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黙って笑え。それ以外は望まない  作者: ほねのあるくらげ
第四章

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新しい趣味(後編)

「リット様? ……もしかして、リット様が教えてくださるのですか?」

「ええ。アーニャ様がお望みとあれば、ですが」

「で、でも、今はお忙しいんじゃ……」

「忙しい? 私がですか?」


 心当たりがないのか、リットは首をかしげている。ディウルスが忙しそうにしているのだから、その側近であるリットもまた忙しいのだろうと思っていたのだが、思い違いだったのだろうか。いや、その事を抜きにしてもリットは多忙な身であるはずだ。なにせ彼は主席宰相補佐官、アーニャのわがままで仕事を放り投げさせていい相手ではない。そう伝えると、リットは冷笑を浮かべた。


「その事でしたらお気になさらず。陛下や宰相閣下がお忙しそうにしていらっしゃるのは、私の担当している分野とはまた別の案件ですし……それに私は、仕事は早めに終わらせる性質(たち)ですので」

「どういう事ですか?」

「あまりこういう事を申し上げるのははばかられるのですが、実は私も暇を持て余しているんですよ。宰相補佐官といえど、すべてに携わっているわけではありませんから。私に任せられた仕事はもう片付いています。かといってこれ以上私が手伝う事もありませんし、どうしようかと頭を悩ませていたところでした」

「そういうものなんですか?」

「ええ。ですから、アーニャ様のお役に立てる仕事を与えてくださるならば光栄でございます」


 リットがいいというならいいのだろうか。それならと、アーニャもリットに教えを乞うた。


*


「……痛ッ」


 鋭い針が指の先をつつく。突然の痛みに眉根を寄せると、向かいに座っていたリットが手を止めて心配そうに顔を上げた。

 失敗してしまった事の気まずさを微苦笑でごまかし、アーニャは刺繍を再開する。リットに刺繍とお菓子作りを教わるようになって今日で一週間だが、なかなか思うように進まない。リットは仕事が終わってから数時間ほどアーニャのもとに立ち寄って刺繍の手ほどきをしてくれ、お茶会と称してロラディオン邸に招かれては厨房を貸してもらうのだが、あまりの自分の不器用ぶりに彼の時間を無駄に使わせてしまっているのではないか、という不安が頭を離れる事はなかった。

 アーニャが新しい趣味に没頭しているうちにディウルスの仕事にも片が付いてきたらしく、最近では以前のように夕食を共にできるようになった。その席で進捗を報告しているのだが、ディウルスも不安そうな顔をしている。きっと彼もアーニャがどんなへまをやらかすか心配なのだろう。

 練習を初めてすぐにアーニャの指には包帯が巻かれるようになった。傷口の規模からして大げさだとは思うのだが、放っておく事をアリカが許してくれないのだ。危なっかしくて見ていられないと思ったのだろう、もうやめたらどうかとやんわり進言してくるリアレアの言葉を意図して退けている手前、せめて手当ぐらいはと言い募るアリカまでは拒めなかった。

 難しくはあるが、ちまちまと刺繍針を動かす作業や菓子を作る行為自体は決して嫌いではなかった。うっかり怪我をしてしまう事さえしなければ臆する事もない。問題は、身体が思うように動いてくれない事だが。いっそ図案やレシピなど無視して思うがままに作業を進めていたい。ここまでくると、自分は“刺繍”や“料理”が気に入ったのではなくこういった細やかな行為が好きだったのではないかと思えてくる始末だ。

 どうしてもリットのようにすいすい針を進めたりおいしいお菓子を作ったりする事ができない。アーニャがもたついている間、リットはさくさくと完成させてしまう。同じ道具を使って同じ図案を刺繍しているはずなのに、同じ器具と材料を使って同じ作り方をしているはずなのに、何がこの差を生んでいるのだろう。やはり経験だろうか。刺繍についてはリットがいないときでも空いた時間さえあれば自習はしているが、その程度で埋められるほど安いものではないらしい。

 道具の種類や基本の縫い方、器具と材料の取り扱いにはじまり、リットは根気強くアーニャに刺繍と製菓を教えてくれている。きっと彼からすれば目をつむっても怪我一つなくできてしまいそうな、初心者向けの簡単なものを。できの悪い生徒にもかかわらず、リットは匙を投げる事をしなかった。けれどきっと内心では、何故こんな初歩中の初歩ができないのだろう、とため息をついている事だろう。

 今アーニャがやっているのは白い花の刺繍だ。初めて図案を見た時は、複雑な線のない簡略化された模様なのでこれならできそうだと思ったのだが。白い布に白い糸で刺繍しているのだから目立たないのではないか、と心配になったが、できあがったのは清楚さの際立つ可愛らしい一品だった。リットが作った作品は、だが。簡単そうなものほど見た目にできがよく表れる。アーニャがやるとどうしても線が歪んでしまって、とても花には見えない。練習を続けていくうちにだんだんましになってきたのではないかと思えてきたが、気休めにしかならないようだ。一応リットからもそんな励ましの言葉をもらってはいるが、どこまで本気なのかはわからない。上達したと言ってもそれはあくまで初日の自分を基準にしたもので、講師であるリットの足元にも及んでいないのだから。


「……リット様は本当に、手先が器用なんですね」


 休憩中、ぽろりとそんな言葉が口から漏れる。ティーカップを手にしたままリットは陰のある笑みを見せた。


「幼いころからやっていましたからねぇ。性に合っているんですよ、こういった事は。……生まれつき手先が器用だったからこういった事に興味を持ったのか、それともやっていくうちに器用になったのかは、自分でもわかりませんが」

「そうだったんですか? それではわたしが追いつけないのも当然かもしれませんね。費やした時間が違いますから。わたしったら、自分でも驚くほど不器用で。リット様に比べて何もできないんですよ。お恥ずかしい限りです」


 ごまかしめいた照れ笑いを浮かべると、リットはわずかに眉をひそめた。


「それは違うと思いますよ、アーニャ様。大事なのは気持ちです。腕前など、作者の込めた気持ちを飾るものでしかありません。……それともアーニャ様、貴方は私と同じものを作りたいがために私をここへ呼んでいるのですか?」

「そういうわけでは……」


 思わぬ反論にアーニャが面食らっていると、リットは敵意に満ちたような表情をやわらげた。その偽善めいた慈愛の眼差しは、健気に生きるちっぽけな生き物を上位の存在が戯れに憐れんでいるときのものだ。……もっとも彼は、そんな事を意識しているわけではないのだろうが。

 黙っているだけで悪役感を醸し出してしまう夫の友人に、リアレアは生暖かい眼差しを向けた。きっと彼は明日の食事の内容を考えているだけでも、どうやって国を出し抜く完全犯罪を成功させようかと考えていると思われてしまうのだろう。


「私は基本の技術をお教えしているだけです。そこから生み出されるのはアーニャ様だけの作品ですよ。アーニャ様がどなたにどういったお気持ちをお伝えしたいのか、私はそのお手伝いをしているだけにすぎません」


 その視線に気づいているのかいないのか、リットはちらりとリアレアを見る。リアレアは何も言わずに微笑んだ。


「そもそも私の刺繍など、独学もいいところですからね。リアレアさんに呼ばれたときは驚きましたよ」


 理由などわかっているくせに。しらじらしい笑みはきっと本心からのものだろう。扱いに困る方ですわね、とリアレアは心の中で小さくため息をついた。

 つまるところリアレアがリットを呼んだのは、腕前より信頼を重視した結果だった。リアレアの知る中で一番刺繍が上手で人に教える事に向いているのがリットだというのは事実だが、そういった事に優れた人物なら他にもいるだろう。けれど外部から人を招き、アーニャに近づけるという事を、リアレアは警戒した。誰が何を考えているのかわからないからだ。ディウルスも同じ事を思うだろう。だからリアレアは、まっさきにリットに打診した。

 アーニャへの物理的な守りは完璧だが、悪意をもつ者が彼女の心に忍び寄る事までは止められない。その点、ディウルスの幼馴染みで、名門公爵家の次期当主で、忠誠心にあふれる愛妻家であるリットは安心だ。彼ならアーニャに害なす事はしないし、言い寄る事もしない。アーニャもディウルスを唯一無二の婚約者と見ているようなので、彼女がリットに惹かれる心配もなかった。どうしてもアーニャとの物理的な距離感が縮まる刺繍の講義で、彼ほど講師として適任な存在はそういなかった。

 それにリットはのちの宰相だ。未来の王妃であるアーニャと友好的な関係を築くのは、お互いはもちろん周囲の人間にとっても重要な事だった。やたらと人に誤解されやすいリットの人となりをアーニャに知ってもらうには、こうした形での付き合いがもっとも効果的だろう。


「私のように“器用”に何かを作ろうなど、考えなくてもよろしいんですよ。アーニャ様は、ご自身の想いをご自身が作りたいものに込めればよいのです。……もちろん、お手本通りに作る練習ではそういうわけにはいきませんがねぇ?」


 含みのある笑みとともにリットは紅茶を飲み干す。リットの言葉はいつまでもアーニャの心に残っていた。


*


 二週間かけて作り上げた刺繍は、用意した図案と比べるとやや不格好ではあったが一応の形はなしていた。何よりこれまでの作品の中でも一番のできだ。白いハンカチに白糸で縫い取られた王家の紋章を眺めながら、アーニャは達成感に頬を緩めた。


「リット様、ありがとうございます! リット様のおかげでなんとか完成させる事ができました!」

「いいえ。完成したのはアーニャ様が最後まで成し遂げようとなさったからですよ」


 不出来な刺繍も、これが始まりの一歩だと思えば恥ずかしくはなかった。アーニャの気持ちが変わったのを察しているのか、リットは静かに微笑んでいる。 

 王家の紋章といっても、それはかなり簡略化されたものだ。王冠を被った鷲と剣と月桂樹。簡略化された事に加えてアーニャ自身の技量が足りないせいで、説明を加えなければわからないかもしれない。王冠を被った鷲というよりとさかのある小鳥で、剣はまるで妙な位置で交差した棒のよう、月桂樹に至ってはただの突起のある枝に見えた。それでもこれが今のアーニャの精いっぱいだ。


「わたし、これからも頑張ります。ひとまずこれはこれでよしとしますが、次に陛下にお渡しする時はもっとわたしの気持ちが伝わるようにしないと。わたしらしい、わたしだけの刺繍というものも考えないといけませんし」


 ディウルスに贈ろうと決めていた。リットに渡された手本をなぞるのではない、自分で図案を決めた刺繍は。

 自分は誰のために刺繍を学ぼうと思ったのか。それはやはりディウルスのためだ。令嬢が刺繍をたしなみとするのは愛する人のためだというのは恋愛小説をよく読んでいたおかげで知っている。ディウルスを愛しているのかと訊かれるとよくわからないが、愛すべき人は誰かと問われればそれは彼しかいない。

 ディウルスに贈るのにふさわしい刺繍は何かと考え、ひとまず思いついたのは王家の紋章だ。これはアーニャの意思の表れでもある。自分はもう気持ちの上ではアライベルの人間なのだと。

 一針一針気持ちを込めて縫った。婚礼も済ませていない娘が王家の紋章に手を加え、それをかたどった刺繍をする事にどんな反響があるかはわからない。けれど知ってほしかった。たとえまだクラウディスの王女でも、まだ結婚していなくても、もうとっくにアーニャにはディウルスの妻となる覚悟ができている事を。

 もちろんこれだけでそう簡単に周囲の対応が変わるとは思っていない。アーニャがどれだけ心情に訴えたところで身分というのは残酷だ。今のアーニャは、クラウディス側にとってはアライベルの人間で、アライベル側にとってはクラウディスの人間だという不安定な位置にいる。クラウディスとアライベル、両国にあるアーニャの扱いの差は複雑だった。けれどこうして意思表示をしておけば、アライベルの人々は少しでもアーニャをアライベル寄りの人間だと思ってくれるのではないのだろうか。少なくとも、この国がアーニャを受け入れてくれたようにアーニャもこの国に馴染み始めているのだという訴えにはなるかもしれない。


「大変素晴らしいお考えでございます」


 リットは恭しく一礼し、退室の言葉を告げて去っていった。彼に教わった、今が旬のベリーをふんだんに使ったケーキも及第点をもらっている。ディウルスに渡せばきっと喜んでくれるだろう。城の厨房は軽々しく借りられるものではなく、かといっていつまでもリットの家の厨房を使わせてもらうわけにはいかないので、菓子作りを継続的な趣味にするというわけにはいかないが、離宮にいる間なら厨房に立っていても問題ない、と思う。もちろん菓子を作るためにわざわざ離宮に行けるわけではないだろうが、あの宮殿に滞在しているときは菓子作りの練習していても誰にも咎められはしないだろう。

 さっそく夕食の時にディウルスに渡そうと、アーニャは満足げに贈り物を見つめる。しかしふと今まで特に気にしていなかった事が気になってきた。ひと段落した事で気が緩み、刺繍と製菓以外の事に気を配れるようになったのだ。


「リアレア、リット様のお仕事というのはなんなんですか? わたしを迎えに来てくださったんですから、外交関係みたいですけれど……」

「はい。主に担当なさっているのは外交ですわ。リット様は今まで様々な国にいってらっしゃるんです。アーニャ様がおっしゃれば、面白いお話を聞かせてくれるかもしれませんわよ」


 リアレアはにこりと笑う。では彼が暇だという事は、ディウルスが忙しかったのは国内の事情だろう。それならリットに出る幕がなかったのも仕方ない。

 外交担当だというわりにはリットは常に宮殿にいる気がするが、そうでもないのだろうか。それとも普段は各国に派遣する外交官をまとめていて、大事な時だけ自分が使者として行くのかもしれない。それならリット自身が他国に赴く姿をアーニャがまだ見ていないのも説明がつく。リットと初めて会ったのは彼が使者団の長としてクラウディスに来た時だが、それはたまたまだっただろう。

 リアレアの説明を聞いて納得したアーニャは礼を言ってリアレアを下がらせた。うまくごまかせたとリアレアはほっと胸を撫で下ろす。リットの仕事はある意味では国の闇だ。いずれアーニャはディウルスとともにこの国の頂に立つ身ではあるが、まだ他国の王女という身分にある以上彼女に知られるわけにはいかない。リアレアはアーニャの意思も覚悟もよくわかっているが、それとこれとは話が別なのだ。

 リットは主席宰相補佐官であると同時に、国王直属の諜報機関の官長だった。もちろん表向きの職務として国王や宰相の名代を務める事はあるが、彼が本来担当している“外交”とはそんな表立った国家間の友好的な付き合いとはかけはなれたものだ。

 敵国に間諜を潜入させたり、彼らが集めてくる情報を精査したり。時には握った弱みを片手にリット自身が他国に赴き、その国の要人達と()()をする。それが彼のやり方だった。さすがにクラウディスのように国交が断絶していた国が相手では思うように振る舞えないらしいが、内陸にある国なら大抵顔が利くという。

 リットが暇な事、それはアライベルにとって今が結構平和である証か、あるいは嵐の前の静けさかのどちらかだ。もちろん、たとえ前者であっても今の情勢からすればそれは仮初のものにすぎない事はリアレアも承知はしていたが。


 ――――そんな彼女の予想を裏づけるかのように、ある小さな嵐がアライベルに近づいていた。

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