人なんだからそれでいいじゃないか」と声を大にして言いたいところだ。実際に言ったら方々から睨まれそうなので言いたくても言えないが。
「……わかった。肝に銘じておこう」
「ただ、一つ奇妙な事がある。周囲の目やらなんやらを考慮して秘密裏に問いただしたのだが……娘達は誰一人として相手の顔も名前も覚えていなかったのだ。“行きずりの旅人にもてあそばれた”という事実があるのみでな。しかし最近は、その記憶すらも薄れているという。もしかすると、我々の注意だけではどうにもできん相手かもしれん」
重々しく告げられた言葉にディウルスは眉をひそめる。何故それをロイドが問題視するのかわからなかった。
「単純に、女達がその旅人とやらを庇っているだけだろう? 結局は捨てられたとはいえ、一時は恋をしたのだから多少の情もあるはずだ。男のほうは不誠実だったようだが、捨てられた側からすればそう割り切れるものじゃないと思うが」
「それはない。何故ならリフィーまでもが答えられなかったからだ」
「お、おう」
根拠と呼ぶには不確かだ。しかしあまりにもはっきり断言されてしまったので、ディウルスも口を挟めない。婚約者が自分以外の男にわずかでも好意を抱く可能性など欠片も信じていないからこそ溢れるロイドの自信に気圧されながら、ディウルスは続きを促した。
「今から半年ほど前のことらしい。貴族街を歩いていたら、見慣れぬ男に声をかけられたそうだ。むろんリフィーはきっぱりとそやつを拒絶し、強引に言い寄られたという事実をその日のうちに余に伝えた。しかしリフィーは、奴の特徴を伝える事ができなかったのだ。リフィーの側近達もそうだったのだぞ? 普通ならありえるわけがない。普通なら、な」
「普通ではない……たとえば魔術的な記憶障害が引き起こされているという事か?」
「ああ。人の心に干渉できるなど、よほどの手練れだろう。人の心は神の領域。そこに土足で立ち入るなど、外法の悪魔かあるいは神をも恐れぬ天才か。我が国の魔術師もひそかにこの謎の解明に当たっているが、口惜しい事に芳しい結果が出ないのだ」
薄情な言い方をしてしまえば、貴族の娘が何人泣かされようとロイドが重い腰を上げる事はないはずだ。もちろん何らかの手は打つかもしれないが、それでもここまでおおごとにしようとは思わないだろう。秘密裏に宮廷魔術師達を動かすなどもってのほかだ。
レンブリック連合王国では、国を動かすのは王ではなく議会だと決められている。王もまた議会の一部であり、議会の承認なしには動けないという。しかし彼の口ぶりからして、事がそれほど大きくなっているとは思えない。恐らく議員のほとんどは旅人の存在など知らないのではないだろうか。
それなのにロイドが動くと決めたのは、使用された魔術とそれを扱える魔術師の存在を重く見たからだろう――――人の心に干渉できる者など、脅威以外の何者でもない。
「……わざわざルルクを呼んだのはそれが理由か?」
「察しがよくて助かる。そなたもこのまま件の魔術師が野放しになっていては困るだろう? 頼む、少しばかり知恵を貸してくれ。そなたの国の宮廷魔術師だ、解決するまでこの国に滞在してくれとまでは言わん。むろんそなたやアライベルに便宜は図るし、魔術師殿にもそれなりの報酬も用意しよう」
エスラシェ王国を心から憎むロイドが、厳密にはエスラシェ人ではないとはいえエスラシェ生まれの魔術師に協力を仰ぐ。それがどれほど彼にとって重い決断だったのかは考えるまでもない。それほどロイドにとってこの一件は早急な解決を要するものなのだ。そしてそれはディウルスにとっても同様だった。
「あいつの主人は正確には俺ではないから、この場ではなんとも言えないが……いい返事ができるよう努力はしよう」
ディウルスはそう言って部屋を後にした。エルフィアとともに薔薇園に赴いたというアーニャを迎えに行き、ゆっくりと今後の事を考える。アーニャに事情を打ち明けるのは、ルルクに打診してからのほうがいいだろう。少なくとも、落ち着ける場所でしたほうがいい。
もともとレンブリックは魔術においてはアライベルより進んでいる国だ、ルルク個人の力量ならまだしも彼から抜き取れるアライベルの秘術などない。しかしルルクはアライベルの宮廷魔術師で、侯爵家の嫡男でもある。彼自身が引き抜かれる心配はしなくてもいいとはいえ、何が起こるかわからない異国の地に二つ返事で派遣できる人材ではなかった。
アライベルでも一位二位を争う腕を持つ魔術師の名は方々に知れ渡っているし、ルルクは半精霊という事もあって人間の視点では気づかない事も考える事ができる。その知識量と実力、そして特異な体質にロイドが活路を見出したのも不思議ではない。しかしそれと同時にロイドは疑っている事だろう。ルルクこそが記憶の改ざんを行った魔術師なのではないか、と。
それはありえないとディウルスなら断言できるが、その根拠を示す事は難しい。だからこそ、調査に積極的に参加する事でルルクにかけられた疑念を晴らす事ができればいいのだが。
しかしルルクをレンブリックに貸すにはルルク自身の承諾だけでなく、最低でも彼の祖父であるストレディス侯爵と宰相ニード、そしてロゼルの許可が必要だ。説得は苦手分野だが、うまくいってくれるだろうか。
……そんなディウルスの心配は、「え、何それ面白そう! 僕がかかわっていいの!? レンブリックで起きた魔術的事件の調査とか、むしろこっちからお願いしたいくらいなんだけど! 長期滞在……はさすがに厳しいけど、転移魔術を使えば余裕で行ったり来たりできるからさ! やった、腕が鳴るなぁ! 説得? なんなら僕がやるよ? むしろ僕がやるべきだよねこれ。だって僕もやりたいし! 気分的には僕がお願いして参加させてもらう立場だから!」というあまりにも軽すぎるルルクの言葉によって杞憂に終わった。自分が疑われているなど欠片も思っていない様子だが、本人がとても楽しそうなのでよしとしよう。ロイドも積極的にルルクを疑っているわけではないようなので、悪いようにはされないはずだ。




