婚約破棄
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「……さすがの僕も限界だ。レスクヴァ嬢、もう貴方には付き合いきれない」
伯爵令嬢レスクヴァ・ピアロースが婚約者に呼び出されてのこのこと彼の家までやってきてみれば、待っていたのは怒りにもあきらめにも似た表情を浮かべる青年とその友人達だった。友人達は性別を問わず数多くいる。みな婚約者と仲のいい者達だが、その中の何人かの女友達は婚約者の浮気相手でもあるという事をレスクヴァは知っていた。
こいつはいきなり何を言っているんだ、と冷めた目つきで彼を見ていると、婚約者は何を勘違いしたのかぐちぐちと不満をぶちまけてくる。
「君は確かに美しいが、それにかまけているせいかちっとも可愛げがないし、貴族令嬢としての嗜みも満足にできないし、なにより育ちの悪さがにじみ出ている。そのくせ嫉妬深くて私を束縛するし――」
婚約者の口から飛び出してくるのは、身に覚えのあるものやないものからただの彼のわがまままで様々だ。あまりのひどさに、さすがにそれは言いがかりだと言いたくなる。お前の好みの女性像にあたしを無理やり当てはめようとするな、そもそもあたしはお前の母親じゃない――――口まで出かかった文句を飲みこみ、彼をねめつけながらレスクヴァはゆっくりと口を開いた。
「わざわざそんな事を言うためにあたしを呼んだの?」
「いいや。さすがの僕もそこまで暇ではないさ。本題はこれからだ、レスクヴァ嬢――ここにいる僕の友人達を証人として、君との婚約は破棄させていただく。いずれ父を通して正式な書状が君の家に届くだろう」
「……」
開いた口が塞がらないとはこの事か。いきなり馬鹿な事を言い出した婚約者に目を丸くしていると、何を勘違いしたのか彼は勝ち誇ったように笑った。彼の友人達もにやにやと笑っている。
「君の意地の悪さはすでに社交界に知れ渡っている。まともな嫁ぎ先は期待しないほうが君のためだぞ。君みたいな金にがめつく嫉妬深い悪女をもらってくれる男なんて、よほどの醜男か変態ぐらいしかいないからな。それが嫌なら、せいぜい修道女にでもなるがいい」
非常に腹立たしいが、家の勢力で言うなら婚約者のほうが上だ。もうここにいる理由はないからと、ため息をついて立ち上がる。
「この際だからあたしからも言わせてもらうけどさ。貴方は顔も頭も腕も能力も足りないと思うよ? 貴方のとりえと言えば若さと金と爵位だけじゃない。だけど、若さなんて時とともに失われるものだよね。金と爵位にいたっては貴方個人じゃなくて、貴方のお父さん……貴方の家のものじゃない。もちろんいずれ貴方が受け継ぐ事になるでしょうけど、貴方にそれを次代に残すだけの力があるのかな? 先代の遺産を無様に食いつぶして、せっかくの名家を落ちぶれさせるのがおちじゃない?」
「なっ……」
「貴方こそ、次の婚約が早く決まるといいね。貴方よりいい男はそれこそ星の数ほどいるの、女にだって選ぶ権利はあるんだよ。……ああ、ごめん。貴方に限ってはその心配はいらなかったね。あたしにしたみたいに、金と権力にものを言わせて立場の弱い女と無理やり婚約しちゃえばいいんだから」
じゃ、用済みのあたしは帰るね。それだけ言い残して彼の屋敷を後にする。自分はたった今婚約を破棄されたわけだが、特に何の感情も湧いてこなかった。最後の最後で吐いた捨て台詞が後でどんな影響を及ぼすのだろうかだとか、これからどうやって生きていこうだとか、そんな心配をする気力すら湧いてこない。
婚約者……いや、元婚約者の事を愛していたかと言われれば、それは否だ。一目惚れだかなんだかで無理やり言い寄られ、無理やり婚約させられ、そして性格の不一致と価値観の相違から何度も言い争いをし、つい先ほど別れを告げられた。淡々と進んでいった政略上の付き合いはどこか他人事のようで、まるで物語でも読んでいたかのようだ。
そんな男との別れた程度で自暴自棄になるとは思えない。おそらくこれは生来の無気力さと諦観が招いたものだろう。揺れる馬車から外を見つめながら、また小さくため息をついた。
「お帰り。思ったより早かったな」
「……どこから入ってきたの?」
私室で待ち構えていたのは、彼の厄介な主人とともに数ヵ月前から諸国漫遊の旅に出ているはずの兄だった。いや、兄と呼ぶのもおぞましい何かだ。名前はとうに忘れた。どうせ向こうもこちらの名前など覚えていないだろうが。
彼と同じ空気を共有するのも嫌だと窓を開けると、冷たい風が肌を刺した。思わず顔をしかめる。生まれも育ちもこの国とはいえ、すべての季節を否定するかのようなこの寒さには慣れない。永遠に降り続くかのような雪などもう見たくもなかった。幸い今は夏なのでこのあたりに積雪はないが、北にそびえたつ山の頂上はわずかに白みがかっている。
「玄関から堂々と。はるばる妹に会いに来た兄を追い返すほど、君の親御さんは非道ではないらしい」
異国の陽を浴び続けていたせいか赤くなっている顔に笑みが浮かぶ。その表情が無性に癇に障った。
「さっさと用件を言って。用が済んだら帰ってよ」
「冷たいじゃないか。久しぶりに祖国に帰ってきて、まっさきに妹の顔を見に来たのに。お帰りお兄ちゃん、それぐらいの言葉はかけてもばちは当たらないと思うんだ。……ああ、お土産ならあるよ? 君の好きそうなものがちっともわからなかったから、適当に見繕ってきた」
「……」
レスクヴァの視線が強くなっていくのを感じたのか、兄は「怖い怖い」と言いながら肩をすくめた。これ以上のからかいは時間の無駄だと感じたのか、兄はすぐに本題に入る。
「また婚約者ともめ事を起こしたんだろう? あの男、今度は下女に手を出したらしいな。まあ、君が怒るのも当然か」
確かについ先日、婚約者とひどい言い争いをしたばかりだ。相手がしょっちゅう浮気に走るのも事実だった。だが、何故今婚約者の話題を出るのだろう。しばらくぽかんとするレスクヴァだったが、ようやく合点がいった。点と線が繋がるような感覚を味わいながら、レスクヴァは苦々しげに尋ねる。
「婚約破棄はあんたの仕業?」
兄は人の心を操る事ができる。婚約者との喧嘩など日常茶飯事だというのに、今日に限って突然婚約破棄を言い渡されたのも、兄が一枚噛んでいると思えば納得のいく出来事だ。
だが、そんな事をした理由はさっぱりわからない。レスクヴァが兄を嫌っているように、兄もまたレスクヴァには無関心だ。大切な妹をろくでもない男に取られたくなかった、などという理由でないのは間違いない。とはいえ、どんな理由があったとしてもレスクヴァには関係ないが。
「あんたのせいであたしは嫁ぎ先を失ったんだけど、どう責任を取ってくれるの?」
「おや? 私の記憶が確かなら、君はこの結婚に不満を持っているはずだったんだが」
「それとこれとは話が別! 何もこんな形でぶち壊さなくても、」
「それについては謝罪しよう。悪かったと思ってる。君に醜聞が必要だったから、こんな手段を取らざるを得なかったんだ。婚約者君の顔が無駄に広いおかげで君に今後この国から縁談が来る事もないだろうけど、どうか許してほしい」
「……へえ。またずいぶんと謝る気のない謝罪だけど、馬鹿にしてるの?」
これだからこの男は嫌いだ。彼と同じ血が流れていると考えただけでも吐き気がする。壁に強く拳を打ちつけて貧民街仕込みの悪態をつくと、兄は困ったように頬をぽりぽりと掻いた。
「そう怒らないでくれ。君に縁談を持ちかけないのはこの国の貴族だけなんだから」
「……」
レスクヴァは顔をしかめたまま兄の言葉の意味を吟味する。この国の人間以外なら嫁の貰い手がある? ――――異国に嫁げば、すべての呪縛から逃げる事ができる?
「君の今までのあまりにも勝手な振る舞いには、君の親御さんも頭を痛めているだろうね。厄介な養女が売れ残る前に、何も知らない他国の貴族に押しつけようと思うのも自然な流れだろう」
「まさか、あの人達も操ったの?」
「さあ? ただ、私から言えるのは……君に残された道は三つあるという事だ。一つ目は修道女として神に仕える事。二つ目は行かず後家としてこのまま家に残る事。そして三つ目は、家の推薦で他国に行く事」
「……あんたはいつもそうね。選択肢を与えるふりして、そのくせ事前に逃げ道を奪ってる。あたしが選べるのは実質一つだけじゃない」
「強制はしていないだろう? 未来を狭めているのは君自身だ」
わざわざ婚約破棄などという茶番劇を仕組んだのは、レスクヴァを無理やり頷かせるためだろう。目的のためなら人の心を平気でもてあそぶ。レスクヴァの兄はそういう男だ。人を人とも思わない、卑劣な魔術師。レスクヴァが魔術師という人種をことごとく嫌うのは、言うまでもなくこの兄のせいだった。
「で、あたしみたいな不良娘を受け入れてくれる国があるとでも思ってるの?」
「それについては安心してくれていい。君が国を追われる事になったのは、ただの痴情のもつれが原因だからな。君自身が罪を犯したわけじゃないだろう? ピアロース伯爵家が一人娘を異国に留学させる事を決めたって、誰もそれを咎めやしないさ。この国で何があったかなんて知らない相手国ならなおさらな」
「……その辺まで計算済みってわけ?」
「想像に任せよう。留学先だが、私としてはアライベル王国がおすすめかな。あそこなら、きっと君の親御さんも賛成してくれる」
うんざりしながら睨みつける。だが、兄にはまったく効いていないようだった。それどころかぺらぺらと聞いてもいない事まで話し始める。
「君は黙って笑っていればどこぞの姫君だと言っても通用する女だ。どんな男も落とせるに違いない。うまくいけば玉の輿も夢じゃないさ。自分を安売りさえしなければ、君はきっと幸せになれる」
「勝手な事言ってくれるじゃん。あんたにあたしの何がわかるの?」
「君が金と権力のある男を求めてるという事ぐらいはわかってるつもりだ。そんな君の望みを叶えられそうな男は……せっかくアライベルにいくんだ、ここは夢を大きく持とう。そうだな……ディウルス王なんかいいんじゃないか?」
レスクヴァの人生をいつだってめちゃくちゃにしてきた青年は、憎らしいほど爽やかな笑顔を浮かべた。
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