蛇愛づる姫君、姫愛づる蛇達
次の日にはアーニャの熱もすっかり下がっていたが、一応大事を取ってあと二、三日休む事になった。そのころにはミリリも休暇を終えたのか仕事に戻っていて、騎士の数も元に戻っている。夜心香も問題なく動いていた。まるで寝込んでいる間に感じた違和感はすべて熱のせいで見た錯覚だったかのようだ。
「姫様、ご気分はいかがですか?」
「ええ、もうすっかりよくなりました」
「それは何よりですわ」
微笑むエバにつられてアーニャも笑みを浮かべる。朝食を終えると、リアレアが溜まった手紙を見せてくれた。どうやら知らない間に貴族達が屋敷で催すお茶会に多く呼ばれていたらしい。
開催日はまだしばらく先なので臥せっている間に届いても問題ないものばかりなのだが、これからしばらくは忙しくなりそうだ。疲れを溜めてまた倒れないようにとリアレアの助言のもとで組まれた予定表を見ながら、アーニャはほっと胸を撫で下ろした。やはり求められているというのは安心できる。もちろん一月以上に渡ってびっしり予定が組まれているというわけではないが、十分生きていると実感できる量だ。それに、年若い令嬢だけでなく幅広い年代層の貴族女性達に誘われているというのも、王の婚約者として彼女達に認められているような気がして嬉しかった。
* * *
アーニャが初めてヘイシェルアール邸に足を運ぶ事ができたのは、臥せってから一か月ほど経ってからの事だ。ヘイシェルアール家で催されるお茶会の招待状が届いたのだ。主催者はロゼルらしいが、招待客は自分一人だという。ロゼルの交遊関係の狭さに少し不安を覚えるが、アーニャもあまり人の事は言えない。それに、見知らぬ人が大勢いる空間は疲れてしまう。ゆっくりとロゼルと喋れるのは楽しみだった。
「アーニャ様、お会いしたかったです!」
使用人に案内された庭園では、満面の笑みをたたえたロゼルが出迎えてくれた。もうハルトラスの件は解決したと聞いている。すべての憂いは取り除かれたのだろう。アーニャも顔を綻ばせながら勧められるがままに着席した。用意された紅茶や菓子は普段王宮で食べているものと遜色ないぐらいにおいしかった。
「……あら」
「どうかなさいましたか?」
会話に花を咲かせていると、何かに気づいたロゼルが庭園の向こうを見つめた。彼女の視線をアーニャも追うが、何も見えない。しいて言うなら芝生の一部がやけに色鮮やかな事だろうか。それは細長くて、しかも動いていた。
「アンドレアスが来たんです。ちょうどいい機会ですし、アーニャ様さえよろしければ紹介いたしましょうか?」
「アンドレアス様が!?」
驚いたせいで持っていたティーカップに波が立ってしまった。慌ててティーカップを置いて、ぜひにと頼む。ロゼルはほっとしたように表情を緩めた。
だが、人の姿はどこにも見えない。見えるものと言えば芝生の上を滑らかにくねりながらこちらに近寄ってくる色鮮やかな細長い塊だけだ。アーニャが戸惑っていると、ロゼルはおもむろにその塊に近づいてしゃがみ込んだ。アーニャも慌てて彼女の後を追う。
「紹介いたしますね。この子がアンドレアスです」
「……えっ?」
そう言って紹介されたのはどう見ても蛇だった。シャーッと威嚇するように開けられた口からは毒々しい色をした唾液の滴る鋭い牙が見える。やたらと鮮やかな色が特徴の、とても大きな蛇だった。
「大丈夫ですよ。わたくしの蛇達はとっても頭がいい子達ばかりで、噛んだりしませんから。もちろんしつけもしっかりしていますから、安心してください」
ロゼルはそう言うが、そういう問題ではない。そうしている間に別の蛇が這い寄ってきた。ひっと息を飲んで後ずさりたくなる衝動を、ロゼルの手前必死でこらえる。大丈夫、人に慣れている種類のようだから。怯えるほどのものではない。その証拠にロゼルは、ほら、伸ばした腕にアンドレアスが巻きついてきても、にこにこしながら微動だにしていないではないか。
「アンドレアス、アーニャ様にご挨拶してちょうだい」
ロゼルが促すと、アンドレアスはちろちろと舌を出しながらお辞儀をするようにわずかに首を前後に動かした。まるでロゼルの言った事がわかっているかのようだ。そのかしこさには思わず目を見張るが、だらだらと伝う冷や汗だけはどうにもできない。
「え、えと、り、凛々しい顔立ちの……へ、蛇……です、ね?」
「ふふ、そうでしょう? 顔ももちろんですが、この子は性格もとても素敵なんですよ。紳士的で優しくて。慣れるまでには時間がかかりましたが、慣れてからはすっかり懐いてくれて――――」
頬を上気させたロゼルの愛蛇自慢は止まらなかった。他に何匹も蛇を飼っているとか、みんなそれぞれ違ったいいところがあるとか、そんな事を愛情たっぷりに語られてしまえばアーニャはもう水を差せない。幸せそうなロゼルの話を、時折頷きながら聞くほかなかった。
婚約披露の宴でアンドレアスの話題が出た時、ロゼルの護衛騎士とルルクが複雑そうな顔をしていた理由がようやくわかった。きっと彼らは蛇を自分の子供のように可愛がるロゼルに付き合っていたのだろう。それにしたってルルクがまるで人間の男性を相手にするように褒めていたのは疑問が残るが、それも付き合いの一つなのかもしれない。ハルトラスに悩まされていたロゼルをアンドレアスが助けられないのも当然の話だ。アンドレアスはあくまでロゼルのペットであり、恋人どころか人間ですらないのだから。
結局、その日のお茶会はロゼルの愛蛇自慢で幕を閉じた。喋りすぎたとひたすら恐縮するロゼルだったが、アーニャとしてはロゼルの新しい一面を見る事ができたのでそれほど不満はない。蛇は少し怖かったが、慣れてくるとつぶらな瞳や鮮やかなうろこに愛着もわいた。さすがにまだ触れそうにはないが、今度ヘイシェルアール家にやってきたときは他の蛇も見てみたい、と思うだけの余裕も生まれたのだ。
ロゼルの言葉通り、アンドレアスはとてもおとなしい蛇だったからかもしれない。それに、ロゼルとアンドレアスの間には確かな絆と信頼関係があるように見えたというのも大きいだろう。ロゼルがあれだけ大切に育てている蛇が、悪さなどするはずがないのだから。
* * *
――――時は少し遡る。
結局、ルルクが復帰したのは毒殺騒ぎがあって一週間ほど経ってからの事だった。実際命に別状はなかったのだが、彼の祖父であるストレディス侯爵がやたら心配性でなかなか屋敷から出してもらえなかったらしい。その時の様子を語るルルクは呆れたように肩をすくめていたが、どこか嬉しそうだった。
「何はともあれ、何事もなくて安心したぞ。お前が倒れた時はどうしようかと思ったからな」
ロゼルもミリリも取り乱すしで大変だった、とディウルスは深くため息をついた。しかし毒を飲んでいたのがロゼルだったら、それはそれでまた大変な事になっていただろう。
「はは。僕はそう簡単に死なないから安心してよ。で、わざわざ呼び出した理由はなんだい? まさか挨拶のためじゃないだろう?」
「少し確認したい事があってな。……ミリリの調査と姫を襲った襲撃者の証言から、毒を盛るよう指示したのはハルトラスだという事がわかった。だが、どうやら何者かがハルトラスを教唆していたらしい。襲撃者達はそれ以上語る事なく自害したが、その人物は襲撃計画を手引きした者と同一人物のようだ。こいつについてはミリリが追っていたが、残念ながら巧妙に撒かれてしまったそうだ」
「へぇ。じゃ、探し出して思い知らせてあげないとな」
低く小さな声でルルクはそうひとりごつ。相変わらず口元には笑みが浮かんでいたが、眼鏡の奥の紫の瞳はちっとも笑っていなかった。その発言の真意をはかりつつ、ディウルスはおもむろに口を開く。
「……それはそうとしても、実は先日からハルトラスの行方が掴めないそうなんだ。騎士達が捕縛に向かう前に、疑われている事に勘づいて高飛びしたのかもしれん」
「ああ、ハルトラスの事ならもう気にしなくていいよ? 確かにあいつは逃げようとしてたけど、その前に僕らがしっかりお灸をすえておいたからね」
ルルクはなんでもない事のようにそう言った。やはりこいつが動いていたのか。ディウルスは眉をひそめてルルクを睨みつける。この様子では、一週間屋敷に引きこもっていたというのも本当かどうか怪しいところだ。たとえ彼が家人や使用人の目を欺いて外を出歩いていても驚きはしないだろう。
「そういうわけには、」
「君が手を下すまでもないさ。あいつはもう何もできないよ。あーあ、もっと早くやっておけばよかったな。そうすればロゼルが煩わされる事もなかったのに」
冷徹な光を放つ爬虫類じみた目を細め、ルルクは愉快げに口角を吊り上げる。その瞬間、ディウルスの背筋をひんやりとしたものが伝った。これは、そう、生物としての本能だ――――どれだけ鍛え上げられた戦士であろうと、人智を超えたモノに抱く恐怖だけは忘れない。
「……ルルク、ハルトラスに何をした?」
「アンドレアスって知ってる? 数か月ぐらい前にロゼルが飼い始めた蛇なんだけど」
ディウルスの質問には答えずルルクはへらりと笑う。いや、きっとそれが彼なりの答えなのだろう。
ロゼルの趣味はディウルスも知っていた。精霊が視える事に加えて貴族令嬢らしくないその趣味に対する周囲の評価やその事が彼女の性格に及ぼした影響についても、ディウルスは小耳に挟んでいる。彼女の過去について詳しいわけではないし、具体的に何があってどうなったのかまでは知らないが。
「ロゼルの飼ってる蛇って、みんな毒蛇なんだよ。その中でもアンドレアスは特に毒性が強くて好戦的で、自分より大きな身体の生き物でも平気で食べるような危険な種類なんだ」
「……」
「アンドレアスだけじゃない。他の蛇も、さすがにアンドレアスよりは劣るけど……まあ、その辺にいる蛇よりはよっぽど危険な奴ばっかりなんだ。もちろん中には、本当に無害な奴もいるけどさ」
ヘイシェルアールの拷問館。そんな単語がディウルスの頭をよぎる。由来は数代前のヘイシェルアール家の当主が行き過ぎた嗜虐嗜好の持ち主で、領土内で何度も残虐な事件を繰り返した事だった。もっとも噂には尾ひれがつきものだ。当然その話についても多少の誇張もされている。だが、すべてが創作だとは言い切れない程度の裏付けはあるのは事実だった。
そしてその問題の当主以外にも、歴代のヘイシェルアール家には血塗れた噂が付随する者が数多くいる。ヘイシェルアール公爵家の権力と時世の流れによって見過ごされてきた彼らの行いは、時には必要悪としてアライベルの歴史に刻まれていた。
ロゼルはおとなしい少女だが、彼女もまた血なまぐさいヘイシェルアール家の娘だ。ロゼルの中にもかつての拷問公達の血は流れている。いつ彼女が先祖と同じ道を辿り始めようとなんらおかしな事ではない。
そんなディウルスの心情を察したのか、ルルクはすべてを見透かすような昏い紫の瞳を向ける。ロゼルにそんな意図はないけどね、と楽しげに前置きし、
「あの子は単純に蛇が好きなだけだよ。公爵夫人も、ロゼルに対して負い目があったんじゃないかな? 屋敷内で蛇を飼う事だけは口出ししないみたいだよ。その代わり、絶対に蛇を外に出させないみたいだけど……蛇も頭はいいからロゼルの言う事はよく聞くし、人を襲う事もない」
そう語るルルクの眼差しはどこか誇らしげですらあった。お気に入りのおもちゃを自慢するような……いや、違う。優秀な配下を評価するような、そんな口ぶりだ。
ルルクは人間と精霊の混血だった。蛇を真の姿とする彼は、ロゼルと守護の契約を交わしているらしい。ロゼルは精霊と心を通わせる事のできる唯一の存在である精霊術師だからだ。たとえ契約を交わしたところで精霊と精霊術師の間に主従関係が生まれるわけではないが、ロゼルに飼育される蛇達に一種の仲間意識があるのだろう。
だが、そんな誇らしさはすぐに底冷えするような嘲りに変わる。それはきっと、ロゼルを愛する優秀な蛇達の存在を軽んじたハルトラスに対してのものだ。
「それに、あの子の蛇はみんなあの子の事が大好きなんだ。そんなあいつらが、ロゼルを傷つけた奴を許すわけがないよね?」
ヘイシェルアール家によって厳重に管理されている蛇が、外部の人間を襲えるはずがない。何者かの手引きがあったはずだ。蛇を操る事はもちろん意思の疎通すらもたやすく行えて、なおかつハルトラスに制裁を加えようとする気概と、公爵夫人の目を盗んで蛇を連れだす手段を持つ人物の手引きが。
「……勝手な真似は慎むように」
ルルクとロゼルの蛇達が具体的に何をしたのか、聞きたくはなかった。気分が悪くなりそうだからだ。それに、彼のした事が“やりすぎ”だと言えないわけではないが、かといって一概に“悪”とも言えない以上、藪をつつくのはやめておくべきだろう。アライベルの国法に照らせば、手段は残虐とはいえもたらされる結果はディウルスが下そうとしていたものとそう変わらないし、そもそもルルクの行動を認める法律すらあるのだから。
ハルトラスは王と未来の王妃が出席するはずだった場所で公爵令嬢を殺そうとし、結果的に侯爵家の嫡男を傷つけた。明確な殺意のあった犯行で、被害者がルルクでなければ死人が出ていただろう。貴族社会というしがらみの多い世界からの横やりさえなければ死罪がふさわしい罪だ。実際に嘆願書が送られるかどうかは別としても―状況からしてほぼありえないと思うが―、それを警戒したルルクが確実にハルトラスへ罰を与えるために独断で動いただけの事。ルルクが少し先走っただけで、ディウルスからはそれ以上何も言えなかった。
「謹慎処分でもなんでも受けるよ?」
「無理だと知っているだろう。復讐法は有効だ。お前の振る舞いは確かに勝手だったが、罰する事など俺にはできん」
ルルクは人前ではそれとわからないような素振りをしているが、その実とても勤勉な読書家だ。ディウルスの記憶が確かなら、ルルクは自身が閲覧可能な重要文献はほぼすべて暗記していた。そんな彼が、法典の片隅にひっそりと記された悪法の存在を知らないはずがない。
何代も前の王の代から改正しようという動きはあれど結局一度も改正されなかったその法律は、言ってしまえば被害者が直接加害者を裁くというものだ。被害者に直接加害者へ危害を加えるだけの力がなかったり、そもそも被害者がすでに死んでしまっていたりで実際に行使される場合は少ないが、行使を望む者や改正反対派の声が大きい事もあって今まで残されている。
被害者自身が罰を決められるので罪に見合わないほど大きな罰を与えられる可能性のあるこの法律をディウルス自身は悪法とみなしていたが、先王はこの法律を好意的にとらえていたし、改正の必要に迫られているわけでもないのでディウルスもまた特に改正しようとも思っていなかった。その結果がこれなので、苦い顔をするほかないが。
「そもそも、お前がさっさとロゼルに交際を申し込んでいれば済んでいた話じゃないのか? お前との婚約を盾にすれば、ハルトラスも強引な手段に出る事はなかっただろうに」
「それはそれであの男は激昂したと思うけど……」
「うるさい。お前のその煮え切らない態度がなければヘイシェルアール公爵はハルトラスとの見合いなんぞロゼルに持ち掛けなかったろうし、そうすればハルトラスが調子づく事もなかっただろうが。そろそろふざけるのをやめて、第二第三のハルトラスが現れる前にロゼルに告白すればいいじゃないか」
せめてもの仕返しだと恨み言を吐きだせば、ルルクはうんざりとしたように眉をひそめる。居心地悪そうにそっぽを向きながら、ルルクはぼそっと呟いた。
「……そりゃそうしたいけどさ。どうせ了承してもらえないから、冗談めかしてしか――ッ!」
思わず本音を漏らしてしまったのだろう、一瞬しまったという顔をしたルルクは「用が済んだなら僕は帰るから!」と言って足早に執務室を去っていった。相変わらず礼儀のれの字も知らないような青年だが、あれで通常運転なのでディウルスが気にする事もない。
「そう言うディウルスも、婚約者の気持ちはちゃんと考えたほうがいいよ! 人の事に口を出す前に、自分の事を考えたらどうだい? 自分の気持ちなんて、思ってるだけじゃ絶対他人には伝わらないんだからさ!」
「なっ!?」
扉が閉まる間際に放たれた捨て台詞に驚いたディウルスは思わず立ち上がったが、反論する前に扉はばたんと閉まってしまった。一人残されたディウルスは、「お前にだけは言われたくない」と苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。




